第21話 間の悪い再会
「……という未来もあり得るんだけど」
「夢オチかよ」
夜明けの真っ青な光の中に広がる、一面の湿地帯を眺めながらジェハはつぶやいた。そのぼやきが向けられているのは、息を吹き返してから眠気覚ましに延々と聞かされていた自分自身の逃走譚である。
それを吟遊詩人宜しく長々と語り続けていたのは、黒い大剣を背にした銀髪の若者であった。
燐光を放つ虫たちが飛び交う薄闇の中に、ジェハを長い長い夢の中から呼び戻したのはクローヴィスだったのである。
だが、ジェハのぼやきは陰気な作り話への不満ではない。起こされるまで見ていた、不吉な夢に対する安堵のため息である。だが、クローヴィスの一言は心のどこかに不安の影を落としていた。
あり得る未来。
それはつまり、ジェハが、またリナが、そしてクローヴィスがそうなるかもしれないということだ。そんな考えを打ち消そうとしたジェハは、たかが思い付きのデタラメにも難癖をつけずにはいられなくなった。
「何で俺がお前の剣持ってるんだよ」
夢の中では、確かに「黒太子の剣」を持っていた。リナを殺すには足りなかったが、村人を皆殺しにすることは簡単だった。目を覚ましても、恐ろしい夢の続きを見ているかのようにジェハは泣き叫んだのである。
それをなだめたのは、クローヴィスだった。夢の内容をひとつひとつ聞き出しては、恐怖を少しずつ静めていったのである。暴れるジェハを抱き留め、また地面に座らせる際に受けた傷はまだ、生々しい。
それを恨む様子もなく、いつもの眠たげな口調でクローヴィスは答えた。
「さあ……ジェハ君の夢のことはジェハ君にしか」
「よく言うぜ、縁起でもない話を散々聞かせといて」
どうしたわけか、ジェハはクローヴィスにも、傭兵仲間と話すときの軽口を叩いていた。
地下水脈で記憶が途切れたときから、何かが変わっていた。リナをめぐって勝手に思い悩んでいたことが、今では心のどこかに追いやられてしまっている。何をやっても及ばないと思っていたことが、今では頼れる仲間の得意技のように思えてならなかった。
もっとも、ジェハにどう思われようとクローヴィスの物言いは変わらない。のんびりと、ただ淡々と語りかける。
「別に脅かしたわけでもないんだ、知っておいたほうがいいかと思って」
「大きなお世話だ、だいたい、何で知ってる」
ジェハは見世物小屋の主を手にかけたことまでは話したが、あれは優しいだのなんだの、ガラにもないことを言われてつい、強がってしまっただけのことだ。グルトフラング傭兵団のことも、スロガ公爵の追手が掛かっていることも、喋った覚えはない。見栄を張るのも弱音を吐くのも嫌いだった。
クローヴィスは、澄み渡っていく湿地の空を遠く見つめている。
「私は君の後から来たからね、あの大雨の後に」
それが全ての始まりだった。だからジェハは、リナの家で一夜の宿を借りることになり、そこであのラミアと戦うことになったのである。
リナ本人だとも知らずに……。
だが、ジェハにとって差し迫った問題は、そこではなかった。
「どうだった? あっちは」
「大騒ぎだったね。ここに来る前には、一晩経ってるという話は聞いたけども」
それなら、団長の名前も乱闘事件も知っていて不思議はない。もっと早く聞いておけばよかったと後悔したジェハは、なおも尋ねた。
「こっちに誰か送られてきたか?」
リナを救う前に、捕まったり殺されたりするわけにはいかなかった。まだ3日かそこらしか経っていない。街道沿いにグルトフラング傭兵団を追って行った、と追っ手が勘違いしていることはあり得た。
クローヴィスの返事は予想通りだった。
「たぶん、誰も。もう仲間と一緒にいるだろうって噂だったね、君は」
「誰が言ってた?」
傭兵は、噂をあてにすることもある。火のないところに煙は立たない。一見、根も葉もないように見えても、いくばくかの真実を隠している。
答えは、笑顔で返ってきた。
「公爵の兵士たちさ。だいぶうろうろしてたよ、街道を」
それならば安心だった。相当の人数を割いてジェハを追っているのだろう。 これが百姓たちの会話だったら、あまり信用はできない。街や村に暮らす庶民は身の安全に関わることには敏感だが、そうでないことについては、その場の勢いや間を持たせるためにものを言う。その結果、無責任な噂が広がっていくことになるので、話は半分以下で聞いておかなくてはならない。
だが、ジェハは強がって言った。
「相当ムキになってんな、公爵サマも」
実のところ、恐ろしかった。
逆に言えば、たかが道端の喧嘩であっても、見逃してしまえば庶民の間で尾鰭のついた噂となって、遠くまで伝わってしまうのである。それは、往来する者たちに領主がナメられるおそれがあるということだ。そういう連中が増えていけば、いつかは抑えが利かなくなって、治安は混乱する。
スロガ公爵はそうなる前に、たかが一傭兵であっても面子にかけて探し出し、処刑しようとするだろう。
そう考えるジェハの怯えを見て取ったのか、クローヴィスは大真面目な顔を向けて言った。
「ということは、傭兵団に復帰しないほうがいいね、やっぱり」
「冗談じゃない」
脱走したと誤解されて、傭兵団から追手を放たれるのはごめんだった。それをホラ話で語って聞かせた張本人はというと、痛いところをさらに突いてきた。
「戻ったら、居場所を知らせるようなものだよ」
確かに、間違いなく殺されるのはそっちのほうだった。だが、ジェハからすれば不思議なことがあった。
「何でウチの掟を?」
グルトフラング傭兵団の掟は厳しい。そもそも雇う側は、兵士に逃げられることも覚悟の上で報酬を前払いするのである。傭兵団としても、逃げたものをいちいち追うために人を割くのは無駄というものだ。
答えは、こともなげに返ってくる。
「剣を持って世を渡る者で、知らない者はないよ」
ジェハは唖然とした。そもそも男娼に売られかかり、見世物小屋の主に犯されかかり、死に物狂いで相手を殺して転がり込んだ場所に過ぎない。あとは戦場に次ぐ戦場を駆け巡るばかりで、自分たちの命がどのくらいの価値で取引されているのかも知らなかった。
クローヴィスは、青みがかった空気が明るく白んでいくのを眺めながら、ジェハの人生そのものだった集団の名を口にした。
「グルトフラングも、傭兵団も」
日が昇ると共に濃い霧がたちこめる。「瘴気の森」を思い出して口を押えたジェハの手を、クローヴィスの手が払いのけた。
「大丈夫……それよりも!」
口調が変わってハッとすると、霧の向こうから風を切る音がした。とっさに湿っぽい地面に伏せると、水をたっぷり含んだ苔が頬に当たった。飛んできた矢が、頭の上を通り過ぎていく。
1本、2本と射かけられてきた矢はたちまちのうちに増えていく。気が付くと、矢は反対側からも放たれているのだった。
「何で射ち合いのド真ん中に!」
腹這いになったまま苦しく吐き捨てると、クローヴィスもぼやいた。
「確かに、このまま寝そべっていては風邪をひくね」
地下水脈からここに放り出されてから、二人ともずぶ濡れなのだった。どこにいるのかさえ分からないのに服や革鎧を脱ぐわけにもいかず、夜明け前から水浸しのまま、湿った苔の上にじっと座っていたのである。
「冗談言ってる場合か!」
低く唸って、ジェハは矢が川となって飛び交うのを横切る形で、じりじりと這いはじめた。
霧の中で矢を射ち合っているということは、敵対する者同士が相手の存在を知りながら、お互いの姿も見えないでいるということだ。
闇雲にこれだけ射ち合っている矢が、なくならないわけがない。それに、おそらくは双方、横1列に並んでいるのだろうが、それが無限に続いているはずもない。
いずれにせよ、矢か人のどちらかが途切れたところで、この霧に紛れて逃げる機会はあるはずだった。
だが、ジェハの這う速さなど知れているというのに、クローヴィスがついてくる気配はなかった。
「……何やってんだ!」
囁き声で罵ったが、返事はない。ただ、ジェハに分からない言葉でブツブツ言うのが聞こえるばかりである。
その響きは、どこかで聞いたことがあった。
確か、「瘴気の森」の生臭い霧の中だったと気が付いたとき、耳元を冷たい風が撫でた。それは次第に甲高い唸り声を立てはじめる。
まるで、生きているかのように。
クローヴィスが何か叫んだ。
「……!」
苔の上を四方八方から駆けてきた突風が、ジェハの背中をかすめるようにして渦を巻いた。無数の何かがぶつかるカラカラという音が、遥か上空へと消えていく。
やがて次々に、ジェハの目の前で地面に突き刺さったのが矢だと気付いたとき、ジェハはいつの間にか霧が晴れているのを知った。
鉄兜をかぶってクロスボウを構えた革鎧姿の傭兵たちが、横一列に立て膝をついている。その後ろには、やはり横に並んだ弩弓兵が矢を装填したものを抱えている。
クロスボウの先には、踏んで矢をつがえるための
一瞬でそこまで考えたところで、まだ苔の上で伏せているジェハの後ろから声がした。
「撃て!」
それに応じて、正面の弩弓兵も引き金を引いた。
向かい合う敵ではなく、地面の上で動けない的に……。
ジェハは叫んだ。
「クローヴィス!」
助けを求めるなど、今まで考えたこともなかった。 クローヴィスが
敵味方かまわず混じり合った矢の雨が、対峙する双方の頭上に降り注ぐ。今度はジェハの正面で、弩弓兵たちが地面に伏せた。
反りを打った剣の刃が、朝日に煌いた。この機を逃さず、身動きできない相手に向かってジェハが斬り込んだのである。
「クローヴィス、そっち
絶体絶命の危機を脱した後の声は、怒号というよりもむしろ、嬉々とした嬌声に近かった。手も足も出ないところで一方的に
湿っぽい苔の上に敷き詰められた革鎧の背中に飛び乗って、逆手に持った剣を突き刺しにかかる。ほとんど無抵抗の相手にここまでするのは初めてだったが、こうまでしないと、心の中に膨れ上がるどす黒い怒りを収めることはできそうになかった。
だが、意外な一言がジェハの手を止めた。
「ごめんこうむる」
「な……」
その隙を、足下の傭兵たちが見逃すわけがなかった。周りの数人が跳ね起きると、腰の短剣を逆手に襲い掛かる。とっさにしゃがんだジェハは、短剣が空を切るのに戸惑う弩弓兵たちの足を続けざまに払った。
弩弓兵にとって、長い剣は普段必要ない上に、戦闘中は移動の邪魔である。だから彼らは、近接戦闘では装備しやすい短剣を使うことが多かった。長剣や槍と渡り合うこともあるので、その速さは決して侮れない。
だが、腰より下から放たれたジェハの刃は、手練れの操る何本もの短剣に、リーチの差で勝っていた。血飛沫を真っ向から浴びるジェハの前に、図体の大きな身体が膝から下を失って、いくつも倒れる。
その正当防衛までも非難するかのように、クローヴィスの声が背中から追い打ちをかけた。
「そんなことのために精霊を使ったんじゃない」
「言ってる場合か、死ぬぞお前!」
次の攻撃に下から返し技を放つべく、更に低い姿勢で構えたジェハだったが、なおもクローヴィスは制止した。
「そこから動くんじゃない、ジェハ君!」
「いちいち指図すんな!」
怒鳴ったとき、周りでアーバレストの鐙が音を立てた。いくつも、いくつも、矢が弩に装填されているのだ。
その時間稼ぎのためか、弩弓兵が1人、短剣を手に跳びかかってきた。ジェハは全身のバネを使って、両手で腰ダメにした剣を一気に跳ね上げた。
クローヴィスが叫んだ。
「伏せるんだ!」
「
短剣が振り下ろされる前に斬りつけようと、横薙ぎの剣を弩弓兵の横腹に叩きつける。
だが、明らかにそれとは別の力で、目の前の身体は横に吹っ飛んでいた。思わず伏せたジェハの頭の上で、風を切る音が絶え間なく飛び過ぎる。
その方向を見たとき、ジェハは全てを察した。
アーバレストを抱えた弩弓兵たちが、矢を射返すこともできずに次々と倒れていく。降り注ぐのは、真っ向から射込まれているらしい無数の矢だ。誰が放っているのかと見れば、横1列にずらりと並んだ長弓隊だった。
素人が使っても、破壊力はアーバレストのほうが強い。だが、手練れが操るなら連射は長弓に分がある。矢をつがえることもできずに右往左往する弩弓兵たちは、見る間に矢を受けて苔の上でのたうち、暴れ、そして動かなくなった。
ジェハは茫然とした。眼前の光景の惨たらしさにではない。だいたい、こんなものを見て腰を抜かしたのは、もう何年前になるだろう。
なぜ、自分は助かったのか?
不思議だったのは、そこである。どう見ても、さっきまで矢先を向けていた長弓隊がいきなりかばってくれたとしか思えない。
その謎は、すぐに解けた。
「ジェハ! ジェハだな?」
呼びかける声は、クローヴィスのものではない。もっとガサツで、はるかに偉そうだ。
あっと思って返事をしたものかどうか迷っていると、ずんぐりした足の短い男が、ずらりと並んだ長弓隊を押し分けて駆け寄ってきた。
ガルバに似ているが、もっと老けている。
その思い出したくない顔から目を背けると、正面に向けた頬を思いっきり張り飛ばされた。
「何やってた、今まで! 戦はとうに始まっとるんだぞ!」
「お……オヤッサン」
長弓隊が短剣を抜いて弩弓隊の掃蕩を始める中、ジェハを殴りつけたのはニルトセイン河の氾濫ではぐれた小隊長だった。
名前は、今に至るまで覚えていない。どこか遠い所に住む民族から流れてきたらしく、傭兵団でも誰ひとりとして名前をまともに呼んだことはないらしい。その暑苦しい風体と立ち居振る舞いから「親父」「オヤジさま」「オヤッサン」と呼ばれているが、それはもともと本人の名乗りが聞き取りづらいからである。
そのオヤッサンからジェハが絶え間ない鉄拳制裁を浴びせられている間にも、ローク男爵に雇われた弩弓兵たちは、アルケン伯爵側の長弓によって息の根を止められていく。
「こうなるのが怖いか、ええ? 怖いのか?」
そう言いながらオヤッサンは指差しもしないが、ジェハには何が言いたいか分かっている。湿地の水たまりを煌かせながら朝日が眩しく昇った頃には、辺りには累々たる屍が横たわっていた。
「その辺にしておきませんか」
クローヴィスが、グルガンにも使わないような年長者への礼儀を弁えた言葉で止めた。
「誰だお前?」
そう言いながらも、オヤッサンはジェハを解放した。クローヴィスは
「申し遅れました、私は……」
その名を聞いて、オヤッサンも名乗った。
「……」
ジェハの耳にはやはり聞き取れない名前である。だが、クローヴィスは一度聞いただけで同じ名前を繰り返した。
「……さん、ですか。フイランボル河の源流、ウルラハン辺りの方でしょうか?」
オヤッサンは、いかつい身体を棒立ちにさせたまま、呆然とクローヴィスを見つめている。
「お前……何で?」
「一度、お邪魔したことがあります」
こともなげに言う銀髪の美青年に、暑苦しい固太りの男がすがりついて、おいおい泣きだした。何かよく分からない言葉で尋ねられたクローヴィスは、よく似た言葉でオヤッサンを慰めているように見えた。
「何やってんだ、クローヴィス?」
ジェハは首を傾げながら立ち上がった。周りでは、長弓隊が死体の片づけにかかっている。装備を剥いだり、場所を見つけて埋葬したりと、グルトフラング傭兵団ではやることが結構ある。
助けられておきながら、仲間のすることをまるで他人事のように眺めているジェハに、クローヴィスは皮肉っぽく言った。
「感謝の言葉が口に上らない人は、長生きできませんよ」
命が惜しいなら、最初から傭兵団になど入ったりはしない。だから、ジェハはクローヴィスにも長弓隊にも感謝しようとなどとは思わなかった。
「お前は長生きするぜ、そんなオッサンの面倒まで見てやるとはな」
皮肉を聞いてムキになったのは、オヤッサンのほうだった。クローヴィスがよろけるくらい、その身体を強く突き放すと、ジェハにずかずかと歩み寄った。
「落伍しといて戦に遅れたガキが何を言っとるんだ!」
振るう拳を軽々とよけて、ジェハは言い返す。
「言い訳はしねえ。この借りは命で返す。金がねえからな」
前払いの報酬は、戦いに参加しなかった分、傭兵団に返さなければならない。返せなければ、それだけの働きを見せるか、処刑されるしかなかった。
だが、戦闘前に準備する装備品は高かった。傭兵団持ちなのは、糧食ぐらいのものである。傭兵団に支払われる報酬は、糧食やテントなど共有・共用するものの代金が天引きされた後、団員の地位と能力に応じて分配されることになっていた。
だから、この紛争地帯に向かった時点で、ジェハの懐には大した金額は残っていなかった。それにしても、あふれかえったニルトセイン河に呑み込まれたとき、流されてしまったのである。
それと引き換えに助かったと思えば腹も立たないところだが、もともと命など捨ててかかっているジェハにしてみれば、溺れて死のうが戦で殺されようが同じことだった。
そう開き直って憎まれ口を叩くところへ、クローヴィスが割って入って囁いた。
「ここにいたいなら、私一人で何とかしよう」
ジェハは口ごもった。かつての仲間を見た途端、以前の調子で軽口を叩いてしまったが、戦う目的は既に変わっている。
窓から差し込む雨上がりの朝日を浴びて微笑んでいる、リナの姿が脳裏に浮かんだ。
血の臭いと死の予感に満ちた戦場の空気に、思わず我を忘れていた。死んでも構わないと思っていた自分ではなく、命に代えても救いたい少女のために、ジェハは戦っているのだった。
怪訝そうなオヤッサンの目を気にしながら、ジェハは囁き返した。
「俺の顔がバレてんのに、何で愛想振りまくんだよ」
相争う2つの軍勢の間を突破すれば済むという問題ではなくなっていた。ジェハがリナを救うためには、生きてここを抜け出さなくてはならない。
この湿地も、陣を張る傭兵団も。
「それは知らなかった」
今やっと知らされたというふうに、クローヴィスは驚いてみせた。ジェハは目を大きく見開いた顔から目をそらして吐き捨てた。
「嘘つけ」
精霊がどうのこうの言って戦わなかったのは、長弓隊がジェハを狙わないことを知っていたからだ。それは弓を構える高さだけで見当がつくとしても、オヤッサンが拳を振るった時点で、ジェハと顔見知りだということは明らかだ。
クローヴィスはあっさり負けを認めた。
「だったら余計に、逃げるわけにはいかないだろ?」
それはジェハにも納得できた。面が割れていては、この場を離れようとした時点で、戦闘に参加しなかった上に敵前逃亡が重なる。グルトフラング傭兵団でなくても処刑は免れないだろう。
すると、結論は1つしかない。
「リナを見捨てろってのか」
声をひそめながらも、ジェハは
それをひとりで引き受けようとしているクローヴィスは、真顔で言った。
「誰も非難しない。君が好きにするといい」
少年の気持ちと生き方を思いやっての言葉であることは、聞けば分かる事だった。だが、ジェハには耳を貸す気などない。
「だったらオヤッサンにいらんこと言うな」
さっき泣きながらすがりついていたのは、クローヴィスが何やら語りかけていたからだ。自分ひとりで行く気なら、さっさとその場を離れれば済んだことである。
いや、最初から声もかけなければいい。戦闘のどさくさ紛れなら、逃げる機会もあったはずだ。
クローヴィスは悪びれた様子もない。弁解といえるものは、たった一言だけだった。
「身の上話を聞いただけさ」
「何でオヤッサンがお前に」
傭兵団での付き合いがそこそこ長かったジェハでも、それは聞いたことがなかった。ウルラハンとかいうのはオヤッサンの出身地らしいが、それも初めて聞く場所だった。
だが、そこまで見分の広いクローヴィスも、オヤッサンの内心までは量りかねるようだった。
「さあ、珍しい名前だったから聞き返しただけなんだけども」
名前が分かるということは、聞き取れたということである。思わず、ジェハは尋ねた。
「分かるのか、あのオヤッサンの名前」
話がどんどん横道にそれていく。だが、今まで誰も理解できず、口にすることさえできなかった名前には、ジェハも興味があった。
クローヴィスは、事もなげに答えた。
「……、っていうんだけど」
「やっぱり分からん」
何やら普段は使わないような発音の羅列に、それ以上の理解をジェハは一言で拒んだ。
そこへオヤッサンがやってきたのは、自分の名前が聞こえたからだろう。いささか焦り気味に、ジェハを急かした。
「とっとと団長のところへ行け、殺されるぞ」
「逃げやしない」
不満気に言い返したジェハに、クローヴィスがすぐさま応じた。
「私も行こう」
何の脈絡もない申し出を、ジェハは突っぱねた。
「お前は行け」
クローヴィスは傭兵ではない。グルトフラングと契約を結んだわけでもない。ましてや、ジェハの保護者などではない。下手をすれば最初から敵前逃亡扱いで殺されるかもしれないところへ同行してもらわなければならない義理などなかった。
だが、クローヴィスは皮肉っぽく囁いた。
「では、リナさんのことはお任せください」
それも面白くなかった。
確かにクローヴィスはジェハがいなくても「深き水底の王」を探し出せるし、ジェハはクローヴィスがいないと手も足も出ない。
リナはリナで、男前のクローヴィスに好意を持っているようだった。うまく行けば、うまく行くだろう。
何が、ということは考えたくもない。
だが、そんな嫉妬の感情よりも先に、ある感情がジェハを脱走へと駆り立てていた。
「待て」
クローヴィスを引き留めながら、ジェハは心の底に
一瞬だけ心の中に何か耐え難い爆発があって、それがえも言われぬ快感となって残っていた。それだけに、リナを捨てて元の傭兵稼業に戻ることには気がとがめていたのである。
クローヴィスは、あっさりと前言を撤回した。
「では一緒に」
完全に掌の上で踊らされているのが感じられて面白くなかったが、ここはジェハの負けである。団長との、命が懸かった直談判が同伴者つきとは情けない話だが、大きな目的の前にはこらえるしかない。
ジェハは半ばヤケクソ気味に、オヤッサンに尋ねた。
「団長は?」
「あっちだ」
指さす方を見たとき、恥だけはかかなくて済むことが分った。
黒い革鎧に黒いマントを羽織った、黒いボサボサの髪をした髭面の男がやって来る。
団長のグルトフラングだった。
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