第15話 瘴気の沼の闘い

 月はまだ細いから仕方ないとしても、星明かりも見えないような暗い森の中を、ジェハたちはひたすら歩いた。昼間に二度も通った道である。松明などなくても、傭兵として夜戦で培ってきた勘だけで、ジェハは先へ先へと進むことができた。

 ときどき、足の下で何かが潰れる感触がある。その時の乾いた音から察するに、湿っぽい暗闇の下で蠢く蟲たちであろう。

 気持ち悪いなどという感覚はとうの昔になくなっている。戦場では、血にまみれて倒れている瀕死の人間でさえ踏み越えていったものだ。

 だが、そんな経験があるとはとても思えないクローヴィスも、当然のように隣を早足で歩いている。

 それがなんだか癪に障って、ジェハはつい悪態をついた。

「本当に『瘴気の沼』なんだろうな」

「何が?」

 聞き返す笑顔は、そんなの分かってる、と言わんばかりである。余計に面白くないジェハは、嫌味たっぷりに聞いてやった。

「お前の探している、『深き』ナンとやらさ」

 いい加減に省略された言葉を特に訂正することもなく、クローヴィスは答えた。

「たぶん、地下水脈は沼のどこかに通じている」

 あまりにも安直な読みを、ジェハは鼻で笑った。

「たぶん、かよ」

 ほとんど当て推量とでもいうべき判断を嘲られても、クローヴィスはムキになったりはしなかった。相変わらずの眠たげな声で弁解する。

「有り得ないことではないんだ。確かめてみる価値はある」

 確信のないことに付き合わされて、あの悪臭ふんぷんたる物騒な森を歩かされるかと思うと気が滅入った。リナはいつ、再びラミアに変身するか分からない。時間の猶予はあまりなかった。

 いかにもうんざりしたように、ジェハは言った。

「グノムスかなんかに聞けないのかよ」

「水のことならウンディーネだよ」

 なんだよそれ、と突っ込んだジェハに、クローヴィスは事も無げに答えた。

「水の精さ」

 ジェハはいかにも、面倒臭いといった調子で聞いた。

「じゃあ、そのウンディーネに……」

 答えはすぐに返ってきた。

「沼の底には土がある。その下のことは答えてくれない」

「面倒くさいな」

 ジェハは吐き捨てた。

 初めてグノムスを見たときは、正直、足がすくんだ。これまでの戦場で、現実離れしたものはさんざん見てきた。だが、実体のないものを目の当たりにしたことはなかったのだ。

 強く逞しく、器用で美しいクローヴィスは虫が好かなかったが、そんなものを操るのを見せられて、内心では一目置いたものだった。

 それだけに、ジェハの疑問に自信をもって答えられないばかりか、その理由を精霊のせいにする体たらくはあまりに情けなかった。

 ジェハの幻滅は分からずとも軽蔑は感じたらしく、クローヴィスは溜息混じりに答えた。そこには、半分は言い訳、残りの半分は諦めの響きがあった。

「それが精霊だ」

 相手が弱気になったのをいいことに、ジェハはまだ何か言ってやろうとしたが、そう思うと、言葉というものはかえって出てこないものである。

 お互いが無言で歩くうちに、やがて、あの生臭い霧が流れてきた。

 ジェハが咳き込む。暗闇の中だったが、「瘴気の森」が近いことはそれで知れた。

 一方のクローヴィスはというと、印を結んで、息を乱すことなく呪文を唱えた。風もないのに、霧が離れていく。ジェハには分からないが、精霊が動いたのだろう。

 暗いはずの森には、代わりにどこからか月明かりが射し込んできた。霧の向こうにあった「瘴気の森」が、遠目にもよく見えた。天から降り注ぐ月の光が、「瘴気の森」の放つ禍々しい霧の中を薄明るく照らしていたからである。

 その瘴気は、ジェハたちが近づくと道を開けた。足元の蟲たちが遠ざかっていくる気配がする。まず、目指すのは昼間に見つけた祠だった。

 枯葉で覆われた、道のない地面にジェハたちは足を踏み入れた。目の前に、怪しげな蟲が跳ね上がる。ジェハが一歩退いてかわすと、そいつは鼻先で一閃したクローヴィスの剣で真っ二つにされていた。

「危なかったね」

 夢の中にいるかのような、座りの悪い口調だった。本当は借りを作ったと思ったが、その一言がどうにも癇に障って、ジェハは心にもない悪態をついた。

「黒太子の剣は俺なんかのためにゃ使えないってか?」

 クローヴィスは別段怒ることもなく、眠たそうに皮肉を返した。

「僕はいいけど、黒太子サマが嫌だってさ」

 自分が口喧嘩を吹っ掛けたことは棚に上げて、ジェハは腹立たし気にクローヴィスの前に出た。

 背後から、止める声がした。

「入っちゃいけないったら」

 視界が瘴気で霞む。いくら見たことがあるといっても、明るい時と暗い時では方向も、距離も、見当も違う。

 今まで感じたことのない悪寒が全身を駆けめぐった。クローヴィスが追いすがる。

「夜っていうのは、こういう瘴気が勢いづく」

 ジェハは返事もしなかった。探すものが目の前にあったからである。月明かりの下で、古い石造りの祠は白く輝いていた。

 クローヴィスが尋ねた。

「神々しいと思わないかい?」

 ジェハはイライラと答えた。

「先、行こうぜ」

 ジェハにとってもクローヴィスにとっても、この祠には今、「瘴気の森」の中の目印としての用より他のものはないはずであった。

 二人はその傍を通り過ぎた。

 祠を過ぎても、森の中は思いのほか明るかった。立ち並ぶ木々が枯れていたからである。

 クローヴィスがつぶやいた。

「沼の瘴気のせいだな」

 ガルバが倒れたときの、あの腐臭が漂ってきた。

 ジェハは、「近いな」とだけ答えた。

 ぼんやりとした光が遠くに見えてくると、あれが沼だろう、とクローヴィスが指差した。

 その先を見ながら、ジェハは言った。

「沼で戦ったことはあるか? 足取られんなよ」

 いささか得意げなジェハだったが、クローヴィスは事も無げに、あの眠たげな口調で答えた。

「言ったろう? 私も傭兵だったことがあるのさ」

 やがて森を抜けると、どこまでも続く沼地を、満月が照らしていた。

 沼の水面には、様々な形の水草が、歪んだ葉をぎらつかせている。浮島の下からは絶えず吹き上げているのは、瘴気の泡だ。

 固そうな地面がないわけではない。ところどころに少しばかり顔を見せている。だが、その上には、蔓草が幾重にも、蛇のように絡み合い、這い回っていた。

 その沼地の彼方に目を遣りながら、クローヴィスが言った。

「たぶん、ここを抜けるとアルケン伯爵領だ」

 それがどうした、とジェハは努めてさりげなく答えたが、いささか心が動かないわけではなかった。

 今行けば、戦に間に合うかもしれないのだ。

 クローヴィスは言葉を継いだ。

「それともローク側だったかい?」

 ジェハは苛立たしげに答えた。

「どういう意味だ」

 そろそろ始まるんじゃないか、とクローヴィスが言うか言わないかのうちに、ジェハは言い放った。

「お前には関係ない」

 クローヴィスは怯んだ風もない。

「戦に行かないと敵前逃亡したことになるんだろう、傭兵団は」

 大きなお世話だ、とそっぽを向くジェハに、クローヴィスは畳み掛ける。

「渡る自信がなければ、ウンディーネに水の浅いところを聞いてあげるよ」

 ジェハは、クローヴィスのお節介をどうにか鼻で笑ってみせた。

「お前の用は済んだのか」

 今度はクローヴィスが口を閉ざした。

 しばし押し黙って、つぶやいた。

「何か聞こえる」

 ジェハの耳にも微かに聞こえた。

 ちゃぽりという音。

 ジェハは腰の剣に手をかけてつぶやいた。

「確かに」

 それじゃない、とクローヴィスは首を横に振った。

 やってろ、とジェハは息をゆっくり吐きながら周囲の気配を伺う。

 その一方で、クローヴィスは目を閉じてつぶやく。

「私の心の中に、何か響いた……。」

 ジェハはそれを横目に毒づいた。

「何してんだよ」

「音がどこからきたのか探っている」

「そこだ!」

 叫ぶなり、ジェハは剣を抜いた。

 水を跳ね上げる音と共に、月明かりに鱗が光る。

「目え開けろ!」

 クローヴィスは目を閉じたままである。

「今それどころじゃない……!」

 そりゃこっちの台詞だと叫ぶなり、泥の中から立ち上がる黒い影をジェハは抜き打ちに切り捨てた。

 泥の飛沫を上げて倒れたのは、人の形をしたトカゲである。

 ジェハは、そらみろとでも言うように低くつぶやいた。

「ヴェーリザードだ」

 クローヴィスはようやく目を開いた。

 二人はすでに数頭のヴェーリザードに囲まれている。

 クローヴィスが尋ねる。

「亜人と戦ったことは?」

 ジェハは鼻で笑った。

「洞窟漁りもやったからな」

 クローヴィスが背中の剣に手をかけると、剣はそれに応えるように唸った。

 水に踏み込まないように、というクローヴィスの注意に、ジェハは「分かってる」とうるさそうに応えた。

 ヴェーリザードは次から次へと水中から身体を起こす。水の抵抗をものともせず、瞬く間に接近してくる。

クローヴィスは黒太子の剣を片手に、もう一方の手で印を結んだ。

「ウンディーネに水を固めてもらう」

 ジェハは腰を落として低く構えながら怒鳴る。

「なんでもいいから早くやれ!」

 その声に応ずるように、ヴェーリザードの群れは長い腕を伸ばし、鋭い爪で掴みかかってくる。

クローヴィスは黒太子の剣を縦横に振るってヴェーリザードの腕を切り落とし、胴体を横薙ぎに斬る。

 その間にも、何やら低い声でつぶやき続ける。

 何かに語りかけているように聞こえるのだが、そんなことにいちいち構っている余裕はなかった。

 水と泥に足を取られながら、ヴェーリザードを一頭、また一頭と斬り捨てていかなくてはならない。

 それでもヴェーリザードは水の中から次々に現れる。

 襲い掛かる人型のトカゲに向かって剣を振るい、身体を叩きつけて水中に転がし、間合いを取ってはまた斬りつけながら、ジェハはクローヴィスの呪文に悪態をついた。

「効いてんのか、それ!」

 それまでの姿からは想像もつかないほど、クローヴィスはうろたえていた。

「ウンディーネの声が聞こえない」

 半分は皮肉、半分は励ましのつもりでジェハは言った。

「最初からアテにしちゃいない」

 だが、クローヴィスの動揺は治まらなかった。

「何かが邪魔をしている」

 クローヴィスは、目の前に迫るヴェーリザードにも気づかない。

「そんなこと言ってる間に何とかしろ!」

 ジェハは叫ぶなり、クローヴィスの前に飛び出して、襲い掛かるヴェーリザードを斬り伏せた。

 だがクローヴィスは、呆然とその場に立ち尽くすばかりである。

「あの声だ……!」

 その背後に迫る影がある。ジェハは喚いた。

「そっち来るぞ!」

 ジェハの警告は、クローヴィスには届いていないようだった。

 クローヴィスは黒太子の剣をだらりと下げ、虚ろな目をして叫んでいた。

「私を呼んでいる!」

 ジェハは助けに走ったが、水と泥に足をとられて、思うように進めない。

 その間にヴェーリザードが、クローヴィスを背後から羽交い絞めにして水中へ沈んだ。

 大きな泡が浮かんでくる。

 しばらくして、ヴェーリザードが背中を向けて浮き上がってきた。クローヴィスを抱えたまま、どこかへ泳いでいこうというのだろう。

 ジェハは剣を逆手に握った。

 ほとんど転ぶようにして身体を前に投げ出す。

 ジェハが倒れこんだ所で泥と水が幾重にも波立ち、剣がヴェーリザードの背中を貫いた。

 ヴェーリザードは、刺された背中を反らしてのけぞった。トカゲの頭と尾が、ピンと水面から跳ね上がる。

 月明かりに鈍く光る鱗に覆われた身体が、ゆっくりと暗い水底に沈んでいった。

 ジェハは泥まみれの身体を起こした。我とわが身の悪臭にむせる。

 まともに呼吸ができるようになったところで辺りを見渡したが、もうヴェーリザードの気配はなかった。

 突然、ばしゃりという水音がした。身体を強張らせてそちらを見る。

 少し離れたところから、クローヴィスがよたよたと現れた。

 クローヴィスが満面の笑顔を浮かべながら手を振った。

 泥まみれの顔だが、月の光の下では、何故か絵になる。

「助かったよ、ありがとう」

 心の底からと思える感謝の言葉にも、ジェハの返事はつい皮肉っぽくなった。

「よく俺の剣が刺さらなかったな」

 クローヴィスは、安心しきったように口を大きく開けて、眠そうに欠伸をした。

「そこは君の腕を信じているさ。」

 さっきのうろたえっぷりからは想像もつかないような余裕に、ジェハの皮肉はますます度の過ぎたものになっていった。

「底まで沈んだら会えたんじゃないのか」

 クローヴィスは笑って首をかしげた。

「何に?」

 ジェハは冷ややかに言い放つ。

「『深きミズソコの』ナンとやらさ」

 クローヴィスの声は、急に低く厳しくなる。

「私が死んだ後では意味がない」

 その口調に、ジェハは思わずたじろいだ。それでもやっとの思いで、おどおどと言う。

「む、無駄足だったな」

 ジェハが皮肉で言っているのに対し、クローヴィスは目を伏せて「すまない」とだけ言った。

 二人は沼から一緒に上がり、並んで歩き出した。

 誰もいなくなった沼は静かだった。

 細い月の下はぼんやりと暗く、怪しげな虫たちが飛び回る光の中、沼にはヴェーリザードの死体が山となって積み上がっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る