第2話 大人な僕の大人な先生 前編

「おや、アカツキ君。随分眠そうじゃないか。まるで、このどうしようもなくつまらない課題をするために徹夜したかのような酷い顔だ」

「……分かってるならわざわざ触れないでくださいよ、アサギリ教授。というか、ご自身が出された課題に対して酷い言いようですね」

 ツキヨの家庭教師を終えた翌日、僕は自分の仕事を果たすために大学に顔を出した。ほとんどの講義の期末試験が終わった真夏の蒸し暑い構内にいつもの賑わいは無い。しかし、居室に居たアサギリ教授はいつも以上にウキウキした様子だった。

「やれやれ、わざわざ居室まで足を運んでくれた優しいゼミ生に冷たく当たれと? アカツキ君は随分と私のことを冷血な人間だと思っているようだね。まあ、確かに私は人一倍低血圧で体温は低いが」

 優しいゼミ生、という言葉にややトゲを感じながら僕は苦笑する。アサギリ教授は絶賛仕事中だった。生徒が少ない、つまりは邪魔者の少ない環境下でのびのびと仕事をしていた。典型的な仕事中毒ワーカーホリックだ。実は、アサギリ教授はここまで一度も僕の方に顔を向けていない。顔色の話をしたのだって、あくまで僕の行動から予測したにすぎない。彼は、僕と話しながらも目の前の実験から一切目を離さず、子供のような屈託のない笑みを浮かべ、鼻歌を口ずさみながら混合、加温、冷却、濾過ろかとビーカーワークを重ねていく。

「そんなことは言ってませんし、思ってもいませんよ。勝手にあらぬ方向に話を進めないでください」

「これは失敬、癖なんだ。ええと、何だったかな。そうだ、課題だ。別に私は自分が出した課題を舐めているわけじゃないよ。ただ、アカツキ君も私と同じ科学者の端くれを目指しているならば、分かるだろう? 調べれば答えの分かること、つまりは正解と不正解が既に明解となっている事象を面白いと感じることは無いってことを。だから、今回の課題はつまらなかっただろう? やたら手間がかかって面倒くさいだけさ。なのに、アカツキ君はなんでこんな提出期限ギリギリのタイミングになったんだい? いつもは一番に持ってくる真面目な生徒なのに。…と、うん、悪くない結果だ」

 手元を覗きみるとアサギリ教授の持つビーカーに、桃色の結晶が煌めいているのが分かった。それが成功なのか、失敗なのかは一見しただけでは分からない。科学者にとっての失敗は成功と等しく価値がある、が口癖なアサギリ教授の目が嬉しそうに細められた。

「何を言っても言い訳になってしまうので心苦しいですが、少し、プライベートで悩みがありまして、課題に集中できなかったんです」

 あの後、僕は家に帰ってから、借りていた図書に目を通し課題に取り組んだ。

 自分では集中できていると感じていたが、頭の片隅ではツキヨの質問が廻り続けていたのだろう。気づけば質問の答えを探していた。そして、すぐに答えが出ると思っていたこの問題が想定外に難しいことに気づいたのだ。資料が無くても考え付く範囲、つまりは年齢、思考、国の法律、宗教などいろいろな観点からせめていたが、いずれも答えとしてしっくりこなかったのだ。

 例えば、年齢と国の法律で考えれば20歳になれば成人とみなされるが、それは国によって異なることから一貫性が無い。かと言って、ツキヨが言っていたように子供が出来るようになれば大人かと言われればそうでもない。人間の身体が十分に成熟するのは20歳近くになるというのが医学的な通説だ。身体が未熟である者を大人と呼ぶのは抵抗がある。思考に至ってはもう何が正解か分からない。考え方が大人っぽいと言われる子供は多いが、そう言われるうちは子供と言って差し支えないだろう。他に、何か特定のことを知っていることが大人の証と言われれば、この世界にはどれだけの子供がいるか分かったもんじゃない。人は一度知ったことでも忘れられるのだから。

 考えれば考えるほど、何かが矛盾する。こうなってくると古来より存在している成人式という儀式に頼りたくなる。あれは、参加したすべての人に、個人の実績とは無関係に成人の資格を与えるために行われている。『あなたは今日から大人で、もう子供ではないのですよ』と、持っていたはずの子供の資格を剥奪するために行われているのだ。

 しかし、こんなにつまらない答えではツキヨに顔向けできない。何か答えがあるはずなのだ。そうでなければ、大人なんてつまらない概念がここまで広がるわけがない。だって、大人の持つと比べて、子供がどれだけ楽かなんて、大人になれば誰だって知る。それなのに、一体誰が好き好んで損をしたいと言うのか。僕が見る限り、大人というものにほんのわずかでも得があるとするならば、子供から大人だと思われることくらいだ。

「――悩み、か。それはよくないね。実によくない。悩み考えることはヒトにだけ許された特権だよ。だが、それをつまらないことに使うのは許されない大罪だ。ましてや、本業に悪影響を与える悩みなど言語同断だ。どうだい。その悩み、私に話してみないかな? もしかしたら、何か力になれるかもしれないよ」

 相変わらずこちらを見ないアサギリ教授だが、その声色は優しい。僕は知っている。この状態のアサギリ教授はとても楽に悩み相談が出来ることを。それはきっと、見ていないけど確実に聞いているというアサギリ教授の独特な距離感が成せる技なのだ。

「……ぜひ、お願いします」

 僕はまた、アサギリ教授の提案に乗ることにした。

 また、だ。

 アサギリ教授、彼は僕が所属するゼミの担当顧問であり、僕がこれまでツキヨから受けてきた質問をすべて相談している3賢人のうちの1人なのだった。

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