第7話 大人な僕と無垢な夢魔 後編
「私にとっての大人は、抱えている闇の大きさとそれを受ける器があることかな」
「闇?」
僕が2本目のビールを楽しんでいる間に、ミカヅキは既に3杯目となる梅酒を飲み終わり、次のハイボールを作り出した。ペースが速い。
「そう。嘘とか、隠していることとか、なんでもいいよ。要は後ろ暗いことだよね。ふとした瞬間に罪悪感を覚えること。大人ってさ、謝っても許されないことを何かしら抱えてるものだと思う。子供はさ、それでも何とか謝って許してもらおうとするんだけど、それって結局、自分は最終的に楽になれても周りは幸せになれないわけ。だから、大人は生涯の秘密として抱えて死ぬ覚悟を持つの。そうやって抱えた闇の量でその人の大人らしさは決まるんだ」
「なるほど。器っていうのは?」
「それは簡単だよ。闇に見合った器が無ければ、人の心はあっさり壊れるから。抱え込んだ闇に染まってしまう。そうなってしまえば、その人はもう大人ではいられない。そういう意味では、その器の方こそが大人の証明と言ってもいいのかもしれない」
――器こそが、大人の証明とミカヅキは言った。
「器。よく聞く単語ではありますね。人としての器ってやつ。多くの場合は「器が小さい」って指摘することで相手の狭量さを示そうとして、発言した自身の自己紹介になっていることが多いですが。本来、自分には分からないことなんでしょうね」
僕は心の中の器を思い浮かべようとした。角皿、丸皿、深皿、浅い皿、茶碗、湯飲み、場合によってはシャンパングラスみたいにもろいものもあるかもしれない。そうやって考えてみると案外心のイメージを表現できることに気付いた。ガラス製なら見通しは良いけど脆いだろうとか、浅い角皿は受け止められる量は少ないけれど表現豊かだろうとか、考えてみると少し面白い。
「ところで、この質問って」
「はい?」
もしミカヅキの心を表現するならば、綺麗に磨かれたデカンタだろうか。きっと血のように赤いワインが触れると痛いくらいに氷で冷やされている。なんて考えていた僕に対して、ミカヅキが尋ねる。
「毎回どこから調達してくるの? 教えてくれないなら別にいいけどさ」
「守秘義務で言えないですね」
ハイボールを当てて真っ赤になった頬を冷やすミカヅキに僕は首を振った。
「守秘義務? 他の仕事先ってこと?」
「それ言ったら同じバイト先のミカヅキさんには分かってしまうじゃないですか。――ほとんど人のことを気にしないミカヅキさんが、質問の調達先を気にするのは珍しいですね。なんか気になることでもありました?」
「……いや、もし今までの質問がすべて同じ人物から出たんだとしたら、少し出題傾向が、昔の自分とだぶるなぁって思って」
「そうなんですか?」
ミカヅキとツキヨは似ている。それは僕も考えていたことだった。けれど、ミカヅキが質問だけでそれを感じ取れるとは思わなかった。
「うん。私も昔、同じことを考えていたんだよ。キスって気持ちいいのかなーとか、愛って何なんだろうとか。まあ、アカツキ君は私の過去話を知っちゃってるから分かるかな。前話した私の暗黒時代の話だよ。今も変わらないっちゃ変わらないけど、あの時の私はことさら真っ白だったからさー、もう白くて白くてたまらなかったよね。せめて青かったならどんなに良かったか――と、まあ愚痴になっちゃったけど。別にこの二つまでは看過出来てたんだよ。まあ、割と誰でも不思議に思うことだろうし。だけど、三つ目まで符号しちゃうとおかしいな、って思うんだよ。私みたいな変わった生き方してきた人間と同じような考え方をする人間が他にも居る、ってそれはもう地獄みたいな話だしさ」
ミカヅキの言葉に僕は少し頷き考える。確かに、ミカヅキの過去はそうそうあってはいけないものだ。僕はそれをミカヅキ本人の口から聞いて強く思った。こんなに悲惨な人間が居るのか、と自分の楽な生き方を恥じたくらいだ。確かに、そんな人間複数人居てはならないと思う。
「だからさ、少し勘ぐっちゃって。ねえアカツキ君。その子って女の子?」
「……答えられません」
「いいよ。勝手に聞くから。その子って変わり者じゃない?」
「……」
「その子、何か問題を抱えてないかな? 自分じゃどうしようもできない何かを抱えちゃってないかな?」
「……分かりません。僕には何も」
「本当に? アカツキ君がわざと気づかないふりをしているだけじゃなくて?」
「そんなことはしていません。少なくても、今の僕には分かりません」
「そっか。ならいいや。でも、私はやっぱり気になるから、これだけは言っとくね」
ミカヅキは居た堪れないといった物憂げな表情を僕に向けてこう言った。
「その子のこと、大事にしてあげて。アカツキ君は自分に抱えきれないものに一線引くところがあるよね。それは正しいよ。大人として正しい。大人は抱えきれない仕事は抱えるべきじゃない。だけど、これは仕事じゃないからさ、もしその子が私と似たようなことになっているなら、助けてあげて。私はもう、私みたいな生き方をする人を見たくない」
「……あの子がミカヅキさんと同じ境遇とは思いませんが、肝に銘じておきます」
「うん、お願いね」
ミカヅキさんが4杯目のハイボールを飲み終わり、氷が音を立てた。話はこれでおしまい。思ったよりも早く終わったな、と僕が席に立つと、ミカヅキは「もう一つ」と話を切り出した。
「大人が楽しいか、という話だけど」
「あ、忘れてました。どうですか?」
「楽しくないよ。全然。抱えたもののせいで毎日罪悪感に苛まれて、それでも寿命をまっとうするために懸命に歩き続けて、辛くて辛くて仕方ない。投げ出したくって仕方ない。だけど、器が壊れてしまうと人は抱え込んだ闇のせいで、もう表の世界に出てこられなくなっちゃう。それは精神的な死だよね。だから、肉体的に死ぬか精神的に死ぬかと考えて、たいていの人はどちらも死にたくなくて結論を先延ばしにするんだ。私なんかは結論を出してしまって、亡霊みたいなもんになっちゃったけどさ」
精神的に死んでしまって、ここにいるのはその残滓みたいなもんなんだけどさ、とミカヅキはぼやくように言った。僕はその言葉をあえて聞かなかったふりをした。
「アカツキ君が、どんな結論を出してその子に伝えるかは知らないけど、だけど、お願いだから嘘だけはつかないであげてね。その嘘は多分、たやすくその子を死に至らしめるよ。肉体的か精神的かは知らないけど、確実にその子を限界以上に追い詰める。だから、よく考えてね、アカツキ君。君だって大人の端くれなんだから」
「分かりました」
ご馳走様でした、と僕は500円を机の上に置いた。ミカヅキさんが僕にひらひらと手を振った。僕は一礼をしてミカヅキの部屋を後にした。
――彼女は今晩も誰かと一つになろうとするのだろうか。醜い自分を忘れるために。
そんな感傷的なことを柄にもなく考えながら、僕は夜空の星を眺めた。
嘘みたいに星が綺麗な夜だった。
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