第3話 大人な僕の大人な先生 後編

「結論から言おう。アカツキ君、大人とはつまらないものだよ」

「なぜですか?」

 ツキヨの個人情報を守るために紆余曲折した僕の冗長な説明を受けながら、使用したビーカー類の洗い物を終え、インスタントコーヒーを自分と僕の二人分淹れてからデスクワークに移行したアサギリ教授は、はっきりと答えを述べた。

 この問題に対する答えを明言する人がいるとは思っていなかった僕は面食らった。

「なに、基本的に概念に対する定型の答えが無いのは確かだが、これはそもそも概念への回答ではなく、その問題の在る次元への回答だ。つまり、大人という存在は楽しいとかつまらないとか感情で述べられるものではないのだよ。だから、楽しいか、と聞かれればそんなことは無いと答えざるを得ない。詳細がどうであっても楽しいかという質問にNoと答える以上、それはつまらないということになるだろう?」

「YesかNoの二択で答える以上、Noでしかないということですか」

「その通りだ。もし、詳細を述べてほしいのであれば答えるが、どうするかな?」

「流石にその答えだけでは納得できないので、お願いします」

 ふむ、とアサギリ教授がコーヒーを飲み下した。アサギリ教授の好きなトッピングはグラニュー糖を5本、計15g、ミルクは入れない。以前僕が真似したときは甘くて飲めたものではなかったが、アサギリ教授は脳への栄養としか考えていないのか、すっかり慣れた様子だった。

「では、せっかくゼミの生徒が居るのだから、軽い講義形式で説明しよう。アカツキ君、私の質問に君の思う通りに答えてくれ。教科書的な回答は要らないよ。では、質問だ。

「道具を使うところ、ですかね?」

「そうだね、人は道具を使う。では、なぜ人は道具を使えるのか? 自信が無くてもかまわないからしっかり答えなさい」

「……考えられるからです」

「うん。では、人は考えることが出来るようになって、他の生物が持つ生物として当然の事を忘れてきているのだけれど、それは何だと思う?」

「本能、です」

「かなり答えに近づいてきたね。つまり、本能を捨て、何かを得たものが人間という存在なんだ。その何か、はもうわかるかな?」

「理性ですか?」

「その通り。人間らしさとは理性があることを指す。ほら、よく道を外れた人に対して言うだろう? 獣のようだ、とか。あれはあながち間違いじゃないんだ。人が人であるためには最低限必要な理性があるんだ。つまり、んだよ」

 確かに、と僕は納得する。もし人に理性が無ければ、人はここまで進化することは無かっただろう。食欲、睡眠欲、性欲が人の持つ本能というものであり、理性が無い状態でそれに従っていたら。人は地球上のすべての生き物が滅ぶまで食欲を満たし、寝たいときに寝て、場所を選ばず性交に及ぶかもしれない。そんな状態で今の複雑怪奇な社会を組み立てられるほど、人は本来賢くないのだ。

 本能を捨てたからこそ、人は文明を得たんだ。

「その生物らしくなることを大人になるというならば、人間らしくなることは理性を持つということだ。簡単に言えば、なんでもかんでも我慢できるようになることだね。だけどね、アカツキ君。では、子供はどうだろう? 彼らは理性を持たないわけじゃない。けれど、大人とは違うだろう? 一体、大人と子供では何が違うと思う?」

「……我慢の質が違うと思います」

「具体的に何が違うかな?」

「子供は外から言われる意向に対する我慢、大人は内から言われる自分自身の欲求に対する我慢、ですかね」

「うん、概ね正解だよ。人である以上、人はみんな何かを我慢して生きているんだ。断言するよ。生きている中で何かを我慢していない存在は人では無い。それらは人の皮を被った化け物だ。決して信用してはならないよ。何か危害を加えられたら考えることなくまずは逃げなさい。これはアカツキ君よりも大人な私からのアドバイスだ。……と、話がそれたね。回答としては以上で良いかな? それはつまり我慢することが仕事のようなものだから、。これが私の見解だ」

「基本的には、ということは楽しいこともあるのでしょうか?」

 僕の質問にアサギリ教授はタイピングを叩いていたパソコンから目を離し、微笑みを浮かべ、今日初めて僕の目を見て応えた。

「それはもちろん。ただ、それは自分で気づかなければならないことだ。アカツキ君はどうせこの後残りの3賢人の答えを聞くんだろうが、決してその問いを聞かないように。アカツキ君にはアカツキ君の答えがある。それを忘れてはいけないよ」

 僕は、アサギリ教授の言葉に頷いた。

「では、今日の講義はこれまでにしよう。アカツキ君の悩みが少しでも解消されていれば嬉しい限りだ」

「アサギリ教授の言葉は考えるきっかけに十分なりそうです。ありがとうございました」

 僕がお礼に頭を下げ終わると、アサギリ教授はもう話は終わった、と元通りパソコン画面にくぎ付けになっていた。僕は再度頭を下げてから踵を返すのだった。

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