第0話 龍は舞い降りた(エピローグ、あるいは次の犯罪に向けての間奏曲)


【……真琴かい?】

「うん。久しぶりだね、父さん」

【本当だ。済まなかったね。もっと早くお前と話すつもりだったんだが……それに、お前にも怖い思いを沢山させてしまった。本当に済まない】

「うん……でも、何とかなったから。いろんな人に助けてもらって」

【そうか。よかった。……よかったよ】

「うん。……父さんの方はどうなの?」

【事情聴取が一通り終わったら、南米へ取材に行く予定だ。ほとぼりが冷めるまで帰ってくるな、ということらしい。旅費や取材費は出してくれるそうだし、元々フリーの身だ。否応もないさ」

「そう……」

【……真琴。一緒に来ないか?】

「え?」

【母さんと離婚した時は、お前の気持ちを二の次にしてしまったことは確かだ。今度は、お前の好きにしていいんだ。日本にいる時ほどあくせくはしないつもりだし、一緒にいる時間だって】

「せっかくだけど、父さん。僕は母さんと日本に残るよ。……興味がないわけでもないけど、南米へ行くのは日本で充分生きてからでも遅くはないと思うんだ」

【……そうか。そうだな。わかった】

「ねえ、父さん」

【何だい?】

「僕はやっぱり父さんの子だよ。鏡を見て、最近特にそう思うようになったんだ」

【そうか? 女の子なら、母さんに似ていた方が嬉しいんじゃないのか?】

「そうでもないよ。やっぱり似てるよ。不機嫌な時の眉間の皺なんて特に」

【ははは……こいつめ】

「元気でね」

【ああ。お前もな】


 大迫の首がひび割れた路面の上に落ちて湿った音を立てて転がり、驚愕に目を見開いた顔を斜め上に向けて止まった。恐怖も苦痛もなく、ただ純粋な驚きのみがそこにあった。自分が死んだことが信じられないかのように。

「……苦痛なき、眠るがごとき死を、君が迎えられたことを祈る」

 手首へ〈糸〉を巻き戻しながら、〈ヒュプノス〉の端末たる青年は呟いた。祈りも、黙祷も捧げない。代わりに必ずそう呟くべきであるというのが〈総体〉の意思だった。

 数度、軽く手を打ち合わせたのは恰幅のいい身体を仕立てのいいスーツに包んだ壮年の男だった。海からの風がまともに吹き込む深夜のビルの建築現場、それも資材のみが置かれた閑散とした光景には似つかわしくない男だ。

「さすが〈ヒュプノス〉、噂に違わぬ見事な腕だ。あなたたちに依頼して正解でしたよ」

 よく日に焼けた、えらの張った精力的な顔立ち。ただほとんど光を映していない右目だけが、男の容貌をややアンバランスなものに見せていた。義眼かも知れない。

 林永成、というその名が本名なのか彼は知らず、興味もない。

「そちらが満足しているということなら、僕たちの方から付け加えることは何もない」

「大いに結構ですとも。密室殺人だのアリバイ工作だの『凝った殺し方』に大して旨味はありませんからね。人気のない路地裏で後頭部をがつんとやった方がよほど手っ取り早い――それも十人近くをわずか一日で一度に、となれば〈ヒュプノス〉に依頼するというのは手ではあります」

「その理屈で行くと、あの親娘も対象になるのだけど?」

「新田親子は高塔家当主の庇護下に入ってしまいましたからね……現状の取引先と事を構えるのは本意ではありませんし、何が何でも殺したい存在というわけでもありません。『知りすぎた男たち』に比べれば」

 林が「運び出せ」と命じると、奇妙に表情の乏しい作業服の男たちが死体袋へ首のない死体を詰め始めた。

「密出国が聞いて呆れる。大した片道切符だ――初めから彼らを生かしておくつもりはなかったんだね」

「〈ヒュプノス〉の形成する人格共有インフラを解明するのは、困難ではあっても不可能ではない。こちらには時間と、優秀な科学者たちがある。秘密を知る者は独りでも少ない方がいい……といういつもの理屈ですよ」

「その果てにあるものは何だ。15かい?」

 林と名乗る男は軽く口元を綻ばせた。「いかに慈悲深い権力者であろうと、自分に弓引く者を事前に排除できれば、と夢想しない者はいませんよ。この国、この街で収集される〈ヒュプノス〉の生体データは、その相応しいテストケースとなるでしょう」

「波打ち際に捨てられた海豚のごとく死体の山をうず高く築こうとも、ね」

 林はややわざとらしく目を丸くして見せる。「おや、〈ヒュプノス〉に似つかわしくないウェットな反応だ」

「別に異論があるわけではないよ。国家は惨いものと決まっているからね……ただ、あなたたちが彼らを骨の髄までしゃぶった、ということは覚えておくよ」

「骨を活かす料理なら、丸かじりよりもスープにする方が好みですがね」軽くいなした後で、林は口調を転じた。「いかがでしたか? 『彼』との再会は」

「初めて会った時から何も変わっていない……彼は相変わらず愚直だ。もう少し苦痛の少ない人生で大きな成功をつかむこともできなくはないだろうに……羨ましいし、妬ましいし、そしてやはり羨ましいよ」

「因縁の相手ですからね」

「言葉にするとずいぶんと安っぽいな。彼の死を偶然には委ねるつもりはない、というだけのことだよ」

「彼を殺すのはあくまでもあなた自身だ……と?」

「そこまでは言わない。ただ、彼が僕の知らないうちに死んでいるという考えは、あまり面白いものではないね」

「それは〈ヒュプノス〉総体としての意見ですか? それともあなたの?」

 立ち去りながら、〈ヒュプノス〉の端末たる青年は軽く肩をすくめた。「ご想像にお任せするよ」


「最近思うんだけど、私、自分のやるべきことをまだ充分にやり尽くしてない気がするのよ」

「はん?」肉を切りながら龍一は思わず聞き返してしまった。百合子がささやかな好意として用意してくれた、遅めの夜食である。

 夏姫は口の中のサラダを咀嚼し終えてから話し始めた。妙なところで育ちの良さが出る。「私のやっていることって、要するにドローンオペレーターじゃない? 電子錠を解錠したり監視カメラにインタラクトしたり。でもそれ、ドローンオペレーターを連れてくれば済む話でしょ?」

「それで充分助かってるんだけどな。俺も望月さんも、ごろつきの顎を蹴り上げながらハッキングするなんてとてもじゃないけど無理だし」

「あら。私があなたたちの『チーム』に加わった時に比べるとずいぶん好意的になったのね」

「混ぜっ返さないでくれ。あの時は君の実力が未知数だったからだ。今は疑っちゃいない」

 夏姫はくすくす笑ってから、急に真面目な顔になった。「何ていうのかしらね……私が本当にやるべきことに比べたら、今は核融合炉で目玉焼きを作っているような気分になるのよ」

「俺より先に百合子さんにはもう相談したんだろ?」

「それについてはもう考えてあるみたいなことを言っていたけど……いやあね、龍一の意見をすっ飛ばして決めるわけがないじゃない」

「何を今さら。やりたいようにやってみろよ。どうせ一度腹を決めたら、俺が何と言おうとつもりなんだろ?」

 夏姫は心底嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。龍一が落ち着かなくなるほどの笑みだった。「だいぶわかってきたじゃないの。

 龍一は肉切りを再開したが、先ほどよりうまくいかなかった。

「終わったぞ……問題は山積みだが、片づけるにしても明日からだ。俺も何か頼んでいいか?」上の階からテシクが降りてきた。さすがに疲労の色が濃い。

「お疲れ様。悪いね、先に食ってて。……夏姫、そっちのメニューくれ」

「俺の仕事は終わった。ご当主と崇はまだ話があるみたいだけどな。気を遣わず早く寝ていいぞ」

「ここのご飯、お値段の割にお得感があるわね。はいこれ。龍一、ドレッシングくれる?」

「腹減ってるから余計にな。あいよ、俺もう使わないから好きなだけ使ってくれ」

「……お前ら熟年夫婦みたいな息の合い方だな」


「しかし、さすがに肝を冷やしました。この街じゃ汚職警官ぐらい不思議でも何でもありませんが、〈ヒュプノス〉が出張ってくると笑ってもいられない」

〈ホテル・エスタンシア〉の最上階、VIPルーム。百合子へ一通りの報告を終えた後で、崇はしみじみと呟いた。

「あなたたちには、想定以上の負担をかけたようですね。本当にお疲れ様でした」

「俺もあいつも、自分から選んで苦労しているようなもんですがね」

 崇は一礼した。舞台は終わり役者たちは退場し、その後片付けを百合子が引き受けるというなら異存はない。御心のままに、という気分だ。

「それにしても仕返しに来たにしちゃ、ずいぶんあっさりと引いたもんだ。率直に言って〈総体〉が文字通り総力を上げて俺たちの抹殺にかかったらひとたまりもありませんよ。どころか、ただの人間と潜在的な〈ヒュプノス〉の見分け方すら不明なんですからね」

 応えようとして――百合子は珍しく口ごもった。「そのことで話しておきたいことがあります。ただし、龍一さんや夏姫さんへの口外はまだ控えてください。いずれ話すにしても、その時期は今ではありません」

「わかりました」崇は大人しく頷いた。百合子が「話さないでください」と言ったら、その通りにしておいて損はないからだ。それにどうせ心温まる話でもないだろう、と踏んだせいでもある。

 百合子は片手を振った。デスク上に映像が投影され、光の点と輝くワイヤーで構成された幾何学模様を宙に描き出した。非常に複雑なクラウドネットワークをCG化したようにも、あるいはもっと有機的な生物の器官のようにも見える。

「これは? ……脳の配線図ですか?」

「なかなか的を射ていますね」百合子は薄く笑う。「これは、現在日本国内に存在する〈ヒュプノス〉の、その端末たちのです」

 崇は改めてその図を凝視した後で百合子の顔に目をやったが、その白く整った顔に面白がるような気配こそ浮かんでいたものの、冗談を言っている気配は皆無だった。

「それがここにあるってことは……」

「ええ。これが〈総体〉との合意の証です。国内での彼ら彼女の活動を黙視する代わりに、これらを提供すると」

 異様な音を聞いた――自分の喉が鳴る音だった。

「さすがに『仕事』に関する情報はオフラインですが、それ以外、各〈ヒュプノス〉の端末たちが日々受け取る視覚・聴覚情報に限定して提供する、との条件でまとまりました。もう少し早く合意に達していれば、真琴さんを巻き込むことも龍一さんを危険にさらすこともなかったのですが」

「……まさか」崇はそう口走ったが、自分が何に戦慄を覚えたのかはわからなかった。ただ目の前の女が、何かとんでもないことを言おうとしているという確信だけははっきりとあった。

「ほとんどの〈ヒュプノス〉は自覚すらないまま、市井の人々として日々を送っています。その五感を応用したら、何ができると思いますか?」

「……奴らが生きたインフラとは言え、よく同意しましたね」

「それなりの旨味があると判断したからこそでしょう。彼らはこの国での足掛かりを得、そして引き換えに私たちが手に入れるのは――警察・軍・情報機関すら射程に収める、です」

 百合子はもう一度、宙に向けて手を振った。「そしてこれがその成果です」

 幾何学模様が無数の光の点となって消え、一瞬後、崇と百合子の眼前にリアルタイムの動画を宙に描き出した。

 

 ほとんど息をすることすらも忘れて崇はそれらの動画に見入った。今この瞬間も歩き、誰かと会話をし、PCの画面を睨み、食事を口に運び、異性あるいは同性と交わり、眠れずに悶々としている誰かの視覚が崇の眼前に送られてくる。得体の知れない方法で増え、蠢き続ける各〈ヒュプノス〉たちから。

「……目指すはビッグブラザー、ですか」笑い飛ばそうとして、喉の奥で笑声が引っかかった。

「まさか。未真名の市長ですら、私には荷が勝ちすぎます」

「こいつをリアルタイム監視しようとしたら、眼球を十万個に増やすか、何万人単位でオペレーターを雇う必要がありますよ。先に言っときますが俺はごめんです。日本国民全員のなんて悪趣味極まる」

「さすがにそれは無理ですし、何より人間業ではありません。それに、生身の人間にこだわる必要もないのです」

「……〈オラクル〉ですか? しかしあれは……」

「真琴さんが破棄したのはハードウェアであって、〈オラクル〉は未真名市のインフラストラクチャ内に生存しています。どのようにか、までは教えてくれませんでしたが。彼――あるいは彼女は、私に手を貸してくれるつもりらしいです。休まず、眠らず、選り好みをせず」百合子は大真面目な顔で呟いた。「給料もいらない、とのことですが、何らかの報酬は考えた方がいいでしょうね――将来的にはAIの人権も取りざたされる可能性がありますから」

 崇は溜め息を吐いた。別に何かの勝負をしていたわけではないが、完敗、という気分だった。

「最後に一つだけ、質問させてください。こいつを使って、ご当主は何を?」

「私の望みは唯一つです」百合子の笑みが満面に広がった。それなりに長い付き合いになる崇でさえ、滅多に見られない笑みだった。「前人未踏の地テラ・インコグニタ

「……面白れえ」崇は少し笑った。自分の声がかすれていることに気づいたが、だからどうした、とも思った。「こいつであなたが何をするか、見せてもらいますよ」


「構築には失敗したか。ならそれでいい」報告を聞く男の声は素っ気なかった。「失敗したなら失敗したでやりようはある。そもそも計画には破綻が付き物だ……予想外の出来事が幾つか起きた程度で破綻する計画など、精神の在り様で全てを打破できると考えるのと同程度には馬鹿らしいものだからな」

 傍らでタブレット端末を手に報告する、金髪の若い女性秘書は躊躇いがちに言った。「しかし、よろしいのですか? 統一された意思の下に動く〈ヒュプノス〉にが見えるというのは、何と言いますか……異様です」

「問題はない。そもそもあれは私のコントロール下にはないのだ」男は微かに幾重にも皺の寄った瞼を上げた。「中国側の意図も、現状こちらの阻害要因とはなっていない。――それが私の目指す未来像だ」

「犯罪者たちがそれに従うでしょうか? 彼らはそもそも法を逸脱した存在であるのに」

 男は頷いた。「従うとも。法を逸脱した者ほど、自らを戒めるより大きな、より強固な規範を必要とする。幼子が母親の乳を求めるより切実に。完全な自由に耐えられるほど、人間は強くも賢くもないのだ」

 肘掛けを握る手に力がこもる。「彼らには、自らを縛る鎖を売りつけてやる。そしてその鎖の端は、私が握るのだ」

 秘書は深々と一礼した。「猊下の御心のままに。〈黙示録の竜〉と〈バビロンの大淫婦〉に死を」

「……為すべきことは全て為そう」

 世界でただ一人〈全ての犯罪者たちの王〉と畏敬を持って語られる男は、夢見るように、詩を諳んじるように呟く。

「山を削ろう。海を干上がらせよう。世界中の富をかき集めよう。貧しき者を黄金で飾り、富豪の首をバルコニーから吊るそう。空という空を人焼く煙で汚し、あらゆる街と港を燃やし尽くそう。男も女も、老いも若きも、幼子も乳飲み子も、職業も貴賤も問わず、名もなき者の屍を、堆肥の山のごとく積み上げよう。

 何も惜しくない、何も欲しくない。私は他に何も望まない。為すべきことを為さずに死ぬことに比べれば、苦にも思わない。それでお前たちが殺せるならばそれでいい……〈黙示録の竜〉、〈バビロンの大淫婦〉よ」


「彼らの邂逅は近い――と、の」

 明暗も、上下左右も、過去か未来なのかさえ不明な空間。

 全身を白の装いで統一した青年が、まるで夢を見るような眼差しで呟く。

「どちらが勝とうと、実に見ものじゃないか。そう思わないかい、相良龍一君?」

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