第19話 悪夢の終わり

 そのとき、ジェハの体が横殴りに弾き飛ばされた。床に転がされる。

 老人とは思えない力で、グルガンがぶつかってきたのである。

 ジェハの胸を貫くはずだった爪は、グルガンの心臓を抉った。

 グルガンが床に倒れ伏すと、ジェハの鼻を生臭い風がなぶった。

 見上げると、そこにはもうリナの顔はなかった。

 黒い髪を振り乱し、長く細い下をちろちろと動かす、蛇の頭がジェハを見下ろしていた。

 床に倒れ伏すグルガンなど気にも留めぬかのように、ラミアと化したリナは、爪を振り下ろす。

 床を転がってかわしたジェハは、ガルバの落とした大槌を手に取った。

 ラミアの爪が横薙ぎにジェハを襲う。ジェハは大槌の長い柄で受けた。

 足元で、グルガンの苦しそうな声が聞こえる。

「すまん……嗅ぎつけられた」

 爪は左右から凄まじい速さで叩きつけられる。ジェハは紙一重でかわしつづけたが、そんなことがそう長く続けられるわけもない。

 グルガンは体の底から搾り出すような声で言った。

「お前たちが出て行ってからもう、ひと月だ」

 迫る爪がかわしきれない。ジェハは、柄で受けながら、吹き飛ばされる前に自ら後ろに跳んで衝撃をかわした。

 そのジェハを追うように、グルガンの声が床を這う。

「気づかれた……ガールッタに」

 ラミアの動きは速かった。ジェハは壁を背にして、大槌の柄をラミアに向けて牽制する。

 左手を前に、右手を後ろに。

 グルガンが、残りの息を吐き出すように弾ませた。

「ガールッタが人を集めて来た……止めないと、リナが皆殺しに……」

 その声に、ジェハが初めて答えた。

「止めてやる」

 だが、それはリナに向けられたものでもあった。

 ……リナ! お前がラミアでも構わない。一緒に生きよう。俺が守ってやる!

 ジェハは大槌の柄を持った左手を逆手に握り替えた。続いて右手も握り替え、槌の部分を力いっぱい押し上げる。

 大きく踏み込んで間合いを詰め、渾身の一撃を見舞う。

 命中!

 一瞬の期待があった。

 ……あの夜、ジェハの一撃が命中したことでリナは正気に戻り、変身が解けた。ならば今度も……。

 その期待は、甘かった。

 ラミアの体が回転し、太い尾で大槌を弾き飛ばされた。

 グルガンの、微かな声が聞こえた。

「殺させるな……リナに……誰も……」

 それだけ言って、グルガンは息絶えた。

 グルガンが死に、変身を解くためのいかなる望みも絶たれたことをジェハは悟った。

 グルガンの亡骸を見もしないで、ジェハはつぶやいた。

「分かってるよ」

 背中に手を回す。

 黒太子の剣でリナに斬りかかろうと、ジェハはその柄に手をかけた。

 だが、剣は抜けなかった。

 ジェハはクローヴィスの言葉を思い出した。「抜くべきときは、剣が選ぶ……」

 ラミアの爪の一閃を、ジェハは危ういところでかわした。咄嗟に短剣を抜く。リナが「深き水底の王」から与えられた短剣である。その剣には、こう書いてあったはずだ。

 ……「汝の愛する者この刃もて命断たぬ限り深き水底の王の妻となるべし」……

「あいつの妻には、しない!」

 ジェハは床を蹴った。ラミアに突進する。ジェハの握り締めた短剣が、リナだったラミアの心臓を狙う。

 だが、その狙いは外れた。

 短剣は、リナの前に立ちはだかったガルバの心臓を貫いていた。

 ガルバの口から、真っ赤な血が吐き出された。

 自分の血にむせながら、ガルバは言った。

「リナ、オレじゃダメかよ……」

 岩のようにごつごつした手が、ジェハの手を覆う。

 ガルバの節くれだった指が、あまりのことに愕然とするジェハの指を、短剣から引き剥がす。

 ジェハはようやくのことで我に返った。

「知ってたのか……」

 ジェハが引き抜こうとする短剣を、ガルバは掴んで離さない。

「ああ……人が寝てるときに大声出すなよな……」

 ジェハは絶叫した。

「邪魔すんなあ!」

 ガルバの後ろで、ラミアがじりじり退こうとしている。

 短剣を掴んだまま、最期の一言を残してガルバは事切れた。

「できれば、死ぬまで知らないでいたかった……」

 それでも短剣はもぎ取れなかった。ラミアが腕を振り上げる気配がする。

 ジェハは、咄嗟にガルバを楯にして床を転がった。爪がガルバの身体を貫く。

 ガルバの亡骸がラミアと化したリナを慕うように倒れこんでいった。

 ラミアは逃れようともがいたが、自らの爪が深く刺さったのが災いして、ガルバの身体に釘付けになっている。

 その隙を衝いて、ジェハは考えた。

 ……どうする?

 床に転がったすぐ傍には、グルガンの亡骸があった。生きているうちに知恵の一つも借りておくべきだったかと、ジェハは一瞬だけ後悔した。

 だが、ジェハはその亡骸の傍に、一本の杖を発見した。グルガンの杖である。

 ……これだ!

 ジェハは杖を拾って立ち上がり、握りの部分を掴んで引き抜きながらガルバに突進した。

 仕込み杖の一閃!

 短剣は、ガルバの手首ごと床に落ちた。拾い上げると、岩のようなガルバの手が床に転がる。ジェハの手の中には、短剣だけが残った。

 グルガンの剣を捨て、その短剣の柄を握り締める。あの、2匹の蛇が絡み合う、禍々しい形の柄である。

 ジェハはそのまま床を蹴った。

 踊るように軽やかに、しかし凄まじい速さで身を翻したジェハは、ラミアの背後に回り込む。

 背中から、心臓めがけて短剣を突き刺すと、ラミアは金切り声を上げて悶絶した。

 のしかかるガルバの体重が、ジェハにも感じられた。

 力の限り短剣を押し込むジェハとの間に挟まれて、ラミアは動くこともできない。

 しばらくもがいていたラミアはしだいに弱々しく震え始め、やがて両腕をだらりと垂れて、ジェハやガルバと共に横倒しになった。

 ジェハは、短剣から手を離して立ち上がった。

 床を見下ろすと、リナだったラミアがガルバを背中から抱きしめて横たわっているように見える。 

 ガルバの目からも、ラミア……いや、リナの目からも、涙が流れていた。

 ジェハも泣き出した。

 今まで涙を流したことは何度もある。

 確か、見世物小屋の座長に襲われたときは涙を流して抵抗した。傭兵となって戦場に出たときは、隠れていた塹壕に煙いぶしをかけられて、涙を流して退却した覚えがある。

 だが、泣いたのは生まれて初めてだった。

 ジェハは、三つの亡骸をあとにリナの家を出た。

 戸口を出ると、村人たちが待ち構えていた。

 手に手に得物と松明を持った村人たちの中から、どうなった、という声が聞こえた。

 ジェハは答えなかった。ただ、石段の上からガールッタを探した。

 村の男がひとり、おそるおそる進み出て石段を登り、ジェハの身体を押しのけて家の中に入った。

 しばらく経って出てきたその男は、ジェハの腕を掴んで高々と差し上げ、叫んだ。

「死んだぞ」

 松明の炎だけが揺れる森の中に、村人たちの歓声が響き渡った。

ジェハの胸の中に、何かどす黒い塊が膨れ上がりはじめていた。それは次第にジェハの身体を揺さぶり始めた。

 実際、ジェハの握り拳は微かに震えていた。やり場のない怒りがこみあげてきていた。何に対して怒っていいのか分からなかった。

 何よりも、今、何をすべきなのかが分からなかった。

 ただ分かっているのは、「このままで済ませてはいけない」ということだった。

 そこへ、松明を掲げた村人たちの間を縫って、ガールッタが新月の闇の中から現れた。

 何本もの松明の灯に照らされて右に左に揺れるその顔は、笑っていた。それは、初めて会って薬草を買ったとき、ジェハが渡した金貨を見たときの笑いだった。

 ガールッタは、あのときの口調で言った。薬草の効能をまくし立てたときの、あの威勢のいい声だった。

「あんた、アタシの思ったとおりだよ、ただモンじゃないねえ」

 そして、村人を見渡して言った。

「たいした旅のお方だよ、よく来てくれたもんじゃないか、ええ?」

 村人たちは笑いだした。始めは自信のない、微かな笑い声だった。それが次第に誰かから誰かに伝わり、また、互いに高めあい、波紋のように大きく広がっていった。

 その笑いは、ついには一同のものとなった。皆、幸せそうに高らかに笑った。それぞれの笑顔が、松明の灯にちろちろと揺れた。笑う村人たちの群れを、リナの家の中から洩れたランプの光がぼんやりと照らしていた。

 そのランプの下には、ラミアと化したリナが死んでいる。そして、自ら命を捨ててかかったガルバとグルガンが死んでいる。

 他の村人は、誰も死んではいない。

 ジェハは、「深き水底の王」の言葉を思い出した。「あの娘が16歳になったとき、我が血が目覚める。そのとき、あの娘は我が身代わりとなって村の者どもを皆殺しにするだろう」。

 また、グルガンの言葉を思い出した。「救ってやろうとすれば、誰かが殺してやるしかない」。

 そして、クローヴィスの最後の言葉を思った。「お前があの娘を愛しているなら、宿命から解き放ってやれ」。

 ……本当に、これでよかったのか?

 そのとき、ジェハは自分の体のものではない震えを背中に感じた。

 それは、聞いたことのある唸り声だった。

 黒太子の剣が鳴り騒いでいるのである。

 ジェハはつぶやいた。

「そうかよ」

 ジェハの手を差し上げている男が、ジェハに笑顔を向けた。

 その男の顔を見ながら、ジェハはつぶやいた。

「そういうことかよ」

 ジェハの言葉をどう捉えたのか、男はにっこりと頷いた。

 石段の下を見れば、ニコニコ顔で近寄るガールッタがいる。

 ジェハは叫んだ。

「それならそれでいい!」

 差し上げられた手で男の手首を掴み、腕の一振りで石段の下に投げ落とす。

 地面に叩きつけられた男が、ぎゃっと叫んだ。

 ジェハを見上げるガールッタの目が、呆然と見開かれた。

 その顔面に向かって、石段から飛び降りたジェハが抜き放った黒太子の剣が叩きつけられる。

 ガールッタの身体が、一刀の下に唐竹割りにされる。

 ……やっぱりよく斬れる。

 斬った勢いで屈みこんだ地面から立ち上がりながら、ジェハは思った。

 黒太子の剣を逆手に持ち替える。

 そして、さっき投げ落とした男の心臓に突き刺して引き抜くや、そのまま、新月の闇に揺れる村人たちの顔という顔めがけて斬り込んでいった。

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