第16話 美剣士にだけ聞こえた声

 人通りのない夜中に帰ってきたのは、ジェハにとってもクローヴィスにとっても幸運だった。二人とも、この村では白い目で見られる余所者であるという以前に、ひどい悪臭を放っていたのである。

 水車小屋で出迎えたグルガンは、戸を開けるなり鼻をつまんだ。

「ずいぶんな臭いだな」

 ジェハは不貞腐れて、そっぽを向いた。

「死ぬよりましさ」

 睨みつける先には、すまなそうに目をそらしたクローヴィスがいる。その情けない姿に、ジェハはささやかな優越感を感じた。

 そもそも、クローヴィスは真っ向からと張り合っても、絶対に勝てはしない相手である。

 一撃必殺の「黒太子の剣」を背負い、精霊を操る流浪の戦士となれば、ほとんど無敵と言っていい。背中の魔剣を自分の意思で抜くことはできないが、腰に提げた長剣の技も、瞬殺の域に達している。

 それだけに、沼で正気を失ったクローヴィスは無力に見えた。精霊とやらが呼びかけに答えてくれないだけで半狂乱に陥り、ヴェーリザードの餌食になりかかった様子はいかにも惨めだった。

 助けがなかったら今頃はという思いは、ジェハはもちろんのこと、クローヴィス自身にとっても同じことだったろう。

 沼の悪臭のせいか、あるいはまた二人の間の妙な空気のせいか、グルガンは顔をしかめて言った。

「そこの谷川で身体を洗って来い」

 言われるままに二人はその場で鎧と服を脱ぎ捨て、水車小屋の外へ出た。

 ギイギイと回る水車の音は、月の光を遮る小屋の角から聞こえてくる。その向こうへ回ると、なんとか飛び越えられる程度の幅の谷川があった。

 ジェハとクローヴィスは、そのほとりに並んで立った。波立つ水面は、空から降る冷たい光を、小柄な少年と長身の若者の肌の上で網目模様に変える。

 彼らがお互いに言葉ひとつ交わすことなく、同時に水の中へと足を踏み入れる様子は、まるで何かの儀式を受けるかのようだった。

 そこでジェハの息遣いが、一瞬だけ止まる。春が近いとはいえ、夜の川は身を切るように冷たい。二人は腰まで水に浸かり、がたがた震えながら、身体を洗った。

 細い月の下に、ジェハの浅黒くしなやかな身体が微かに浮かんでいる。光る雫が駆け下りていく肌には、大きな傷や小さな傷、古い傷や新しい傷が無数に刻まれていた。

 冷たい水を何度となく頭から浴びながら、ジェハは川面に映る傷だらけ身体をしみじみと眺めた。

 初めて剣を取ったあの夜。それは、大人の男にけがされかかった身を守るためとはいえ、初めて人を殺した夜でもあった。

 それからどれだけ、殺し合いの昼と夜を繰り返してきたことだろうか。

 これまでの戦いに思いを馳せながら、ジェハは横目にクローヴィスの身体を見た。

 長い銀髪に彩られた肉体は、月の光に照らされた大理石の彫刻のように、白く逞しく輝いている。

 だが、その身体にも、ジェハと同じような無数の傷があった。

 ジェハの視線に気づいたのか、川の流れてくる方向をじっと見つめていたクローヴィスは言った。

「どうかしたかい?」

「いや、何も……。」

 ジェハはクローヴィスの肌から目をそらして、先に水から上がった。

 静かに吹き付ける早春の夜風が、肌に冷たい。ジェハは慌てて小屋の中に駆け込むなり叫んだ。

「じいさん、毛布!」

 部屋の隅にあるカマドは、暖炉の役割も果たしている。グルガンはその前に椅子を置いて、何やらふつふつ煮える鍋を見つめていた。

 ジェハのほうを見もしないでたしなめる。

「毛布をくださいませんか、だろうが」

「そんな……面倒くせえよ!」

 グルガンは返事をしない。裸でガタガタ震えるジェハは、この不当な要求に屈した。

「毛布、を、く……ださいま……せんか?」 

 慣れない言い回しでたどたどしく頼んだところで、毛布が飛んできた。飛びつくようにして受け取ったジェハは、燃える火の前で、それにくるまった。

 続いてクローヴィスも、裸身を戸口に晒した。なにやら考え込みながら小屋の戸を静かに開けて入ってくる。グルガンは、黙って毛布を放ってやった。

 その不公平を、ジェハはここぞとばかりに指摘する。

「こいつはいいのかよ!」 

「考え事の邪魔をしてはいかんからな」 

 当然のように答えるグルガンに、ジェハは食い下がった。

「じゃあ、俺のはどうなんだよ」

「何か考えて生きておるか?」

 じっと見詰められたジェハは、ためらいがちに答えた。

「そりゃ、まあ……」

「では、言うてみい」

 グルガンの追及に、ジェハは沈黙という形で負けを認めた。クローヴィスは、ジェハの隣に腰を下ろす。

 二人の後ろにある椅子が引かれた。立ち上がったグルガンが促す。

「もうちょっと火の前に来るといい」

 カマドの前に仲良く並んで暖を取る二人に、グルガンは鍋の中の薬湯を粗末な木製のカップで振る舞った。

 ジェハとクローヴィスが毛布にくるまって薬湯を啜る水車小屋の中は、薬湯のものとは違う不思議な香りに満ちている。その匂いは、部屋の奥に置かれた香炉から漂ってくる。ジェハとクローヴィスの服がかぶせてあるが、本来はグルガンが祈祷に使うものだ。

 薬湯のカップを両手で掴んで少しずつ中身を啜るクローヴィスは、疲れて眠いからなのか、悔しさからか、端正な眉をしかめていた。

「すまない、私の読みが甘かった」

 ジェハには、そう言うクローヴィスを責める気はない。たしかに沼での失態は情けなかったが、ジェハに危険が及んだわけではない。むしろ、クローヴィスを助けるだけの余裕があった。

 この程度の失敗を気に病むことのほうが情けなく思われたジェハは、つい、嘲るような口調で言った。

「諦めるのか」

 クローヴィスは強い口調でジェハに言い返した。

「ここを離れる気はない」

 二人のやりとりを聞きながらしばし考えていたグルガンは、ゆっくりと口を開いた。

「では、お前の探すものはどこにいる」

 クローヴィスは目を怒らせ、即座に答えた。

「瘴気の沼」

 ジェハも間髪入れずに口を挟む。

「いなかったじゃないか」

 クローヴィスは銀髪を振り乱しながら、ジェハにもグルガンにも食ってかかった。

「沼の底から、あの声が聞こえた」

 それでもグルガンの声は静かだった。

「お前の探している相手に間違いないのか」

 荒い息をつきながらクローヴィスは答える。

「彼は、私に会いたがっていた」 

 つまるところ、「瘴気の沼」でクローヴィスが己を失ったのは、水の精霊ウンディーネの制御に失敗したからではないということだ。探し求める「深き水底の王」の呼び声は、精霊をも操るだけの冷めた心を持ったクローヴィスを混乱に陥れるに足るものだったのだろう。

 そうした難しい話の分からないジェハは、ただクローヴィスの剣幕にうろたえているしかなかったが、最後の一言がとりあえず理解できたことでようやく落ち着いた。

「どうやって会いにいくんだよ」

 クローヴィスはジェハのからかいに似た問いには答えず、グルガンの方を向いて尋ねた。

「外の川は、どこから流れてくるんだ?」

 さあな、とグルガンは肩をすくめる。

「森の奥からということしか知らん」

 そこで、クローヴィスは欠伸をひとつした。そこで話の流れはせき止められ、大きく開けられた銀髪の美剣士の口を、ジェハもグルガンも唖然として見つめるしかなかった。

 今度は、クローヴィスの方から話が切り出された。

「つまり」

 考えがまとまったらしく、眠たげな口調でいつものように喋りだす。

「アルケン伯爵領やローク男爵領のように河川の入り乱れた土地ならともかく、そうでないこの辺りなら、水源はそこしかない」

 グルガンは、ぽかんと口を開けていたが、やがて顔を伏せて、上目遣いにジロリとクローヴィスを眺めた。

「まさか、お前……」

 クローヴィスは自信たっぷりに答えた。

「地下水脈を使う」

 何のことだか、ジェハにはさっぱり分からなかった。だが、それを正直に言うのもみっともない。学問も教養もない傭兵ができるのは、ハッタリを利かすことだけだった。

「そんなもん、どこにあるんだよ」

 クローヴィスを問い詰めるふりをして、ジェハは地下水脈とは何かを聞き出すことにした。

 窮地に陥ったら、手持ちの武器を頼りに相手を追い詰めていくしかない。これは、戦場でも同じことだった。槍がなければ剣で、剣がなければ短剣で、刃物がなければ地面に落ちている石で。それも拾えなければ、拳と爪と歯で立ち向かうしかない。

 この場合は、聞いたばかりの言葉が手掛かりだった。狙いどおり、クローヴィスは、質問に対して丁寧に応じた。

「この谷川は、あの瘴気の沼から流れてくるということだ」

 ジェハは吐き気を覚えたが、ぐっとこらえた。さっき身体を洗った水は、結局、あの臭い沼から流れてきたということになる。

 グルガンもそれを察したのか、なだめるように言った。

「この世に混じりっ気なしのものはない。水も空気も、わずかではあっても穢れを孕んでおる。まごうことなく清らかなものは……そう、太陽と月の光くらいのものだろう」

 クローヴィスも頷いた。

「その水で、この村の人たちは生きてきたんだから」

 気を取り直して、ジェハはもう一度尋ねた。

「で、そのチカスイミャクってのはどこにあるんだよ」

 実をいうと、地下水脈が何なのかさえ、よく分からない。それを知ってか知らずか、クローヴィスは再び、遠回しな話を始めた。

「あの沼が水源だとすると、水はどこから来ているか」

「やっこさんのいる場所だな」

 グルガンが言葉を継いだが、やはりジェハには分からない。

「だから使うモノはどこにあるんだよ」

 無知がバレないように、分かる言葉だけを使って、ようやくのことで追及の文句をでっちあげる。それでもクローヴィスはなかなか本題に入らない。

「あの祠の床には、コケがびっしり生えていた」

「それがどうしたってんだよ」

 あまり話を引っ張られると、ジェハにもボロが出る。それを隠そうとすればするほど、クローヴィスを責めることになる。結論を引き出さなければ、しったかぶりの大恥をかいて、グルガンの失笑を買うことになる。

 ムキになるジェハに対して、クローヴィスは穏やかに答えた。

「あの下には、水が流れてるからさ」

「だからチカスイミャクってのは……」

 さらに突っ込んで尋ねるジェハの言葉を、グルガンが遮った。

「祠の下に流れてる水だと、さっきから言っておる」

 しばしの沈黙の後、クローヴィスが目を閉じて、何度となく頷いた。グルガンも、顔を背けて失笑する。

 隠していた無知と知ったかぶりがバレたのを悟ったジェハは、頬に熱いものを溜めてうなだれた。こんな思いをしたのは、初めてリナに会ったときくらいだった。 そうやって恥じ入るジェハを慰めるように、クローヴィスが話をまとめた。 

「あの沼の水は、『深き水底の王』のいる地下から来ている。それをもたらす水脈の上に、あの祠もあるってことさ」

 恥をかいたことですっかりなくした立場をごまかすように、ジェハは文句をつけた。

「溺れたらどうするんだ!」

 それにはグルガンも頷いたが、クローヴィスの答えは冷ややかである。

「一緒に行けとは言ってない」

「何だと!」

 逆上するジェハに、クローヴィスは最も残酷な解答を与えた。

「はっきり言うが、リナは助からない」

 ジェハはクローヴィスにつかみかかった。胸ぐらを掴まれたまま、クローヴィスは短剣の刀身に刻まれた文言を繰り返す。

「汝の愛する者この刃もて命断たぬ限り深き水底の王の妻となるべし」

 クローヴィスを掴みあげるジェハの背中に、グルガンは諭すように働きかけた。

「放っておけば、リナはラミアのままだ。村人にバレたら殺されるか、リナが村の者を皆殺しにするかどちらかしかない。救ってやろうとすれば、誰かが殺してやるしかない。リナに愛する人がおればの話だが」

 ジェハはクローヴィスから手を離した。クローヴィスはジェハに背を向け、戸口へ向かって歩き出した。出て行くクローヴィスに、グルガンが尋ねた。

「行くのか」

 待てよ、とジェハが追いすがる。クローヴィスはジェハを押しのけて、水車小屋を出た。

 ジェハはなおもついていく。そこへ、背後からグルガンの声が掛かった。

「待て」

 止められたって行くつもりである。ジェハは苛立ったように振り向く。だが、グルガンの用件はそこではなかった。

「鎧は脱いでいけ」

 確かに、地下水脈を行くなら、鎧は危険である。

 そこへ、ガルバの寝かされている奥の部屋から声がした。

「待てよ」

 扉が力任せに開かれて、眼を覚ましたガルバがよろよろと起きてきた。

 いかん、と前に立ちはだかるグルガンを押しのける。

 ジェハの前へ歩み寄ったが、大きな身体はそこで音を立てて転がった。

 助け起こすジェハに、リナはどうしてる、と苦しそうに聞いた。

「大丈夫だ」

 そうなだめるジェハは、ガルバの顔から目をそらしている。

 ガルバはジェハに抱えられたまま、必死の形相で立ち上がろうとあがいた。

 俺も行く、という喘ぎを、グルガンが静かに叱りつける。

「立つこともできんだろう」

 ガルバはグルガンの言うことなど聞いてはいない。

「どこへ行くんだ」

 君では無理だ、とクローヴィスがたしなめるが、ガルバはジェハの腕の中で暴れる。

「どこへ行くんだよ」

 しつこく尋ねるガルバへの怒りを抑えかねたのか、とうとうグルガンが叫んだ。

「寝ておれ!」

 だが、ジェハはつぶやいた。

「瘴気の森」

 ジェハ君、とクローヴィスが制止する。

 クローヴィスの目を真っ直ぐ見て、ジェハは首を横に振った。

 止めるな、というジェハの仕草を見て取ったのか、ガルバは喚くのを止めてつぶやいた。

「またかよ」

 ジェハはガルバとは目を合わせず、背中を軽く叩きながら言った。

「俺と来るか?」

 ガルバは口元に笑みを浮かべた。

「やっぱり、リナのためか」

 ああ、とジェハが頷くと、ガルバはがくん、とその腕に身体を預けた。

 その重さに耐えかねてジェハが床に倒れこむその時、頼んだぜ、というガルバの声が聞こえた。

 顔を見合わせるグルガンとクローヴィスを見上げて、ジェハは呻き声を上げた。

「起こすの手伝ってくれ、こいつ重いんだ」

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