第18話 悪夢の始まり
目を覚ましたジェハの記憶に残っていたのは、クローヴィスの最後の叫びだった。自分が横たわっているこの場所がどこかということよりも先に、ジェハは眼の前から消えた道連れを探した。
「クローヴィス?」
そういえば、まともに名前を呼んだことなどない。たいていの相手とは自分ひとりで戦えるつもりだったジェハは、助けを求める必要などなかった。そもそも、剣も精霊も操れる上に、なんとなくリナにも好意を寄せられているらしいクローヴィスは目障りだった。
だが、リナを妻とすべくラミアに変えようとしている「深き水底の王」を探し当てられるのは、クローヴィスしかいない。その辺にいなければ呼ぶしかなかった。
返事がない。
気がつくと、ジェハは祠の中に倒れていた。冷たい石の床の上で身体を起こすと、服は濡れていなかった。
夢だったかとも思ったが、クローヴィスの姿はなかった。
ジェハの剣はどこを探してもない。彼の傍には、代わりに黒太子の剣があった。
……何故だ?
ジェハは自分の身体を探った。どこにも怪我はない。リナの短剣は、まだある。
立ち上がって黒太子の剣を背負い、祠の扉を開けた。闇夜だった。霧はなかった。
……クローヴィスが預けてくれたのか?
そんなことも考えたが、詮索している暇はなかった。
夜空は晴れ上がり、星ばかりが輝いている。ジェハは星明りを頼りに、村へと走った。
村の家々には、灯がなかった。人気もなかった。
出口へ向かって走ると、背後から呼び止める者があった。
「何やってたんだ、半月も!」
ガルバだった。会ったときと同じ、厚い服に毛皮のズボンというむさ苦しい格好である。手には、あの大槌があった。
グルガンの話では、しばらく立ち上がれないはずだったが……まさか。
ジェハは跳ね上がりそうな息を抑えて尋ねた。
「ひと月?」
ガルバはジェハの問いには答えなかった。
「じいさんは、まだ動くなって言ったんだけどよ、こっそり抜け出してきたのさ」
あの地底湖にいるうちに、地上ではもうひと月が過ぎていたのである。
お伽噺で語られる、妖精の国のように……。
ガルバは犬のように低く唸った。
「ガールッタめ……」
ジェハはガルバの両腕を掴んで尋ねた。
「何があった?」
ジェハの手を振りほどいて、ガルバは怒鳴った。
「皆、リナを殺しに行った!」
あまりのことに呆然とした。
だが、すぐに気を取り直し、ジェハは村の出口へ向かって走り出した。
ガルバが後を追いながら説明する。
「お前が出て行ってから何日かして、リナが水車小屋にやってきたんだ」
ジェハはしまったと思った。ガルバはバツの悪そうな顔をしている。やはり、情けなく横になっている姿は見られたくなかったようである。
だが、問題はそっちではない。
「オレが朝、来ないもんだから心配になったらしい。急病になったとか何とかグルガンがごまかしてくれたよ」
リナに責任を感じさせないで済んだのはまだ救いだった。
だが、ガルバの声は重く沈んだ。
「そしたらリナ、自分でガールッタに薬草を届けだしたらしいんだよ。あの遠い道を一人で歩いてさ……。」
それは心配いらない。ガルバは知らないが、リナは見かけによらず頑丈である。だが、ガルバは吐き捨てるように言った。
「ガールッタのババア、それでおかしいと思ったみたいなんだ。オレやグルガンのところにも来たよ。オレが急病でお前らが出てったって言っても信じなくてな。村の連中をそそのかしてさ、後を尾けたり、家の周りをかぎ回ったりしだしたらしい」
グルガンの目論見は外れたわけである。
おそらく、ガールッタは、リナの誠意を邪推したのだ。
記憶の底の沈んだ自分の過去を知ろうとしているのだと……。
話しているうちに、ガルバの息は荒くなっていった。
「さっき、ガールッタが慌てて戻ってきて、何か叫んでた。グルガン爺さんがなだめて、ついて行った」
村の出口を出てしばらく走ると、星も見えないほど真っ暗になった。森の中に入ったからである。
暗い森の中をしばらく走ると、点々と松明が見えるようになった。
ガルバが息を切らしながら、ジェハに教えた。
「村中総出だ。ありったけの刃物や得物を持ち出してる」
二人に気づいたのか、松明を手にした村人たちが振り向いた。お互いに顔を見合わせながら、様子をうかがっている。
闇の中で松明に照らされた、しばしの沈黙の後。
その数人が突然、長柄の鎌や唐竿を手に襲い掛かってきた。応じるジェハが思わず手をかけたのは、背負った剣の柄だった。
……頼む、クローヴィス!
だが、黒太子の剣は唸らなかった。当てが外れたその隙に、男たちが迫る。振り下ろされる武器を巧みな足さばきでかわしたジェハは、次々に拳や膝や肘を繰り出して村人を地面に転がした。
いつの間にか背後に回って包丁を振り上げていた男を、後ろ回しの高い蹴りで薙ぎ倒す。
あっという間に誰もが及び腰になり、各々の武器を猫背になって構えながらジェハとガルバを取り囲んだ。
ジェハが叫んだ。
「どこだ、ガールッタ!」
返事はなかった。あるはずがない。あのずるがしこい老婆が、こんな修羅場にわざわざ出てくるはずがない。
代わりに、村人たちが包囲の輪を縮めた。これが手練れの傭兵であっても、何人襲って来ようが恐れるジェハではない。むしろ、どいつもこいつも素人だ。
ただ面倒なのは、その素人を斬り殺すのは気が引けるということだ。ジェハは、殺し合いの場に雇われて戦ってきただけだ。特にグルトフラング傭兵団は規律が厳しく、兵士でない者への略奪や殺戮は、死を以て制裁されることになっていた。
どうしても腰の剣を引き抜くことができず、ジェハは金切り声で威嚇した。
「どけ!」
だが、村人はニヤニヤ笑いながら退く様子もない。武器を持つと、人間は気が大きくなるものらしい。しかも、おそらくは生まれて初めての荒事なのだろう、誰も彼もが熱い鼻息を噴いている。小柄なジェハではもう、武器なしでは押しが利かなくなっていた。
だが、そこでガルバが一声吼えて、大槌を振り上げた。
村人たちの輪がまた広がったところで、ジェハはリナの家を見た。
窓が明るくなったり暗くなったりを繰り返している。明らかに、中では何かが起こっているのだ。
ガルバはジェハに囁いた。
「行け」
大槌を振り回すと、鼻先をかすめただけの相手が目を回して倒れた。わっと逃げ出す村人を追い抜くようにして、ジェハは崩れた包囲の輪を一気に駆け抜けた。
すぐ目の前に見えてきたリナの家は、やはり松明の群れに取り囲まれていた。さっきの村人たちとは違って、ジェハが近づいても振り向く様子がない。その点では、斬るか斬らぬかという心配をしなくてもいいだけ、まだ救いがあった。
厄介なのは、誰もが家に気を取られていて、身動きもしないことである。
……何が起こってるんだ?
立ち尽くす村人たちの間をすり抜けるように、ジェハは、家の前に駆けよった。戸口の階段を駆け上がると、扉を開けようとした。
開かない。中からカギがかかっているのだ。
「ガルバ!」
さっき置いてきたことも忘れて、ジェハは振り向きもせずに仲間を呼んだ。まるで、すぐそこにいて当たり前とでも言わんばかりの口調である。だが、闇の中からは頼もしい声が応えた。
「今行く! ちょっと待ってろ!」
村人たちが悲鳴を上げて逃げ回るような声が聞こえた。ガルバがこれ見よがしに大槌を振り回しているのだろう。
「ここを!」
ジェハが扉を指差すまでもなかった。
「手え引っ込めろ、危ない!」
駆け寄ってきたガルバが、大槌を振り下ろす。扉が粉々に吹き飛ぶと同時に、ジェハは家の中に駆け込んだ。
それに続いたガルバが、悲鳴を上げて腰を抜かした。大槌が床の上に転がる。
ランプが揺れていた。その揺れる明かりに照らされて、部屋そのものが揺れているように見えた。
リナの姿が揺れていた。右に左に揺れるだけでなく、その姿が変わりつつあった。
彼女が身体にまとっていた、あの白い麻の服は、無残なボロ布化して、その首からぶら下がっている。
その下から覗くのは、あの清らかな白い肌ではない。
生臭い臭いを放つ、青黒い鱗である。
鱗は細い腕までもびっしりと覆い、手の先には長く鋭い爪が伸びている。
そして何よりも、その華奢な脚は、上体を支えるに充分な太さを持つ蛇体へと変わっていた。
ただ、変わらないのはリナの顔だけだった。
空ろな目で、ジェハを見つめている。
その顔も、少しずつ鱗に覆われつつあるが、時々いっぺんに首筋の辺りまで白い肌が覗いたりもする。
ジェハは、部屋に響き渡る祈りの声に気づいた。
グルガンだ!
グルガンは杖を放り出してリナのすぐ傍にうずくまり、叫びにも近い声で祈りの言葉を唱えていた。
ジェハは、リナに呼びかけた。
「リナ……」
リナの目に一瞬、生気が宿った。ジェハの声に応える。
「ジェハ……さん」
だが、その表情はすぐに強張り、うっすらと鱗の色に青ざめた。
ジェハは泣いた。
「いやだ、そんなの……」
リナも頷いて、爪の鋭く伸びた手を差し出した。
「私も、ジェハさんと一緒に……」
ジェハはふらふらとリナに歩み寄った。
「リナ!」
リナは大きく腕を広げ、ジェハに這い寄っていく。
「ジェハさん、私、あなたのこと……」
だが、リナの目からは再び生気が失せた、広げた腕が振り上げられる。
グルガンが祈りの声を止めて叫んだ。
「いかん! 逃げろ!」
間に合わなかった。
リナの爪がジェハを襲う。
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