第6話 瘴気の森の鬼

 村の柵を越えて、太い木の根が地面を這う薄暗い森の中を歩き始めると、やがて顔に生臭い風がぬらぬらとまとわりついてくるようになった。 

 森は腐臭に満ちていた。動植物の死骸がまとめて崩れ爛れているような、そんな臭いである。

 ジェハはガルバの真後ろでつぶやいた。

「臭いな」

「黙って歩けよ」

 短く答えたガルバは、息を吸い込むなりむせかえった。ジェハも咳き込んだ。開けた口の中に入り込んできた悪臭は、喉の奥で渦を巻きながら腹の底へと落ちていった。

 吐き気がする。本当にこっちでいいのか、という気がした。

 帰りたくなって苦しい息の下で振り向いても、村はもう見えない。それほど、村から遠い森の奥まで来てしまったのだ。

 もう、逃げ道はない。やるしかないのだ。

 悪臭を我慢しながら相当の距離を歩いたと思う頃、森の木々の間に薄く霧が流れ始めた。

 ついてくる義理など全くないのに、案内を自分から引き受けたガルバだったが、急にその足は、なかなか進まなくなった。それどころか、ガルバは「戻ろう」とさえ連発し始めたのである。

 やがて、目の前が真っ白に閉ざされるようになった。太い木の幹の間はぼんやりと白く、目を凝らさないとその奥は見えない。腐臭を放っているのは、実は濃い霧そのものであった。

 しばらく歩いて、目の前にあるはずのガルバの背中さえ霧にかすみ始めた頃、急に目の前が明るくなった。

 足元を確かめながら歩くガルバについてしばらく歩き続けると、その深い霧の中に、葉の落ちた木々が見え隠れするようになる。

 葉の落ちない木々は細く、丈の低いものばかりである。その低い木の間を歩いていこうにも、明るいのに前が見えない。

 森の中に入るまではジェハの先に立って歩いていたガルバも、今ではジェハの横についたり遅れたりして頼りないことこの上ない。

 それでも、案内を受けるジェハは文句を言える立場になかった。しかもガルバは、こんな思いをしなければならないのに、原因となったリナのことは一切聞かなかったのである。

 だが、霧が深くなるにつれて、泣き言は出た。

「鬼が出るから行ってはいけないと、子供の頃から言われてきたんだ」

 そう言っている間に足元を這う異形の蟲を見れば悲鳴を上げ、時折、生暖かい風が吹いて来れば気味悪がった。

「この向こうに沼があるんだ。そこから吹いて来るんだよ」

 ガルバは森の奥を指差すが、深い霧でどのみち見えはしない。ただ分かるのは、太い木の根や石でごつごつした足元が次第に柔らかくなってくるということである。枯葉が積もっているのだ。

 霧はますます濃くなっていった。ジェハは長い木の枝を一本折ってみた。枝は折れるというよりは幹からすっぽり抜けたというほうが正しかった。その枝で、ジェハは足元に積もった枯葉を払いのけ払いのけ歩いた。

 やがて、ガルバのかすれ声が聞こえた。

「ここだよ」

 そう言ってむせ返りながら、ガルバはジェハを追い越して霧の中へと消えた。ジェハは木の枝を引きずりながら、慌てて後を追った。

 瘴気の森にたどりついたのである。

 何か分かるかもしれないと思ってやってきたジェハであったが、この霧では何を探すこともできそうになかった。

 風はそれほど強くはなく、霧を吹き払ってくれることは期待できなかった。

 ジェハが散らかした枯葉はぴくりとも動かない。それほど風がないのである。

 たゆとう臭気が全身にまとわりつく。息をすると口の中まで粘ついてきて、ジェハは何度となく唾を吐いた。

「また何か出た!」

 ガルバの悲鳴が上がる。

 枯葉の中から飛び出した蟹のような生き物が、ジェハの顔にへばりついて爪を立てた。

 ジェハはそれを片手で掴んで剥ぎ取り、叩き落として足で踏み潰す。それはぐしゃりという音を立てて死んだ。

 潰れた生き物から、生臭い体液があふれ出す。

 それに引かれたのか、羽虫が集まってきた。

 ジェハたちは歩き出したが、悪臭はつきまとった。羽虫は次第に増えていく。

 終いには二人の全身にたかり、耳元でいらだたしい羽音をたてるまでになった。

 飛び交う羽虫を、ガルバは悲鳴を上げて振り払う。

 ジェハも我慢できなかったが、無言で歩を進めた。ガルバもひいひい言いながらついてくる。

 だが、霧はますます濃くなってきた。それにしたがって腐臭も強くなり、息苦しささえ感じられるようになった。

 ガルバがまた弱音を吐いた。

「もう戻ろうぜ」

 それでもジェハは先へ進んだ。どれだけ進んでも、帰り道は分かるはずだ。その目印にするために、枯葉を払いのけてきたのである。風がほとんど吹いていないため、足下は木の枝で散らかしたままになっているはずだった。

 ガルバの言うことにも一理あるのだった。今日一日で探索する必要もないのである。リナによれば、彼女が鱗に覆われた、長い爪のある獣の姿になるのは新月の夜だ。次の新月が巡ってくるまでには、まだ時間があった。

 だが、スロガ公爵の追っ手が来るおそれは拭い去れない。領内であれだけの流血沙汰を起こしたジェハを、配下の兵士たちは血眼で探しているだろう。アルケン伯爵の戦にも間に合わないかもしれない。いないことが分かれば、戦が終わった後に団長はやはり追手を遣わして、前払いした報酬の返還か死かを選ばせるだろう。

 ジェハはもちろん、金も命も惜しい。少しでも早く手がかりが欲しかった。

 金にもならなければ楽でもない、何の得にもならない頼まれごとなど放っていけばいいのだが、それはどうしてもできなかった。

 生まれて初めて自分に向けられた、清楚な少女の笑顔がジェハの足を前へ前へと駆り立てていた・¥。

 霧はますます濃くなっていく。それにつれて、臭いもひどくなっていく。息苦しさで、視界もぼやけてきた。足元を見て歩くのがやっとである。

 ガルバの声も、もうどこから聞こえるのか分からなかった。

「もう何も見えないぞ、オマエどこにいるんだ」

「ここだ」

 答えはしたが、ガルバに自分の居場所が伝えられたかどうかは確信がなかった。

 振り向いてみたが、ガルバの気配はない。足元に、さっき木の枝で引っ掻きまわした枯葉が散らばっているばかりである。

 ジェハも呼んでみた。

「お前どこだ」

「ここだ」

 そう言われても分からない。音で場所の察しがつかないかと耳を澄ましてみた。

 霧の向こうから、何かが近づいてくる気配がした。

 ガルバかと思ったが、枯葉を踏みしめる足音のリズムが違う。

 ジェハはとっさに叫んだ。

「走れ!」

 ガルバが聞き返す。

「何だって?」

 ジェハは怒鳴った。

「走れよ!」

 もたもた走るガルバの足音が聞こえた。さっきの足音とは違うリズムだ。

「置いていくぞ」

 ジェハは走り出した。自ら散らかした枯葉の上を駆け抜ける。ガルバがついてこられるかどうかは分からなかった。だが、危険を感じたら一目散に逃げるのも、ジェハが戦場で生き抜く中で身につけてきた知恵の一つだった。

 背後からガルバの喚き声が聞こえた。大量の枯れ葉が舞い上がる音がする。どさりどさりと何かを叩く音がする。恐らくは、ガルバの大槌が枯葉を盲滅法に叩いているのだ。

 何かが出たのだ。ジェハの勘は当たっていたのである。逃げたのは正解だった……。

 しかし、いつの間にかジェハは、音を頼りに正反対の方向へ走っていた。腰の剣を抜き放つ。

「ガルバ!」

 はじめてその名を呼んだとき、その名の主が霧の中の何かと戦っている気配が感じられた。

 この辺りかと思って駆け寄ると、鼻の先を大槌がかすめた。

「俺だ、ガルバ!」

「ジェハ!」 

 ガルバもジェハの名を呼んだ。枯葉を掻き分けて、ジェハの足元に這い寄ってくる。すっかり腰が抜けているらしい。

「どうした?」

「あれ……。」

 足元でガルバが指差す先には、人の形をした影がある。霧の向こうに、というよりは霧そのものが形を取ってそこにいるという感じがした。

 ガルバが恐ろしげにつぶやいた。

「あれが、鬼だ……。」

 大きさは人ぐらいだろうか。ただし、背は大柄なガルバよりもなお、少しばかり高そうだった。

 ぼんやりした影が、霧の中をゆらゆらとやってくる。

「気をつけろ、ジェハ……。オレはもう……」

 ジェハの足元で、ガルバの大きな身体が倒れた。

 構っている暇はなかった。ジェハは悪臭ふんぷんたる霧にむせながら考える。

 ……回りこめるか?

 たちこめる濃い霧が、影を覆い隠す。

「こらえろよ!」

 もうどこにいるか分からないガルバに言うなり、気配だけを頼りに「鬼」の側面に回りこんだ。

 横薙ぎの一閃。間違いなく、胴体に斬り込んだはずだった。

 それなのに……手ごたえがない!

 霧の中から、剣のような、槍のようなものが迫った。慌てて剣で防ごうとする。

 弾かれた! 

 剣が跳ね飛ばされて、霧の中へ消えた。

 再び「鬼」の刃が襲う。

 ジェハは咄嗟に、枯葉の上に伏せた。

 刃が降ってくる!

 地面を転がってかわす。

 凄まじい速さで、さっきジェハが伏せていた枯葉の上に、何か鋭いものが突き立てられた。

 それは再び、仰向けの身体の上から降ってくる。

 とても立ち上がる暇などなく、やはりジェハは転がるしかなかった。

 何度となく突き出される「鬼」の刃をかわして、ひたすら横へと転がって逃げる。

 そのうち、身体が何かにぶつかって止まった。何かと思って探ると、木の幹がある。

 これは……逃げられない!

 それでも慌てて、幹の感触を頼りに立ち上がった。さっき横たわっていたあたりの枯葉を突き刺す音がする。木の裏側に回り込むと、風を切る音がした。思わず身体をすくめたところで、木の幹がばりばりと裂ける。

 凄まじい力だった。もう逃げ道はない。次の一撃で、何もかもが終わる。

 白く濁った視界の中でも、あの「鬼」の刃が振り上げられるのだけは分かった。

 立ち上がって逃げ出そうにも、背中から一撃を食らって死ぬのがオチだった。何もしないで死ぬのはいやだったが、恐怖で身体が動かない。しゃがみこんでうずくまったまま、ジェハは覚悟を決めた。

 ……来る!

 固く目を閉じたが、刃は降ってこなかった。目を開けると、枝を剥き出しにした森の木々が、遠くまで続いていた。

 たちこめていた霧が晴れたのだった。

 頬に微かな風を感じながら、ジェハは顔を上げた。振り向くと、ずっと向こうにガルバが倒れているのが見える。何が起こったのかと辺りを見渡しながら、ジェハは立ち上がった。

 その答えは目の前にあった。

 革鎧をまとった長身の男が一人、真っ黒な長剣を片手に立っていた。切れ長の目が、ジェハを見つめている。

 長い銀髪が、冷たい青空の下で微かな風に吹かれて揺れていた。

 男がガルバのほうを振り向いて、ジェハに重く低い声で語りかける。

 その口調は、声に似合わず柔らかかった。

「早く運んで、手当てしてやろうか。今、この村で瘴気鬼の毒を抜けるのは、グルガンの祈祷だけだよ」

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