第28話 心の傷と無用のケンカ

 結局、その場はジェハがグルトフラングの叱責だけを受ける形で収まった。団長自ら部下に挑んだ決闘も、その部下の命が1人の男によって2度までも救われたという美談も当事者の胸の中だけにとどめられ、グルトフラング傭兵団は何事もなかったかのように奇襲作戦の準備に戻った。

 クローヴィスは尻目に自らの別動隊を監督するために、まだ不機嫌そうなグルトフラングを去っていった。ジェハもまた、その2人への気まずさをくすぶらせたまま「その他大勢」の部隊へと戻った。

 未遂に終わった決闘の前には人払いがされたはずだったが、グルトフラングの一喝はどこかに漏れたのだろう、林のあちこちでジェハを待っていたのは好奇の視線と嘲笑を含んだ囁き合いだった。

「おい……」

「生きて帰ってきたぜ……」

「逃がしてくれたんだろうよ、あの……」

「髪の毛キラキラのオカマ野郎……」

「いや、それはあの……」

 その囁き合いが次第に猥談の響きへと変わっていくのを感じたジェハは、たまたま目についた数名が固まってしゃがみ込んでいるのに憤然と歩み寄った。

「俺がどうしたっていうんだ」

 そばかすだらけの若い男がにやにやと目をそらした。背の低いジェハは、さらに小さくうずくまる背中を鼻で笑って見下ろす。

「言いたいことだけ言って逃げんのかよ、子供みたいに」

 団子っ鼻をした別の男が馬鹿丁寧な口調で横槍を入れた。

「そのお子様みたいに3日もかくれんぼをなさっていたのはどこのどなた様で?」

 いやらしい笑い声がジェハを甲高く取り囲んだ。

 この3日間は、死に物狂いの戦いが続いていたのである。その相手もラミア、瘴気鬼、ヴェーリザード、床下からの触手と、生身の人間ではなかった。村の暴漢たちを除けば、命を危険にさらす戦いだったと言える。決して傭兵団に恥じることはなかった。

 それだけに、その傭兵団の内輪でコケにされるのは我慢がならなかった。ジェハは興奮で顔の火照りのを感じながら、声を荒らげた。

「逃げてたわけじゃない!」

 だが、ムキになればなるほど、その怒りは男たちの軽蔑をあおる結果となった。唇の分厚いのが、その隙間から揶揄の言葉をぼしょぼしょと漏らす。

「二晩も何やってたんだ」

 再び卑猥な笑い声が上がった。ジェハは一瞬だけ戸惑ったが、その意味することが分かって逆上した。

「お前らの知ったことか!」

 脳裏に蘇ったのは、あの見世物小屋での最後の夜である。太った醜い男に押し転がされた忌まわしい記憶が暴れ出しそうになるのを怒号で吹き払おうとしたジェハだったが、顔のにやけた男が追い打ちをかけてきた。

「うまくやるんだな、しっぽりと」

 掴みかかりそうになるのをぐっとこらえる。ここで手を出せば、あったことをまるごと認めなくてはならなくなる。ジェハは声を低めて怒りを押し殺した。

「誰が誰と何すんだって? 言って……」

 口ごもったその先で、「みろ」とまでは言えなかった。言えば、聞きたくない言葉が返ってくるかもしれない。

 目を固く閉じ、唇を引き結んで震えるしかないジェハを、別の皮肉屋がなだめにかかった。

「いや、仲のいいことで結構だと」

 こういう場合、それが何を意味するかはジェハも知っていた。傭兵団の中で仲間にそんな素振りを見せれば命に関わるため、色町でこそこそとそう言った類の店に姿を消す者もいないわけではなかった。

 だからそういった者がどうだというわけではないが、ジェハ自身がそうだと言われるのは我慢がならなかった。

「誰がクローヴィスの何だって?」

 目を吊り上げて詰め寄るジェハにうろたえながらも、最低最悪の冗談を口にした男は、周りの傭兵の目を気にしながらおどけてみせる。誰も彼もが、知らん顔しながらも横目で様子をうかがっていた。

「いや、悪かった悪かった、クローヴィス様にもよろしく」

 そんなふざけ半分、嘲り半分、誠意など微塵もない詫び言など、ジェハは聞いてもいない。

「来いよ、文句があるんなら!」

 喚き散らしても、相手にする者などない。目の前のお調子者はというと、ケタケタ笑いながら逃げ去っていく。追いかけて走り出したジェハの目の前に、今度は大男がのっそりと立ち上がった。

「まあまあ、命あっての物種ってやつよ、俺らの仕事も」

 図体の割にはトボけた口調だった。悪気はないことは見ても聞いても分かりそうなものだったが、ジェハにはもう、それを受け入れるだけの余裕はなかった。

「命が惜しかったらこんなとこにいるもんか」

 その声は、怒った野犬の唸り声のようだった。

 グルトフラング傭兵団に入った時にはもう、惜しむべき何物も残ってはいなかった。もともと、物心ついたときから手元には何もない。

 心のどこかに残っていた最後の何かも、もうどこかに消し飛んでいた。得体の知れない恐怖と逆らい難い危機にさらされ、身を守るために人の血を流したあの夜のことである。

 最後に命だけが残ったが、それも戦場でいつ消えてなくなるか分からない。むしろ、そうなるのを望んで剣を買ったのだ。

 あの夜、失ったものの代償として手に入れた、血にまみれた金袋と引き換えに。

「いいじゃねえか、死なないで済んでるんだから」

 そうからかいながらも、男は自分の胸の辺りから見上げるジェハの眼光に怯えたのか、じりじりと後ずさる。

 2人のどちらを止めたものかは定かでなかったが、うんざりしたようにたしなめる者もないわけではない。二枚貝の殻で鼻毛を抜いていた男である。

「ほっとけ、団長にドヤされるぞ」

 だが、傭兵たちのほとんどは、ムキになるジェハをせせら笑いながら眺めているだけである。

 こうなると、もう引っ込みがつかない。全員の胸倉をいっぺんに掴めるものならそうしたかったが、ジェハがその手をかけたのはただ1人、いざこざに顔をしかめて仲裁の声を上げた男だった。

 両腕をだらりと下げたまま、鼻毛を挟む貝殻を落とした男は冷ややかになだめる。

「じっとしてろよ、坊ちゃん」

 その軽蔑の響きに、ジェハは噛みついた。それこそ狂犬のように喚き散らす。

「逃げんなよ、根性なしが」

 男が身動きもできず、取ろうともしていないのは見れば分かる。1人で荒れ狂うジェハを見つめる目つきは、まだ鼻毛を抜いているかのようだった。

「おとなしくしてるんだな、作戦前だ」

 相手は抵抗もしなければ怯えもしない。挑発してみせても、ことごとく受け流される。ジェハはさらに大げさな態度で 空しい嘲笑を繰り返すしかなかった。

「作戦前に怪我をするのが怖いってか」

 鼻毛の男は答えもしない。だが、他の傭兵たちが動きだした。座っている者は立ち上がり、立っていた者はふらりふらりと歩きだす。

 ひとり、またひとりと集まってきた「その他大勢」に包囲されたジェハは、息を呑みこむと空威張りした。 

「こんなの一人にこれだけか」

 さっきまでジェハを小馬鹿にして薄笑いを浮かべていた顔という顔が、今では苛立ちで歪んでいる。ジェハからは見えない顔もあったが、その辺りからは、抑えに抑えた声で面倒くさそうな最後通告がつきつけられた。

「ありがたく思え、相手してやるんだ」

 つまりは袋叩きという意味だが、ジェハとしても怯むわけにはいかなかった。もう止めようともしない鼻毛男を解放すると、取り囲んで見下ろす面々に向かって顎をしゃくる。

「結構な言い訳だな」

 思い上がりに対する全ての妥協は、ことごとく足蹴にされた。大事を前につまらない諍いを避けようと努力してきた「その他大勢」といえども、取るべき行動は1つしか残されていない。

 とうとう、ひとりの代弁者が声を上げると、それを実行に移した。

「作戦前にイラつかせんじゃねえ!」

 最初の一撃を合図に、逃げる間もなかったジェハには頭上からの拳の雨が降り注いだ。さらに、掴み上げて横っ面を張り飛ばした者が嘲笑を返す。

「ちっちゃなお子様はねんねしてな」

 体躯のことまで持ち出されて、ジェハの怒りは頂点に達した。

「背は関係ねえだろ」

ジェハは猛然と、相手の両脚を抱えて引きずり倒す。こういうケンカでは、小柄な方が有利だった。だが、相手も負けてはいない。掴まれた足を一方だけ引き抜いて、ジェハの顔面を蹴りつける。抱えた脚から咄嗟に手を離したジェハは、自ら背後へ飛んでダメージを抑えた。

 地面に転がったところで、他の傭兵が馬乗りになる。

「残念だったな、作戦外されて」

 振り上げられる拳を見ながら、ジェハ鼻息も荒く言い返した。

「その作戦前に足腰立たなくしてやるよ」

 もっとも、立てないのは自分の方である。身の軽さでは他の傭兵にひけを取らないが、体重を掛けられたらひとたまりもない。

 ……まあ、どっちみち俺の出番なんかないんだしな。

 少なくとも、この場で殺されるようなことだけはない。惨めさを我慢して、殴られておくことにした。

 怪我の少ない殴られようというのはあるので、呼吸を合わせて顔を背けた。だが、予測した瞬間に拳は降ってこなかった。

 ……あれ?

 見上げると、その拳は背後に立つ誰かに掴まれている。それが何者かはすぐにわかったが、口にしたのは馬乗りになっている男のほうだった。

「オヤッサ……」

 最後まで言わないうちに、その横っ面が張り倒された。そいつが転がされた地面から、ジェハが引きずり起こされる。

 目の前に屈みこんだオヤッサンは、いきなり怒鳴りつけた。

「命かかってる作戦前にお前は何を!」

 助かったのに安堵しながらも、ジェハはまだくすぶっている怒りに任せて口答えした。

「こいつらに何が分かるんだ」 

 そうは言っても、オヤッサンさえにも分かりはしないのだ。傭兵団に入る前のことは、誰にも話したことはない。

 従って、ジェハは内心の理解を得られることもなく、一方的に説教を食らうこととなった。

「お互い命預ける仲間だろうが」

 そんなことは分かっている。その仲間から蔑まれたことが悔しかった。だが、問題はもう、そこではない。

「オヤッサンは黙っててくれ」

 心にもない言葉が口から出て、ジェハは内心では焦った。助けに入ってくれたことはありがたかったが、このままではオヤッサンにも罵詈雑言を投げつけなければならなくなる。

 早く引っ込んでほしかったが、そうはいかなかった。

「お前の気持ちも分からんわけじゃない」

 オヤッサンに分かるのは、せいぜい別動隊に入れなかったことまでだ。それから先の、そしてそれより深いことが分かるわけがない。

 さらに余計なことを言われないよう、ジェハは釘を刺した。

「クローヴィスは関係ないだろ」

 だが、それが逆にオヤッサンの怒りに火をつけたようだった。

「口で言って分からん奴は」

 ジェハの胸倉を掴んで立ち上がる。ここで謝れば収まる話かもしれなかったが、頭を下げる理由もなければ、それができる姿勢でもなかった。どっちにしても、首を前後に振るのがせいぜいだ。

 だから、オヤッサンから顔を背けることしかできなかった。言いたくもない言葉が、また口を突いて出る。

「またそれかよ」

 頬への拳で、気持ちの上でも体勢の上でも逃げることのできないジェハの身体が吹き飛ばされた。

 そんなみっともない自分と、分かってくれるはずもないオヤッサンへの悔しさで、ジェハはものも言わずに反撃に移った。

 降って湧いたような対決に、傭兵たちが騒ぎだす。

「おい、やる気だぞ、あの小さいの!」

「賭けるか?」

「負けるだろ」

 野次馬たちが興味津々で見守る中、ジェハは戦いたくもない相手との無用の殴り合いに実をさらすこととなったのである。

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