第17話 地下水脈を守る者
真夜中の細い月の下を、ジェハとクローヴィスは足音もなく歩いた。
水車小屋を出たときには頭上にあった青い月の光は、村と森を隔てる柵を乗り越えたときに、鬱蒼と茂る木々の葉の向こうに消えた。
つい昨日ガルバと歩いた昼でも薄暗い道は、月がはあってもほとんど何ひとつ見えはしなかった。
それでも、ジェハはクローヴィスを置いていこうとするかのように足を進めた。
木々の太い根が地面に浮き出ているはずだが、つまずくこともつんのめることもない。
一度歩いた道だいうこともあるが、明かりのないところで空気の流れや風の音を感じ、そしてたとえ星明りしかなくとも目を凝らす術は傭兵の夜間戦闘に必須のものであった。
背後から、クローヴィスの眠たげな声が追いかけてくる。
「おおい、ジェハ君、こんなに暗いのに大丈夫か」
「怖いなら来なくていいんだぜ」
そう鼻で笑ったジェハに、クローヴィスは答えなかった。
代わりに、なにやらブツブツ言う声が聞こえる。
どういうつもりだか、さっぱり分からない。
無視して先を急ぐと、急にクローヴィスが叫んだ。
「目を閉じろ!」
いきなり何を、と余計なことを考えたのが災いした。
あまり指図されたくはなかったが、仕方がない。やらない理由のないことは、やったほうが後悔がないものだ。
その判断は一瞬のものだったが、それでも目を閉じるのはあまりに遅すぎた。真っ暗な視界が突然、音もなく、落雷の現場のような何一つ見えない白い光に反転する。
ジェハの眼は、一瞬の閃光で灼かれてしまったのである。
「うわっ!」
思わず叫びはしたものの、戦場で目つぶしの煙を浴びせられたことぐらいはある。ジェハの身体は反射的に動いた。
目を閉じたまま腰の剣を引き抜き、低くしゃがみこんで身構える。こうすれば、最初の一撃を浴びる危険をある程度まで避けることができる。混戦になれば、背の高い相手との喧嘩と同じことで、懐に飛び込んで斬りつけるのも早い。
だが、今はそこまで心配しなくてもいい。ジェハはうずくまったまま、その場から動かなかった。
瞼の奥に赤や青の模様が輪となり、また幾条もの筋となって現れては消える。だんだん、気持ちが落ち付いてくる。ゆっくりと呼吸を整えながら、視力の回復を待った。
やがて、眼の奥の痛みは去った。閉じた瞼をゆっくりと開いてみる。
じんわりと、森が光っていた。
ジェハが呆然と立ちあがると、すぐ背後で人の気配がした。
クローヴィスの仕業だということは、言われる前に察しがついた。
「ルーセン……光の精霊さ」
そのつぶやきに、ジェハは振り向きもせずに立ち上がった。無言で歩き出すところで背後からぴったりついてきたクローヴィスは見下ろす姿勢で、文字通り上からたしなめた。
「別に恩を売ってるわけじゃないけど、傭兵にもそれなりの礼儀ってものがあるんじゃないかな」
「生憎と腕っぷしだけがものを言う世界でな」
不機嫌まるだしで答えたジェハの言葉は、嘘である。
確かに、武器でも素手でも戦って勝てる者だけが生き残れる世界である。それがなければ死ぬのだから、分かりやすい。
しかし、傭兵には傭兵なりの筋の通し方がある。
それは、酒代の持ち方や組織への出入り、組織同士のシェア配分に至るまで多岐にわたる。
中でもいちばん単純でいちばん重いのは、「借りは返す」ということだった。
基本的に、傭兵は自分のことは自分でしなければならない。
武装の調達から戦場での生き残りまで、誰の助けも期待できないし、人を助けてやる義理もない。
だが、万が一、誰かに助けられたら、それは限りなく重い借りとなる。
何があっても、返さなければならないからだ。
それは経験や年齢を問わず、どこへ行ってもいつになってものしかかってくる。
返さなければ、戦場では死地に追いやられ、平時においては廃業を考えるほかなくなるほど仕事を干される。
これは侮辱を受けたり危害を加えられた場合も同じことで、きっちり借りを返さなければ仕事仲間からナメられ、やはり命や食い扶持の危険にさらされることになる。
そんなわけで、ジェハが傭兵ではないクローヴィスに知らん顔をしたのは無理もないことだった。
闇夜の灯ひとつとっても、ジェハがお返しとしてクローヴィスのためにできることは、何一つないのである。
その光に照らされた森の中は、昼間ほどではないが足元が見える程度には明るかった。
青白く静まり返った光は、松明によるものとも月からのものとも違う。奇妙にねじくり曲がった木々の幹の間を縫う、下草が生い茂った道なき道をぼんやりと浮かび上がらせている。
やがて、その向こうから何度嗅いでも受け付け難い腐臭が漂ってくると、ジェハはもちろん、さっきは平然としていたクローヴィスも咳き込んだ。
ジェハは、さっき礼を言うのを拒んだことも忘れて悪態をついた。
「お手上げかよ」
「ああ、さっきよりも臭いが強くなってるからね」
あっさり認めたクローヴィスに拍子抜けしながら、ジェハはぼやいた。
「なんとかなんないのかよ、コレ」
無理だ、とクローヴィスが苦しい息の下で答えた。
な・ん・で、と精一杯の呼吸で尋ねるジェハに、クローヴィスはボソボソと答えた。
「シルフの力を借りればできないこともない」
もちろん、咳き込まないように悪臭を避けてのことなのだが、それはまるで誰かに聞かれてはまずい話をするようでもあった。
「もったいつけてないでさっさと」
ジェハの声も、息苦しさからささやきに変わっていた。
クローヴィスは端正な顔をしかめて首を横に振る。
余計な空気を吸い込まないよう息を止めているのか、青白い光の中でもわかるほど顔が赤くなっていた。
再び一息してむせ返った後、クローヴィスは早口で答えた。
「瘴気の沼では、ウンディーネが答えてくれなかった。たぶん、シルフも」
「これもルーセンとかいう」
精霊という単語が出てこなかったジェハも、一気にしゃべったせいで咳き込んだ。
クローヴィスがさらに早口でその問いを受ける。
「『深き水底の王』は、風と水を司るんだ、たぶん。だから、ルーセンが払った闇とは関係ない」
「とにかく」
自分には理解できない、とは決して言わないで、ジェハは結論付けた。
「慣れるしかないってことだな」
頷いて見せるクローヴィスの息は、少し落ち着いてきた。
二人が『瘴気の森』に足を踏み入れるまで、そんなに時間はかからなかった。
ただでさえ霧の濃い森の中は、夜中ともなれば鼻先さえも見えないくらいに視界が閉ざされる。
こうなっては、傭兵として戦ってきたジェハの経験も役には立たない。森に潜んで戦うこともあったが、その利点のひとつは侵入者が方向感覚を狂わされることだ。伏兵は、辺りの木々の様子を予め覚えておいて、同じところを右往左往する連中を倒していけばいい。
だが、ジェハが祠に向かう道を覚えていたとしても、目印となる木々が見えないのではどうしようもない。風の
しかし、呪文を詠唱する声は、耳元でしっかり聞こえた。
「おい」
ジェハは不機嫌に咎めた。言ったこととやっていることが明らかに違ったからだ。やればできることを、シルフがどうのと勿体をつけられたようにも思えた。
それに文句を言おうと口を開いたとき、夜の濃い霧の中にぼんやりと道が開けた。ジェハは驚きのあまり、瘴気を喉の辺りまで吸い込んでむせかえった。
それは、安堵の息をついたクローヴィスも同じだった。誤解していたジェハに事情を告げることができのは、瘴気のせいでしばらく咳き込んでからだった。
「グノムスは、『深き水底の王』に影響されないようだ」
急に土の精霊の話をされても、何のことか分からない。
ジェハがきょとんとしていると、クローヴィスは道の彼方を指差して言った。
「祠への道を教えてくれたよ」
思わせぶりな言い方が、どうにも面白くなかった。まるで、ジェハにできないことをひけらかされているように聞こえた。
「知らないって」
うるさげに言い捨てて、ジェハは青白い光の中を、道の指し示す方角へと歩いていく。大股で追いついたクローヴィスは、その道をしばらく並んで歩いてから唐突に言った。
「君は優しいな」
生まれてこの方、そんなことを言われたことはない。ジェハはうろたえてそっぽを向いた。
「よせよ」
クローヴィスは一歩下がり、ジェハの全身を背後から見た。
「傭兵らしくない」
ジェハは首を捻って、背後のクローヴィスに抗議した。
「そんなことあるか」
クローヴィスはその抗議には応じず、質問を続ける。
「何で傭兵なんかになったんだ」
ジェハは前を向いて、即座に答えた。
「それしか能がなかった」
クローヴィスはジェハの背後についたまま尋ねる。
「最初に人を殺すのは、恐くなかったか」
ジェハは鼻で笑った。
「10歳でもうやってる」
クローヴィスはちょっと返事ができないようだった。ジェハは乾いた笑い声を立てて、吐き捨てるように自分の過去を語った。
見世物小屋の猛獣を殺し、興行主に犯されて男娼に売られかかった過去……。
ジェハは身を守るために興行主を殺して、売上を奪って逃げたのだった。
初めて剣を買った金は、そのときに血で濡れた金袋から出たものだった。
ジェハも、振り向きもせずに尋ねた。
「アンタは?」
クローヴィスも、乾いた笑い声を立てた。
「最初に請け負ったのが、暗殺の仕事だった。金をくれた相手に言われるままに、夜道で人を待ち伏せて殺した。16歳のときだった。師匠のもとを離れて一人で生きるためには、仕方がなかった。仕事が終わってから、泣いたよ。そのまま死んでしまおうかと思うくらい泣いて、今まで生きてる」
悲しい話のはずなのに、クローヴィスの口調はいつものとおり眠たげであった。
やがて、二人は祠にたどりついた。
グノムスの示す光の道は、そこで尽きている。それに照らされて、あの石の祠はぼんやりと瘴気の霧の中に浮かんでいた。
あの禍々しい紋様の下にある扉は、もう制止の声を上げはしない。そこをジェハが通るのを止めようともしなかったクローヴィスは、説明を加えた。
「一度通った者は見分けがつくようだ」
背後から話しかけられても、ジェハは振り向きもしないで答えた。
「別にどうだっていい」
祠に足を踏み入れた二人は、ルーセンの払った闇の中をまっすぐに歩いた。
地下水脈の入り口は見当がついている。
石畳の向こうにある、あの石の祭壇だ。
だが、そう簡単に近づくことはできなかった。
一歩ごとに、ひとつ、またひとつと青白い光の中にうっすらとした影が床から現れて人の形を取る。
ジェハとクローヴィスの剣が、ほぼ同時に閃く。
全く手ごたえがなかったが、人の形を取った影は各々が真っ二つにされて消えた。
「黒太子の剣じゃないのに?」
ジェハが尋ねると、クローヴィスはその傍らでくつくつ笑いながら祭壇に向かって歩いた。
「こけおどしの幻影さ。本体は……」
顎をしゃくった先には、祭壇の下からじわじわと滲みだしてくる水のようなものがある。
クローヴィスは歩を速めてジェハの前へ出た。
抜き身の剣を逆手に持って、水に濡れた床に突き立てる。
「こいつだ!」
そう叫ぶと、床から無数の細い触手が蛇のように剣を這い上った。
その剣から手を離したクローヴィスは、赤毛の少年兵を呼び捨てにする。
「ジェハ!」
呼び捨てにされたことに毒づく間もなく、ジェハの身体は勝手に剣を振るって斬り込んでいた。
剣を高々と持ち上げた触手を薙ぎ払う。
澄んだ音が祠の中で高らかに響き渡り、床から自分の剣を取り戻したクローヴィスが、今度はジェハの剣を捕えた触手を斬り捨てていた。
濡れた床から伸びる無数の触手は次第に数を増していった。
斬られるたびに、ジェハとクローヴィス、いずれかの剣にからみつく。
これを繰り返すうちに触手は次第に太くなり、剣にからみつくことはできなくなっていた。
こうなれば、ジェハとクローヴィスの思うがままである。
襲い来る触手を次から次へと輪切りにしていく。
やがて床の上は、ぼんやりした光の中でひくひく動く、無数の円盤で埋め尽くされた。
生臭さに再び咳き込みながら、ジェハはまた尋ねた。
「こいつは?」
知らない、とクローヴィスは即答した。
もはや邪魔する者はなく、二人が乗った祭壇はあっという間に床下に沈む。身体はあっという間に水の中に落ちて、強い水流に流された。
凄まじい流れによって身体が弄ばれるが、溺れそうな気は全くしなかった。クローヴィスの当て推量は、どうやら的を射ていたようである。
やがて、ジェハとクローヴィスは洞窟の中の川を流されていた。乳白色の鍾乳洞を流れる、澄んだ冷たい川であった。
「ジェハ君!」
叫ぶクローヴィスの顔が水の下に沈んだ。
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