第28話
「ただいま」
玄関を開けながら誰も居ない部屋に向かい告げる。靴を脱ぐ為に紐を解くと、手の甲にやけどのような傷跡がうっすらと残っているのが目に入る。
二年前、俺は本来なら死んでいてもおかしくない量の刺胞毒を受けていた。それでも生きていたのは何らかの耐性があるのではないかと何度も病院で調べられたが、結局その原因は解らずじまいだった。
リビングに入るとふと机の上に乗せていた写真立てが倒れている事に気付く。そっと起こすとかつて遊園地で撮影した、俺と、ウツロと、コワリがぎこちない笑顔でピースしている姿が映っていた。これが、俺達三人で写した最初で最後の写真。手の平を見ると、今でもコワリの手形がはっきりと残っていた。手を握り締めると、いつの日かコワリと手を繋いだ事を思い出し、目頭に熱いものがこみ上げてきた。
今何気なく過ごしているこの日常は、散っていった数多のミニステルアリス達が心の底から欲しがった虹色の世界なのだという事を強く意識する。
「わっ!」
「おわっ! なんだ!? いつからそこにいたんだよ!?」
急に後ろから驚かされ心臓が跳ねる。
「今だよ、ちゃんとただいまっていったけど反応が無かったから」
「そうなのか、すまん。ちょっとぼけっとしてた」
「……その写真、見てたんだね。もしかして泣いてたの?」
「べ、別に泣いてはいない。少し思い出していただけだよ」
慌てて目頭をこすって誤魔化す。
「そっか。でも忘れられるよりたまに思い出して泣いてもらった方がきっとあの子も喜ぶんじゃないかな」
「そうだな。……まぁあんなにキャラの濃い奴を忘れられるわけなんてないけどさ」
言いながら笑うと彼女も噴出して、そうだね、と笑ってくれた。
「この先もきっと忘れられないよ。……ボクの最後の妹だから」
彼女は、ウツロはにこりと笑いながら言った。
ミニステルアリスには親父により設定されたテロメアにより九年、最大でも十年という寿命が決定付けられていた。それは絶対に覆らない運命だった。
だが、ハイドラマグナの因子を組み込まれたミニステルアリスであったウツロは、ハイドラマグナの遺伝子水平伝播能力を開花させた。恐らくはタタリの最後の口付けがきっかけなのだろう。
粘膜同士の接触から、他者の遺伝子を取り込み、自己の塩基配列を組み替え、現世代進化を行う。その時獲得した遺伝子水平伝播能力で、ウツロは人の遺伝子を取り込み、より人間に近しい存在になっていった。
それを知って誰よりも喜び、そして泣き崩れたのは親父だった。自らのせいで死を決定付けられていた存在が、死を覆した。それは親父にとって何よりもの救いになったのだろう。
「だがテレゴニーか。もしかするとギンジが刺胞毒への耐性を備えていたのは……まあ今更そんな事どうでもいいか。だがまぁ何ていうか、ほどほどにしとけよ」
その日の夕食時、親父は号泣した事を誤魔化すかのようにニヤリと笑って言った。
「は、はあ!? ち、違うぞ!? あれだよ、ついこう、なんていうか勢いで触れちゃってほら! なあ、ウツロ!?」
「何で嘘つくの?」
「…………」
親父の笑い声の響くリビングで俺はウツロの食事からいつまで肉を抜き続けるかを冷静に計算していた。ウツロと一緒に暮らし始めて特に何が起こるわけでもない。けれどこの普通こそが幸せだった。
ウツロたちミニステルアリスが喉から手が出るほど欲しがった『普通』。
それを今、俺たちは満喫していた。コワリを始め、多くのミニステルアリス達の命。
そして澱木博士、多くの人たちの悲しい犠牲の上に成り立っていた普通だった。電話がぴりりと音を立てる。
「はい、津田。……おお、久しぶり! 週末か? 空いてるけど、うん。……うん。わかった。え、林も? そっか久しぶりだな! じゃあ、楽しみにしてる。うん、じゃあな」
電話を切るとウツロがソファでだらけながら「誰?」と聞いてきた。
「山田だよ、週末遊びに行こうって。林も来るらしい」
「えー、ボク留守番?」
「何でだよ、お前の中の俺はどんだけ薄情なんだよ。勿論一緒だよ」
「やった」
ウツロが飛び起きる。そのままじーっとこっちを見つめてくる。
「ねえギンジ」
「なんだ?」
「ボクのこと好き?」
「どうしたいきなり」
「知らない、聞きたくなったから。返事は?」
ふわふわとした銀髪を、無言でそっと撫でた。ウツロはうー、と言ってむくれ顔を作る。
「言葉にして言って欲しいのに」
「好きだよ、好きに決まってるだろ」
「どれくらい?」
「これくらい」
両手を広げて大きく円を描く。こんな所誰かに見られたら恥ずかしさで死んでしまうだろう。
「ふふーん、そう。ギンジはボクにめろめろ、と。山田と林に自慢しよう」
「おい、お前そういうのは人に言っちゃダメだぞ」
「えー言っちゃだめなんだじゃあ嫌いなんだうわーもうダメだやる気なくなったボク出ていく」
「二択かよ! めんどくさいな! あのなそういうのは人には言わないの! 二人の内緒なの!」
「逆になんでそうなるの? 自慢したい。大好きな人に大好きでいてもらえてるって。そんな気持ちを隠すなんてやっぱりギンジは変な子だね?」
そういってウツロはからからと笑った。ウツロの笑い声に釣られて俺も笑った。
俺はきっとこの先も目の前の愛しき問題児と一緒に生きていく。ウツロと二人、ただ普通の人生を。
けれど、その普通は誰にも真似できないとびきりの普通となるのだろう。
俺たちの笑い声が響く部屋の片隅で、アネモネの華が静かに揺れていた。
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