第5話 古代文字の鞘
雨はすっかり上がっていた。森の中の小道はまだ水浸しだったが、歩けないわけではない。高く高く生い茂った針葉樹の梢の上には、冷たい青空が細々と続いている。
ジェハは、ガルバの姿を探して早足で歩いた。一緒に行けば、薬屋のガールッタに会える。表向きは薬草の仕入れということにして、リナの幼い頃の話を聞こうと考えたのである。
しばらく歩いて、ようやくガルバの後ろ姿が見えた。籠を抱えて、のそのそと歩いている。追いつくのはわけなかった。
声もかけないのに、ガルバはジェハに気づいて振り向いた。
「ついてくるな」
そういうなり、ガルバは前を向いて歩き続ける。その隣に、ジェハは並んだ。
無愛想に答える。
「オレも用がある」
ジェハの顔を見もしないで、ガルバが聞いた。
「何だよ」
「薬屋に行くんだから、薬買うに決まってるだろ」
本当の用事が言えるはずもなかった。言えばリナのことも話さなくてはならない。
だが、幼馴染の勘でも働いたのか、ガルバはしつこく聞いてきた。
「何の薬だ」
「オマエに関係ない」
ジェハがそう答えると、しばしの沈黙が続いた。
しばらく歩いて、ガルバが足を速めた。ガニ股の太い脚でばたばたと歩いたので、水飛沫がジェハの顔にかかった。
ジェハはガルバを追った。再び追いすがると、ガルバの顔に水溜りの水が撥ねた。
再び水飛沫を上げて、ガルバは走り出した。同じように水を撥ねながら、ジェハは後を追った。
跳ね上げた水は澄んでいた。だが、ガルバは走りながら文句を言った。
「何すんだよ」
隣を走りながらジェハは言い返した。
「オマエこそ」
さらに水飛沫をひっかけながら、ガルバはジェハに聞いた。
「本当にリナの家に泊まったのかよ」
分かりきった質問にうんざりしながら、ジェハは面倒くさそうに答えて水を跳ね上げた。
「泊まった。それがどうかしたか?」
それに答えるように、ガルバが両脚で撥ねて水をひっかけてくる。
「……どうもしない!」
ジェハも負けじと同じことをした。
「……なら聞くな!」
道をべっしゃりと濡らす水が何度となく弾けて、森の梢を抜けてくる朝日に輝いた。
「……お前、リナの、何なんだよ!」
「……通り、すがりだ、文句あるか!」
そんな喧嘩にも疲れて、無言のまま二人が並んでとぼとぼと歩いていると、村の入り口を示す小さな門が見えてきた。
門と言っても、道の両端に杭が打ってあり、それに人の胸の高さくらいの扉がついているに過ぎない。ジェハは背が低いほうなので、この門を閉めきられたら奥を見ることができなくなる。
だが、門は開いていた。通り抜けると、森は背後に抜け、雨上がりの空が広々と見える。
澄みわたる青空の中を、凄まじい勢いで飛びすぎる無数の千切れ雲……。
周囲を門と同じ高さの木柵で囲った村は、その下にあった。
畑の土を起こしに行く村人たちの姿が、あちこちに見える。冬が過ぎたとはいえ、朝はまだまだ寒い。加えて、大雨が去った後でもある。鍬を担いだ人々が、幾重にもぼろを何度もつぎはぎしたような服を着て歩いている。誰もが肩をすくめていた。
ジェハとガルバは、その間を小走りに歩いた。
ガルバは少しでもジェハから離れようとする。だが、不案内な村で案内を見失うわけには行かない。ジェハはその度に足を速め、ガルバについて歩いた。
その間にも、多くの村人とすれ違った。誰の目も冷たい。分厚い頭巾の下からジェハをチラリと見ては、何も見なかったかのように目を伏せて去っていく。
そんな村人たちを何人も見送ってから、ガルバは言った。
「悪いな。余所者と一緒にいるのを見られると何かとうるさくてな」
急ぎ足に歩くガルバから離れたり、それにまた追いついたりしながら歩いていると、軒のかしいだ古い平屋に着いた。
ガルバは古びた木の扉を叩いて叫ぶ。
「おい、ガールッタ! 来たぞ。ガルバだ!」
ここがガールッタの薬屋のようだった。
ガルバが呼ぶのに応じて、砂色の髪をした、太った中年の女がむすっとした顔で扉を開けた。ガルバが籠を突き出す。
「薬草持って来たぞ」
この女がガールッタらしい。
のそのそと出てきたその姿に、ジェハは場末の娼館によくいる年増女を思い出した。
やけに背筋首筋がすっくりと伸びているが、動きはのろい。
ごてごてと何やら分厚く着込んでいるが、服の模様はやたらに細かい。胸がやたらと大きく見える。もとは派手な服だったのだろうと思われたが、随分と擦り切れて色あせている。
何よりも、化け物じみて白粉や頬紅が濃かった。
野太い、くぐもった低い声で言った。
「入りな。戸は自分で閉めるんだよ」
ガルバとジェハは中に入った。ガルバが戸を閉めなかったので、ジェハが代わりに閉めた。
ガールッタはものも言わずに薬草を取り出し、秤にかけた。
懐に手を入れて、何やら数えていたかとおもうと、ガルバに銀貨数枚を掌に載せて突き出した。
ガルバは不満気に言った。
「少ないんじゃじゃないか」
ガールッタは間髪入れずに言い返す。
「リナに言いな」
そしてジェハをじろりと見た。
「あんた何者だい」
ジェハは荷物を下ろして金袋を取り出し、金貨を一枚見せた。
「血止めと毒消しが欲しい」
金貨を見て、ガールッタは目を丸くした。そして笑った。
満面の笑顔だった。
「ちょっと待っておくれ、いいのは幾らでもあるからね」
今までの不機嫌はどこへやら、店の中をせわしなく歩き回る。
ガルバが罵った。
「おいおい、ずいぶんと物言いが違うじゃねえか」
ガールッタは聞いてもいない。
「これが血止めによく効くねえ、カネツリグサだよ、それからこれは……」
ガルバはケッとつぶやいてそっぽを向いた。
ガールッタは威勢のいい声で次々に薬草の束を取り出しては、効能の説明を始める。
だが、戦場で何度となく傷を負ってきたジェハにとって、そんなことは聞かなくても分かることだった。
ガールッタの薦める薬草はどれも、珍しくないものばかりだったのである。
聞きたいことは、他にある。
ガールッタの説明を適当に聞き流しながら、ジェハは店の中を見渡した。干した薬草の他に、鍋や鋤など、村での生活に必要なものが壁に掛かっている。雑貨屋も兼ねているのだろう。
ガールッタの話が終わったところで、ジェハはいちばん高い薬草を買って金貨を一枚払った。ガールッタはほくほく顔である。こんな森の奥の村で金貨を見ることなど滅多にないのだろう。
呆れた様子で、ガルバが店の戸を開けた。
ジェハに声をかけて出て行く。
「オレは帰るぞ、他所モン」
それには構わず、ジェハはまだニコニコしているガールッタに尋ねた。
「これを採ってきたのは誰だ?」
ガールッタは笑みを崩さず答えた。
「誰でもいいだろう?」
それでもジェハは食い下がった。
「確か、ここへ来る途中に古い家があった。あの辺からもこの草の匂いがしたな」
ガールッタは寒そうに両手をこすり合わせながら目をそらした。
「そうかね」
ジェハはなおも畳み掛ける。
「村の人の家じゃないようだが、どこの人だ?」
ガールッタはジェハに背を向け、こう言い残して店の奥へと入っていった。
「毎度あり。これよりいいのはもうないからね。アタシは仕入れに出る。」
おい、ちょっと待てと呼び止めると、さっきの不機嫌そうな顔でじろりと睨んで言った。
「出て行きな。店じまいだよ」
それでもジェハが動かないでいると、ガールッタは店の奥から取り出してきた箒で床を叩き始めた。
ほらほらほら出て行きなと怒鳴り散らしながら床を掃きたてる。もうもうと立つ埃でジェハはむせた。
終いには箒を振り回す。その先が目にかすりそうになって、ジェハは思わず後じさった。
一瞬、剣を抜こうかとも考えたが、箒相手にそれをやっては、この村での立場が危うくなる。
ヘタをすれば、スロガ公爵の兵が自分を探しに来たとき、話に尾鰭をつけられて密告されるおそれもある。
ジェハは慌てて店の外へ飛び出した。
店の外では、ガルバがにやにや笑いながら待っていた。
「他所者が詮索するからだ」
ジェハは答えなかった。
ガールッタから話を聞けなかったとなると、手がかりは祈祷師のグルガンしかない。
だが、すぐにグルガンを探しに行く気にはなれなかった。
リナのことを聞こうとしたときの、ガールッタの様子が引っかかるのである。
何か隠している、とジェハの直感が告げていた。
ジェハは店の裏へ回った。ガルバが不審げについてくる。
「何してんだよ」
ガルバに背を向けたまま、ジェハは答えた。
「勝手口でも開いてないかと思ってな」
膝を打って、ガルバが笑い出した。
「腹いせに家捜しかよ」
ジェハは、しっ、と指を口に当てる。
家捜しは、ガールッタが出かけてからである。
ガルバはひたすら笑いをこらえていたが、やがてジェハの肩を叩いた。
「案外やるもんだな」
じっとしてろ、と言い残して、ガルバは再び店の前へと戻っていった。
店の裏は、古いレンガを積み重ねた壁になっている。勝手口の類は見当たらない。周囲を見回してみると、同じように頑丈そうな造りの家が多い。出がけに振り返って見たリナの家もそうだった。
いずれにせよ、冬はさぞかし雪が深く、寒さが厳しかろうと思われた。
やがてガルバが戻ってきて、もういいぞと小声で囁いた。
「荷車引いて出て行った」
言うなり、こっちへ来いと手で差し招く。
そのままついていくと、ガルバは小さな木造の小屋に案内した。
「店の倉庫だよ」
にやにや笑いながら、ガルバは言った。
だが、小屋の戸には、カギつきの閂が下りていた。
ガルバがからかう。
「このカギ、壊す度胸はあるか? バレたら村中、大騒動になるぜ」
ジェハは閂の前にしゃがみこんだ。カギ穴を覗きこむと、地面のあちこちに手を置いて何かを探し始めた。
ガルバが面白そうに見ている間に、ジェハは一本の細い折れ釘を拾い上げた。
細い折れ釘が、鍵穴に差し込まれる。ジェハが手首を微かに動かすと、ぱちんという音がして閂が外れた。
ガルバが驚きの声を上げる。
「お前何者だ」
ジェハは答えなかった。答えたくなかった。
言ってもわからないだろう。
傭兵は、戦争をするばかりではない。農民の暴動を鎮圧することもあれば、古代の陵墓の盗掘を命じられることもある。ときには、深い森や洞窟、沼地に潜む亜人と戦わなければならない。全ては、雇い主次第なのである。
それに、自分がしようとしていることはガルバには関係ない。これを言えばリナについての事情を話さなくてはならなくなる。
ジェハは小屋に踏み込んだ。店の中と同じくらい埃っぽい。
中を見渡すと、調理道具や農具、大工道具などが無造作に置かれている。
ガルバが説明した。
「月にいっぺんぐらい、森の外へ買出しに出るのさ。あの女、結構頑丈に出来ててな、たいした荷物を車に積んで引いてくる」
そんなことには興味のないジェハは、倉庫の中のものをひとつひとつ手にとっては確かめる。
特に変わったものはない。
ガルバの話は続く。
「昔は、街でひっかけた男に荷車引かせてたらしい。街での男出入りが激しくてな、村の男も相手にしなかったらしい。ここも元々はオヤジさんの店でな、オヤジさんが死んだ後を継いだんだが、ヨボヨボになったオフクロさんの面倒をひとりで見てた。そのオフクロさんが死んでからは、あのトシになるまでずっと独り身よ」
ジェハはガルバの話など、ろくに聞きもしないで、包丁や金槌やノコギリをひとつひとつ取り上げて丁寧に調べた。
鍬や鋤を手に取ったジェハを見ると、ガルバは自慢を始める。
「ここで買うより、オレが作ったほうが早いぜ。村のは、ほとんどオレが作ってる。鉄は荷車で買出しに出るんだ。村じゃあオレにしか引けないぜ、鉄を一杯に積んだ荷車はよ」
その自慢も、ジェハにとってはどうでもいい。
薬草の束、麻の布、裁縫道具……
倉庫の奥へ奥へと調べているうちに、ジェハは奇妙なものを見つけた。
短剣の鞘だった。中身がどこかに抜け落ちたのかと探してみたが、見つからない。
ふと思いついて、リナの家にあった短剣を収めてみた。
ぴったりだった。
改めてよく見ると、その鞘には細かい傷がいくつもついているが、大きな宝石がはめ込んであり、それを囲むように妖しげな紋章が描かれていた。複雑に絡み合う、二匹の蛇がかたどられている。
裏返すと、何か文字が刻んであった。
短剣の刀身に書いてあった文字とは異なり、ジェハにも見覚えのある字である。
ジェハは、傭兵として契約書にサインする必要から、一応の読み書きはできた。だが、鞘に刻まれた字は、日常的に使うものではない。
陵墓の盗掘などに関わっていると、古代の文字に触れることもあるが、ジェハが目にしているのは、まさにそれだった。
知っている限りの文字を思い出しながら、声に出して読んでみる。
「しょうき、の、もり……瘴気の森?」
その途端、ガルバがびくっと震えたので、ジェハも驚いた。
ガルバは目を剥いてジェハに言う。
「その名前を言うなよ」
知っているのかとだけ聞いたジェハに、ガルバは食ってかかった。
「名前を言うだけで災難が降りかかるんだ」
うろたえるガルバとは逆に、ジェハは極めて冷静だった。大きな目を余計に大きく見開いたガルバの顔をじっと見つめて、ジェハは尋ねた。
「場所を教えてくれ」
ガルバは即座に拒んだ。
「いやだ」
ジェハは困った。ガルバが嫌だというなら、村の誰もが嫌がるだろう。
それなら、リナから聞いたグルガンに尋ねるしかない。
だが、そのためにはグルガンの居場所を聞き出さなければならないのである。
ガルバはすっかり怯えている。ジェハの目的は察しがつくだろうから、聞いても教えてはくれないだろう。
他の村人も同じことだ。他所者であるジェハには、口も利いてくれないに違いない。
かといって、不案内な土地を、見たこともない場所を探し当てようと歩き回るのは時間の無駄である。
やはり、ガルバに聞くしかない。
ジェハは、思い切って言ってみた。
「リナのためだ」
その言葉を聞くなり、ぎょろっとした目を見開いたまま、ガルバはその場にしばらく固まった。
ジェハは答を待った。だが、ガルバの答は帰って来なかった。
代わりに突然、横面を一発殴られた。ジェハの身体が小屋の床に転がり、埃がもうもうと立った。
ガルバが低い声で唸った。
「デタラメ言うな」
口の端から滲んだ血を拭いながら、ジェハは身体を起こした。
どうやら、殴られ損らしい。
ジェハは立ち上がって、小屋の外へ出た。ガルバが小屋の中から聞いた。
「どこへ行くんだ」
全身の埃を払って、ジェハは歩き出す。ガルバの問いには背中を向けたまま答えた。
「信じないならいい。俺は自分で探す」
ちょっと待てよ、と止める声が聞こえたが、敢えて無視した。それでもガルバは聞くのをやめなかった。
「だいたい何で関係ないオマエが」
ジェハは振り向きもしないで言い放った。
「お前にも関係ない」
ガールッタの店を離れて、ジェハは村の奥へと歩き出した。
目を合わせようともしない人々と、何度も擦れ違う。地面に何か描いて遊んでいた子どもたちは、ジェハの姿を見ると、わっと声を上げて散り散りに逃げた。
思ったとおり、瘴気の森はおろか、グルガンの居場所を聞くのにも難儀しそうである。
とりあえず、ジェハは村の柵を越えることにした。瘴気の森とかいう場所がそれほど恐れられているのなら、道などついているわけがない。
では、どの辺りの柵を越えるか……。
ぐるりと辺りを見回してみたが、レンガ造りの家々が寒そうに縮こまっているばかりである。遠くに森の梢が揺れているのが見えるが、建物に遮られて柵がどこにあるのかも見えない。
自分で探して回るしかなさそうだった。
きょろきょろしながら、村の中を歩き回った。村人たちはジェハに冷たい視線を投げかけながら、距離を取って歩く。恐らく、何を聞いても答えてはくれまい。
しばらくして分かったのは、この村がそれほど大きくなく、人もそれほどいないということである。
家の数はせいぜい20軒ぐらいだから、人も100人いればいいところだろう。
だが、耕地は思いのほか広かった。傭兵としてあちこちで戦ってきたため、ユイトフロウの外の土地も見てきたが、この村の土は比較的肥えているように見えた。
こんな森の中を切り開いて作った村で、こんなに土地が肥えているのはなぜだろうか?
フイランボル河への支流が肥えた土を運んでくるのなら分かるが、そんな土地はアルケン伯爵領やローク男爵領に入らないとないはずである……。
そんなことを歩きながら考えていると、背中をどんと突かれた。
コートの中の剣に手をかけて振り向く。
ガルバのむさ苦しい大きな身体が目の前にあった。ジェハはその顔を睨んで言った。
「止めるなよ。関係ないんだろ」
ガルバは、鍛冶屋が使う長柄の大きな金槌を片手で担いでいた。わざわざ家から持ってきたのであろう。
黙ったまま、もう一方の手の節くれだった指を、ぐいと真横に突き出す。
ジェハがそちらを見ると、さっきのように、「こっちへ来い」とでも言うかのように手で差し招く。
そうして、すたすた歩き出した。ジェハは、遠ざかっていく分厚い服の背中をじっと見ていたが、やがてその後を追いかけるように歩き出した。
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