第1話 少年には向かない職業

 彼女の囁き声が、耳の奥から消えない。――自分で自分の人生を思い通りにできるなんて、まだ思っているの?


 オレンジ色の作業着を着用した相良さがらりゅういち望月もちづきたかしは、機材を積んだワゴンをゆっくりと転がしながらホテルの廊下を前進していた。

 空調の調子が悪いのか、廊下の空気は肌寒いのに妙な湿り気を帯びていた。品が良いとは言えない壁紙に、けばけばしい色の絨毯は龍一の気分を大いに腐らせた(派手さと貧乏臭さは両立する、というのは18年間で彼が覚えてしまった悲しい真実だった)。客層も推して知るべしで、ろくな防音設備もない部屋からは明らかに怪しげな薬でトリップしているらしい男女の嬌声が漏れ聞こえてくる。

 もっとも、今日の仕事は楽な部類ではあった。一流ホテルにあるような無数の監視カメラや、警備システムに紐付けされた掃除用ドローンがあるわけでもない。プロのボディガードが鋭い視線を周囲に注いでいるわけでもない。少なくとも目的の部屋までは、何の障害もなしに済むわけだ。

 目的の部屋まで来た。ワゴンからガスマスクを取り出し、深々とかぶった後でずれて視界をふさがないか確かめた。ゴム手袋も両手にはめる。

 戦闘開始だ――互いに無言で頷き合い、ドアをノックする。

 わずかに客室のドアが開き、妙に眉毛の薄い男がドアチェーン越しに胡乱そうな視線を投げかけてきた。特に凶悪な顔つきをしているわけでも、柄の悪い服装というわけでもない――だが男が無言の内に発する、親しみや優しさとは無縁の冷え冷えとした気配は龍一の警戒を強めた。たぶん「同業者」――暴力で三度の飯を食っている手合いだろう。

「どうもー、お世話になってます。〈ミマナ消毒サービス〉のです。502号室の高橋祐樹様でいらっしゃいますね」

 崇はいかにも愛想よく笑いかける――と言っても、ガスマスク越しにではあるが。案の定、男が感銘を受けた様子は欠片ほども見えなかった。

「確かにここは502だが、頼んでねえし、高橋なんて知らねえよ」

「えぇー、失礼ですが高橋様でいらっしゃいますよね」

「違うっつってんだろ。痛い目見てえのか」

 声を張り上げたわけでもないのに、男の薄ら寒い雰囲気が一層強まった。市井の人々ならそのまま回れ右しかねない声色だ。

 だが龍一も、そして崇も市井の人々ではなかった。

 怯む様子もなく崇は、やや声のトーンを落とした。「なああんた、ヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』って読んだことあるか?」

「……あ?」

 突拍子のない質問に男が怪訝な顔をする――その隙に、死角から忍び寄った龍一のボルトカッターが、鈍い音を立ててドアチェーンを切断していた。弾け飛んだチェーンに男が目を剥いた瞬間、崇が力を込めてドアノブを引いた。バランスを崩した男にのしかかり、龍一は喉をボルトカッターのハンドルで力一杯締め上げた。男は必死にもがくが、この体勢から龍一の腕力を振りほどけるものではない。

 声も上げられず男は昏倒した。室内に引きずり込み、気絶しているのを確かめて床に転がしておく。

 崇が肩をすくめる。「俺ぁ、あれを読んでベンヤミンは阿呆だなと思ったよ。『神的暴力と神話的暴力』なんて、んなこと考えながら人を殴れるかよ」

「聞こえてないだろ」

 ワゴンもそっと引き込み、靴のまま室内に踏み込んだ。崇とは事前に手順と役割分担を話し合っている。一つ、深呼吸してから寝室へのドアを開けた。

 廊下同様に安っぽい調度しかないホテルの一室に、想像していた通りの――楽しくない――光景が広がっていた。入口の男と似たり寄ったりの顔つきをした男2人が、ソファにもたれかかったスーツ姿の男の傍らに屈み込んでいる。ぐったりした男の喉には細長いチューブが押し込まれており、その端は小型の手押しポンプにつながっていた。さらにその周囲には半ば空になった高級そうなウィスキーのボトルが数本転がっている。とどめとばかりに男の一人は、何かの薬液が入った注射を手にしていた。

 どうひいき目に見ても「訳ありの死体」の製造現場といったところだ。

 振り返った男2人はガスマスク姿の龍一たちを見てぎょっとしたが、次の瞬間、誰何すらせず懐へ手を突っ込んでいた。銃か、刃物か――暴力のプロとまではいかなくとも、セミプロではあるようだ。

 だが、崇の構えたフラッシュライトが強烈な光を瞬かせる方が遥かに速かった。

 室内の人も物も真っ白に染め上げる閃光が立て続けに明滅し、男たちは抵抗すらできず呻いて顔を覆う。その隙に龍一は腰のホルスターからスティックを引き抜き、一呼吸で距離を詰めていた。長さおよそ30センチ、ナノカーボン製。まるで気体のように軽いが強靭で、床に叩きつけたぐらいでは決して折れない。

 もちろん、人の腕に叩きつけても折れない――

 男たちの喉から、濁った悲鳴がほとばしった。得物を取り出そうとした彼らの手首は、関節とは逆の方向に折れ曲がっていた。別に面白くもない光景なので、左右の手で男たちの頭を鷲づかみにしてかち合わせた。昏倒した男たちが軟体動物のように力なく崩れ落ちる。

 崇がスーツの男の喉に押し込まれていたチューブを引き抜いた。げえっ、とえづく音とともに酒と吐瀉物の混じった粘液が口からあふれ出して品の良い三つ揃いの喉元を汚す。朦朧とした眼差しがどうにか眼前のガスマスクたちに焦点を合わせようとする。

「君……たちは……」

「助けに来た。立てるか?」崇が苦労して男の体を引き上げようとする一方、龍一はウィスキーの空瓶を拾い上げ、アンダースローで放り投げる。

 バスルームから走り出ようとした男の顔面に命中した。どしゃ、と男はオーバーな仕草一つなくあお向けに倒れる。男の手に小型の電動丸ノコが握られていたのを見て龍一は溜め息を吐く。ここで「解体」するつもりだったのだろうか。乱暴さでは俺たちとどっこいどっこいだ、と思う。

 様子をうかがってみたが、警報が鳴りだす気配も他の宿泊客や警備員がやってくる気配もなかった。どいつも脛に傷持つ身だからだろうが、好都合ではあった。

「ここじゃまともな治療は無理だ。移動するぞ」

 龍一は頷いて男のもう片方の腕に手を回し、生臭さに顔をしかめた。


 ワンボックスカーのハンドルを握る崇の運転は確かだったが、残念ながら快適なドライブとは言い難かった。

「……なあ、窓ぐらい開けてもいいだろ? 臭いすごいぜ」

「我慢しろ」返す崇も苦い顔だ。「盗聴対策にノイズジャマーを車体全体にかけてんだ、開けたら台無しだろうが」

 後部の積載スペースからはカーテン一枚隔てて、ひっきりなしに水音と何かが落下する音が聞こえてきている。

「……まあ、気持ちはわかるがな。スカトロ動画の撮影に付き合わされてる気分だ……」

「助けてもらって何だけど、音姫ぐらいは用意してくれなかったのかい? それにこの携帯式のだと、車が揺れるたびに中身が漏れそうに……」

「いいから黙ってひり出せよ」カーテンの向こうからの情けない声に、崇もうんざりした調子を隠せない。「とにかく水を大量に飲んで新陳代謝を良くするんだ。『酒とドラッグの併用による心不全』なんて言い訳のついたホトケになるよりはましだろう」

「いろいろな意味で忘れられない夜になりそうだよ……」

「だが明日の朝飯はたぶん、あんたが食ってきたものの中で一番美味いものになるはずだぜ」

 少しの間、沈黙があった。「僕は、これからどうなる?」

「詳しくは言えないが、安全な場所だよ。明日朝には証拠をそろえ、警視庁と東京地検特捜部に証拠を提出する。それから、奥さんも無事だ。面会は少し先になるがな」

「……ありがとう。君たちが誰かは教えてくれないんだな。命の恩人なのに」

 龍一は首を振ったが、相手からは見えないのを思い出した。「ありがとう、って言ってくれただろ。それでいい」

「当然だな。道であんたを見かけても知らん顔だ。それが一番いいのさ……肝心のブツは?」

「そのケースの中だ」カーテンの中から突き出た腕が指さす。「1126で開く。妻の誕生日だ」

 ごちそうさま、と呟きながら龍一はケース側面のテンキーを操作した。圧縮空気の漏れる微かな音がしてケースが開く。

 基盤の中央に位置する結晶の中に、目を凝らせばわずか数ミリの生物が見て取れた。手足の生えかけた魚に見えなくもなかったが、膨らんだ頭部にははっきりと人間の特徴が顕れていた。

 覚悟こそしていたが、胃の奥が不愉快に蠢くのは抑えきれなかった。「『奇跡のバイオチップ――欧米の科学者も驚嘆する日本のものづくり技術』か。とんだ種も仕掛けもあったもんだな……黒魔術もいいところだぜ」

 崇がくっくっと笑う。「現物さえあれば、もうどんだけ奴らが白を切ったって言い逃れはできねえな。こいつが牛や豚の子供だなんて言われて信じる奴はいねえよ」

「結局、人間の胎児以外では理論値に達しなかったんだ。証言を頼んだ『代理母』はもう消された。僕も必死で逃げ隠れしなければそうなっていただろうし、実際、追っ手は現れた。家族どころか誰にも行方は教えなかったのに……」

「業者どころか生産ラインの責任者、さらにGOサインを出した社内管理職レベルまで一網打尽にできる。それにしてもあんた、危ない橋を渡ったもんだな」

 カーテンの向こうの声が、躊躇ってから口を開いた。「僕は……もうすぐ父親になるんだ」

「それを悪事に加担する言い訳にはしなかったんだな」珍しく笑いのない調子で崇は言った。「偉いぜ、パパ。その気持ちを忘れんなよ」

 カーテンの向こう側から、押し殺した泣き声が聞こえてきた。龍一はそちらを見ないよう、窓の外の闇に目を凝らした。


「……はい、こちらで確保しました。約束通り〈ハリウッド・クレムリン〉経由で入金します。お疲れ様でした」

 女は受話器を置き、傍らの少女に微笑みかける。「終わりました」

「うまくいったんですね? よかった。あの2人の『野蛮人の儀式』が成功しないと、こちらもどうにもならないもの。百合子さんだって困るでしょ?」

 快活そのものといった声に、百合子と呼ばれた女は苦笑する。「実際には、もう2、3ほど手があります。でも今日はそれに頼る必要もなかったみたいです。そういう意味では、幸運でしょう」

「これで違法バイオチップの流通ルートも一網打尽ですね……」

 百合子はそっと吐息を漏らした。「国内ルートの一つを潰しただけです。貧困のあまり胎児を売買する女性がいなくなるわけでもなければ、違法と知りながらそれに手を出す研究者や企業がなくなるわけでもない」

「でも警告にはなった。誰も手出しはできないとたかをくくっていた連中の横っ面を張り飛ばしたぐらいにはなった」少女は笑って小首を傾げる。「次は何をします、百合子ゆりこさん?」

「それについても、もう5、6ほど考えているのです。手伝ってくれますか、なつさん?」

「ええ、喜んで」

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