第3話 雷雨の中の魔獣

 突然、稲光と共に雷鳴が轟いた。近くに落雷したようである。立ち上がったジェハの影が、明るく照らし出された床に長く伸びた。裸の上半身には、無数の傷がある。やがて再び元の暗闇が戻ってきたが、ジェハは目を閉じて立ち尽くしていた。

 ジェハの耳の中には、雷鳴の中で微かに聞こえた音が残っていた。既に雷は去り、再び雨が暗い窓を打ちたたいている。だが、ジェハは確かに聞こえたその音が何なのか考えていた。人の声のようだった。誰の? この辺に誰かいるのか? この豪雨の中でそんなはずはない。いるとすれば自分と、既に床についているはずのあの少女だ。すると……

 ジェハは扉を見た。あの少女の悲鳴に違いなかった。何故悲鳴が? 上に何かいるのか? 

 逃げるか? ジェハは一瞬、そう考えた。だが、この上にいる何かは、今すぐにでも扉を破って襲い掛かってくるかもしれない。その場合、この狭い部屋の中での逃げる態勢は危険だと思われた。

 ならば、こちらから斬りこんでいくしかない!

 だが、そう考えたときには既に、ジェハは剣を抜き放って床を蹴り、扉に突進していた。

 鍵の掛かった扉に身体を叩きつける。扉は木で出来ていたが、それほど丈夫なものではなさそうだった。それでも上半身裸で扉を壊すのは、かなり痛い。

 体当たりで扉がめりめりと音を立てる。そのたびに、あの少女の微笑が目に浮かんだ。

 扉の鍵が壊れた。ジェハはその勢いで2階への階段を駆け登る。階段はそれほど長くはない。何段か飛ばせばすぐに2階の床に開けられた穴から飛び出すことができる。

 だが、再び雷鳴が轟いたとき、ジェハの足は止まった。雷鳴と共に閃いた稲妻の光で、何かの影が2階の壁に浮き上がったのが見えたのである。

 階段の中ほどで立ち止まり、身体をすくめる。何がいるのかは分からない。耳を澄ませば、雨音の中に、何かが床を這う音が聞こえる。息を殺して様子を伺っていると、何やら生臭い。蛇やオオトカゲなどの爬虫類に似た臭いである。

 ジェハは剣の柄に手をかけ、それこそ蛇やトカゲが這うようにして階段を上がった。

 2階の床に四角く切られた穴から顔を出すと、暗闇の中に微かな隙間風が感じられた。何がいるのか確かめようと、右に左に目を遣る。やはり何も見えない。

 雨音がざあっと鳴って、頬に冷たい風が当たった。どうやら、窓に穴が開いているらしい。

 何かがジェハの顔に吹き付けられてきた。手にとって、再び頭を床より低く下げる。それが何であるのか確かめようと目の前に近づける。暗闇の中では、ろくに見えもしない。それでも、指先の感触から布の切れ端であることが分かった。ある想像が、ジェハの頭の中に閃いた。

 その瞬間、稲光が煌き、ジェハの想像を裏付けた。布切れは、真っ白だった。ジェハが手に持っているのは、あの少女の着ていた服の切れ端だったのである。

 ジェハは再び、床の穴から頭を突き出した。視線を床の高さに置く。稲妻の残光の中、部屋の隅に蠢く何かの影が見えた。

 ……窓を破って、何かが侵入してきたのか? 

 そう考えたとき、ジェハの思考は、まるで戦場の最前線で判断を迫られているときのように働き始めた。

 そもそも、ここで少女を救うメリットがあるか? ここで逃げることもできるのだ。その場合、いつ上がるかわからない豪雨の中を走り続けなければならない。

 少女が生きているかどうかは分からないから、救うか救わないかは除外すべきだ。

 すると問題は、戦うか戦わないかということになる。

 戦って勝利すれば、一夜の宿は確保できる。ただし、勝てば、の話だ。ここで殺されたら何にもならない。

 では、豪雨の中を走り続けるリスクと未知の獣と戦うリスクはどちらが高いか?

 危険なのは後者に決まっている。豪雨の中を生き抜く術は、傭兵生活で心得ている。

 結論は火を見るより明らかだった。

 逃げる……!

 だが、そう考えた瞬間、ジェハの身体は2階へ飛び上がった。その手は片刃の剣を頭上にかざしている。

 ジェハの脳裏には、少女の笑顔が浮かんでいた。警戒感むき出しのジェハを微塵も恐れることなく迎えた、少女の笑顔が。

 稲妻が閃く。自分の姿を見られないように、剣を片手に床に伏せる。すぐに暗闇が戻ってきたが、部屋の隅にうずくまる獣の姿はぼんやりと見えた。ジェハは目を凝らす。

 足は何本か? 四足獣か? 蟲の類か? それとも二本足の亜人(ヒューマノイド)か? 

 いや、そのどれでもない。耳を澄ますと、しゅるしゅるという舌の音が聞こえる。恐らくは、大きな蛇だ。

 床を這う音がじりじりと近づいてくる。 

 蛇なら頭を狙うしかない。鎌首をもたげて飛び掛ってきたところを切り落とすか、串刺しにする!

 頭上からなら、下から。低く来るなら、上から。

 じりじりと距離を詰めていく。

 上か、下か……。

 少年の肌が、風の動きを捉えた。上から! 

 速い……!

 襲い来るものを、肌に感じる風の流れだけで察して身をかわす。

 それが身体のすぐ傍にあることは分かっていた。剣を逆手に振り下ろす。

 蛇の頭蓋骨を貫く感触を期待したが、手ごたえが違った。剣の立てる音が耳に痛かった。

 ……金属の音?

 息つく間もなく、風が横薙ぎに来た。何かが飛んでくる。

 ジェハは両手で掴んだ剣を逆さに立てて防いだ。受けきれない!

 弾き飛ばされたジェハの身体は宙を舞い、壁に叩きつけられてずり落ちた。

 ……蛇じゃない?

 だが、ずるずると這う音は止まなかった。ジェハは床に立てた剣を杖に身体を起こした。

 吹き飛ばされたのは怪我の功名だった。その分、相手との距離が稼げる。

 ジェハは身体を屈め、息を殺して相手の様子を伺った。

 ふたたび、じっと目を凝らす。やはり暗闇の中なので、はっきりした姿は見えない。

 分かるのは、少なくとも金属製の武器を持って戦える相手であるということだけだった。

 それがどんな武器なのか……その見当がつかないことには、戦いようがない。ジェハは焦った。

 そのときだった。

 一瞬の稲光が閃いた。

 ジェハの闘う相手の姿が、真っ青な影となって浮かび上がる。

 床から長く伸びた蛇体が見えた。だが、その上には人の身体がある。

 真っ青な鱗がぎらついていた。

 光る二つの目が、ジェハを見据えている。

 広げられた両腕の先には、両手から鋭く伸びた爪が煌いていた。

 ジェハは床を蹴った。低い姿勢で突進する。

 正確な攻撃からして、たぶん向こうは暗闇でもこちらが見える。こちらからは見えない。

 だから、稲妻の光が消えるまでの、この瞬間しかない!

 低く跳躍すると、長い爪が足元を一閃した。

 相手の腕はもう一本ある。さっきの爪が通り抜けていった反対方向から、剣と同じくらい硬い爪が叩きつけられてくる。

 ジェハの剣と、どちらが速いか。

 ジェハは再び床を蹴った。力の限り跳んで、渾身の力で剣を叩きつける。

 手ごたえがあった。

 蛇体が倒れる。ジェハに迫っていた爪が床に落ちる音がすると、再び辺りは暗闇に閉ざされた。

 荒い息をつきながら、剣を構えて牽制する。

 身体は中から火照っている。だが、身体そのものはぞくぞく震えて、鳥肌が立っていた。

 恐ろしかった。相手が何者か分からない上に、その攻撃は受けきれないほどに速い。

 トドメを刺すべきか? いや、倒れたふりをして、こちらの出方を伺っているのかもしれない。

 もし、これが再び立ち上がって襲い掛かってきたら……。

 再び稲光が煌いた。ジェハの目の前に、あのおぞましい蛇体が現れる。それを見た瞬間、ジェハは恐怖にかられて剣を逆手に持って振り上げた。

 だが、ジェハの手は止まった。

 蛇体を持つ生き物の頭部は、人間のものだったのである。その顔は、誰かに似ていた。

 稲光は何度となく閃いた。目の前の蛇体は、次第に違う姿へと変わっていった。振り上げられたジェハの剣は、ゆっくりと力なく下ろされていく。

 蛇体は、人の身体に変わっていった。

 鱗が消え、白い腕が現れる。蛇の尾が消え、細くしなやかな足になる。波打つ蛇の腹は柔らかい肌に変わり、たおやかな胸が稲光に照らし出された。

 そして、頭を覆っていた針金のような髪が黒く艶やかに変わる頃、その顔も人の顔になっていった。

 ジェハに何度となく微笑みかけた、少女の顔……。

 稲妻が去って暗闇が戻ると、少女の裸身も暗闇の中に溶けて消えた。

 代わりにジェハの目の前にぼんやりと浮かぶものがあった。

 以前、雇われた先で敵に奇襲をかけるために、夜中に草深い山中の間道を抜けていったことがあった。月の細い、暗い夜だったが、道端に咲く白い百合の花だけがぼんやりと光っていたのを覚えている。

 そんな白百合の花を思い出したとき、ジェハの頭の中で何かが叫びだした。

 ……危険だ! このまま殺せ! 触れるな! 

 ジェハはその声を聞かなかった。手探りで少女を抱えあげる。素肌に少女の柔らかい肌が触れて、心臓が高鳴った。背中を壁に寄せて歩きながら、ベッドを探す。

 しばらく探して、窓際にベッドがあるのがわかった。そのまま少女の身体を横たえて、たまたま手に触った毛布をかけてやる。

 ジェハはそのまま、ベッドの脇に膝を抱えて座り込んだ。疲れきって、もう立つのも嫌だった。床に横になって眠ろうかとも思ったが、それはできなかった。

 信じたくはなかったが、この少女がさっきの怪物だったと考えるより他はなかった。

 それならば、目を離すことはできない。油断は禁物である。次に眼を覚ましたとき、もとの少女のままであるという保証はどこにもない。なら、殺してしまうのが早い。どのみち人ではないのだから。

 雨は降り続く。ジェハは眠らなかった。身じろぎもしなかった。

 裸の女がすぐ隣で眠っているなどということには慣れている。人でないから警戒しているわけでもない。警戒するくらいなら、すぐに少女を殺してここを立ち去ればいい。この家がなければ、どのみち森の中を歩き続けることになったのだから。

 ただ、この少女が目覚めるまで待っていたかったのである。目を覚ました彼女が襲い掛かってくるなら、もう一度戦うなり逃げるなりすればいい。

 とにかく、この場を離れたくなかった。

 やがて、しらじらと夜が明け始めた。少女が眼を覚ました気配があった。ジェハが振り向くと、少女が朝の光の中でゆっくりと身体を起こすところだった。

 毛布から覗く白い肩や腕が眩しい。

 少女は自らの姿に気づき、はっと息を呑んだ。慌てて毛布で身を隠す。

 ジェハは目をそらして、つぶやいた。

「すまん……」

 少女は悲鳴をあげたりはしなかった。かといって、自分に何をしたのかとジェハを罵ることも問い詰めることもしなかった。

 ただ、毛布に顔を当てて、すすり泣くばかりである。

 ジェハは慌てた。自分と寝てもいない女に泣かれたのは初めてである。

「おい、俺は何も……」

 ジェハの言葉は遮られた。少女が毛布越しにすがりついてきたのである。細く滑らかな腕がジェハの首に回された。涙の濡れた感触が残る温かい頬がジェハの顔に押し当てられる。

 自分の身に何が起こったのか、そしてジェハとの間に何があったのか、察しがついたのだろう。

 ごめんなさい、ごめんなさいと耳元で泣く少女の吐息が熱かった。

 その吐息は、やがて哀願の声に変わった。

「お願い、私を助けて……。」

 ジェハは身体をこわばらせながら、努めて素っ気無く答えた。

「そんな義理はないな」

 少女が腕に力をこめた。毛布越しの胸の感触が裸の肌に柔らかい。ジェハはうろたえた。

「あなたしかいません」

 哀願する少女を押しのけ、ジェハは立ち上がった。背中を向けて突き放す。

「それを今まで何人に言った?」

 少女の答えは変わらなかった。低い声でつぶやく。

「あなただけです」

 背中を向けたまま、ジェハは鼻で笑ってみせた。

「ここを通ったのは俺だけじゃないだろ」

 少女は低い声のまま、しかしはっきりと答えた。

「この先に、村があります。ここへ来る人もいます。でも、私の身体のことを知っているのは……」

 少女の言葉を、ジェハはいらだたしげに遮った。

「親はどうした」

 間髪入れず、少女は強い口調で言い切る。

「私が幼い頃、死にました」

 ジェハは言葉に詰まった。両親の顔を知らないわが身を思ったのである。

 それでも、負けじとばかりに強い口調で言い返す。

「村には人がいるんだろ」

「私は他所者です」

 言い返す言葉には、微かな怒りが感じられた。ジェハは、敢えて無視して尋ねた。

「どこから来た」

「覚えていません。物心ついたときには両親と旅をしていました」

 少女の声は暗く沈み、抑揚を失っていた。

 ジェハは振り向いた。少女は毛布を抱いたまま、ベッドの上で俯いて震えている。

 再びその場に座り込んで、少女の姿を見つめた。うっすらとした朝の光に、全身が淡く輝いているように見える。

 なんだが、気持ちが和らいできた。尋ねる口調が、少し柔らかくなった。

「親は何で死んだんだ」

 俯いて答える少女の目から、涙がこぼれるのが見えた。かすれた声で少女が答える。

「ここへ来たとき、急な病にかかったようです」

 ジェハは不思議に思った。

 気がついたら両親がいなかった自分とは違う。両親の記憶があるのに、死の原因については漠然としか知らないとは、どういうことか。

 徹夜のせいか、眠気が襲い始めていた。頭が余り働かない、ただ、もう聞くな、ここを立ち去れと、心がせきたてている。

 だが、ジェハはその先を聞かずにはいられなかった。

「よく知らないのか?」

 尋ねられるままに少女は答える。

「村の人から聞かされました」

 眠気をこらえて、さらにジェハは聞いた。

「ひとりで暮らしてきたのか?」

「はい、この家で……」

 どうやって、と聞こうと思ったが、窓から日が明るく差し込んできた途端、急に眠くなった。次第に上がっていく雨の音が遠くなっていった。

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