第2話 廃屋の少女

 グルトフラング傭兵団の少年兵ジェハが「帰らずの森」に足を踏みいれて間もなく、針葉樹の枝葉を打ち叩いて大粒の雨が降ってきた。

 ジェハは革のコートからフードを引き出し、頭をすっぽりと覆った。身体をすくめて走り出す。やがて雨は本降りとなり、下草に覆われた細い林間の道を激しく打ち叩いた。

 革のマントの下で、ジェハの腰に提げた剣の鞘が鳴る。反りを打った、片刃の剣である。厚く重ねた麻の服をまとった身体には、革紐でつないだ薄い鉄板の胸甲と背甲が装着されている。足首まである革ズボンが、跳ね上げられた水を弾く。

 まだ日は暮れていないはずであるが、深い森ゆえ、辺りはもう薄暗い。足元を見失って、ジェハは転んだ。水飛沫が上がる。立ち上がるや一旦フードを跳ね上げて、顔に掛かった泥水を手でぬぐう。髪は赤毛のくせ毛で、肌の色は浅黒いので逞しい印象があるが、顔立ちは幼い。ただ、その目つきは何者も信じていないかのように鋭く、まなざしは淀んでいる。まだ少年であるが、修羅場をくぐってきたことが見て取れる。

 畜生め、と年に似合わぬしゃがれ声でつぶやいたジェハは、再びフードをかぶって走り出した。

 一旦降りだすと、早春の日は一気に暮れる。大雨の中、道は次第に暗さを増した。その間に何度も転んでは畜生とつぶやきながら、ジェハは「帰らずの森」の奥深く駆け込んでいく。

 道はどこまでも続いている。雨はますます激しくなってくる。ジェハの息も次第に荒くなってきた。走って簡単に息が上がるようでは戦場で生き延びられまい。だが、その生き延びてきたジェハでも息が持たないほど、駆けてきた道のりは長いのである。

 ガラスの玉を呑み込んだらこんな感じだろうかと思えるほどに苦しい。ジェハはとうとうがっくりと膝を突いた。体の中から押し上げられた何かが喉を塞いでいるような気がする。それを何度となく呑み下して、ジェハは再び立ち上がった。

 降りしきる雨の中に一瞬だけ稲妻が光った。それでも森が深いせいか、眩しくはない。振り向いてみるとせいぜい、今来た道がぼんやりと闇の中に溶けて見えるくらいだ。足下の水たまりに、自分の顔が映っていたような気がする。

 あまり押しの利かない、子どもっぽい顔。

 もときた道を戻ろうかと、一瞬思った。だが、これまで駆けてきた道を再び走って戻る気にはなれなかった。戻れば、さっきの騎士たちに捕まらないとも限らない。かといって、この森が本当に抜けられるという確信も揺らいでいた。

 身体がぞくっと震えた。走ることで温まった身体も、一度止まると急激に冷える。

 ジェハは迷うことなく走り出した。理由などない。戻る気がしないなら進むしかないのである。

 だが、結果的にその判断は正しかった。

 遠くにぽつんと光るものが見えたのである。

 それは木々の間に見え隠れして分かりづらかったが、人家の暖かな灯に見えた。

 よく、沼地などでの戦闘で、待ち伏せを命じられることがある。沼地は死地と呼ばれ、最も戦闘に向かない場所である。そこに追い込まれた敵に襲い掛かって止めを刺す……。

 絡み合う蔓草の下で、悪臭を放つ冷たい泥の上に身体を伏せている際に鬼火が燃えるのを見ることがあったが、それは青白く、ぞっとするほど冷たい光を放っていた。

 冷たい雨のせいで思い出した、そんな光とは明らかに違う。

 ジェハはその灯を目指して一心に走り続けた。

 灯は次第に大きくなっていった。やがて、それが窓から洩れているのが見えてきた。駆け寄ってみると、2階建ての切妻屋根である。湿気の多いこの地方は皆そうだが、床が高く、入り口の扉も少し階段を上がったところにある。

 この大雨の中を一晩中走り続けるわけにもいかない。一夜の宿を頼むしかなかった。ジェハは扉に向かう石段に足をかけた。

 コートの下で、剣の柄に手をかける。

 この家の住人が、善意の人とは限らない。もしかすると、ジェハがやってくるのを家の中から伺っているということもあり得る。そして扉の向こうで、ジェハが入ってくるのを待ち伏せているかもしれない。ジェハが扉を開けたところで、がら空きの脳天に真正面から斧が降ってこないとも言い切れない。 

 ジェハは石段を上がると、扉を叩いた。

 返事がない。雨の音で聞こえないのだろうか。それとも……。

 再び扉を叩いた。今度は拳に力を込めて、強く叩いた。

 やはり、返事はなかった。風の音だとでも思ったのだろうか。

 扉を力の限り叩いた、何度も叩いた。

 さすがに人が訪ねてきたのだと気づいたのだろうか、扉の向こうから声がした。

「どなたですか?」

 か細い、少女の声だった。おずおずと、戸惑ったように尋ねる声に、ジェハは反射的に剣の柄にかけた手を緩めた。

 だが、油断はできなかった。声色を使っているのかもしれないし、若い娘を含む何人かが組んでいるのかもしれない。

ジェハは大きく息を吸い込んだ。気持ちを落ち着け、慣れない口調で決まり文句を並べる。

「旅の者です。雨で困っております。一夜の宿をお借りできませんか」

 しゃがれた声は雨の中を走ってきたせいではない。持ち前の声である。決して生まれ育ちもよくない。だが、身分不相応に丁寧な物言いも、傭兵生活の中で身につけた知恵である。たとえお仕着せの言葉でも、しゃがれ声でも、穏やかに聞こえれば、家の主も警戒を解くものだ。

 しばしの沈黙があった。ジェハは剣の柄に手をかける。

 ここで「お入り下さい」と言われれば、開けた扉の影に身を隠しながら後ろへ下がらねばならない。これで出会い頭の不意打ちを避けることができる。

 ドアが小さく開いて、中から様子を伺うようであれば、まだ余裕がある。剣から手を離さないで、慎重に中へ入ればよい。

 だが、ジェハの目の前で起こったことはそのどちらでもなかった。

「どうぞ」

 明るい歓迎の声と共に、扉は突然大きく開かれたのである。

 大雨の暗い夜が、室内の明るい光に反転し、ジェハは思わず目をつぶった。

 恐る恐る目を開けると、戸口にはジェハくらいの年の少女が、満面の笑みをたたえて立っている。

「こんな雨の中、大変だったでしょう。急いでお入りくださいな。風邪をひきますよ」

 白い麻の服を着た、黒髪の少女である。黒目がちの澄んだ瞳で見つめられて、ジェハは思わず剣の柄から手を離した。

「何か温かいもの、作りますね」

 戸口から軽い足取りで部屋の奥へ下がる少女の後について、ジェハは家の中へ足を踏みいれた。後ろ手に扉を閉じると、耳元で唸っていた雨風の音がぴたりと止んだ。

 部屋が明るいのは、天井から下がったランプの光による。扉の正面にはレンガ造りの暖炉があり、火の粉避けの衝立の向こうで火が勢いよく燃えているのが見える。その手前には人ひとりが横になれるくらいのソファが暖炉に向かって置いてあった。

 部屋の隅にはテーブルと椅子があり、その奥に扉がある。その向こうで鍋がコトコトと鳴るらしい音がする。その辺りから少女の声が聞こえた。

「服を脱いで待っていてくださいね」

 ジェハはうろたえた。娼館などでよく聞く言葉だったからである。

 あてがわれた部屋で、女が扉の向こうに姿を消すと、必ず聞こえてくる言葉……。

 ジェハはまだ17歳であるが、すでに女を知っている。

 そういう意味では、すでに「大人」であった。

 明日の命も知れない傭兵にとって、楽しみと言えば「飲む・打つ・買う」しかない。酒は余り強くないが、バクチには割と自信がある。

 バクチに勝ってしまうと、女たちとの遊びどころで傭兵仲間にも奢るハメになる。当然ジェハもつきあわざるを得ない。

 因みに、最初に娼館に連れ出されたのは初めてバクチで大勝ちした12歳のときだが、その夜のことは思い出したくもない。

 その後も仲間とそういった場所で遊んだことはあるが、あまり楽しいと思ったことはない。覚えているのは、妙にスレッカラシた、ろくでもない女たちばかりである。

 あの少女の声でそんな女たちと同じ言葉を聞かされて面食らったのは、ジェハ自身も不思議だった。人里離れたところで網を張っている「女郎蜘蛛」と呼ばれる娼婦たちもいるのだから、それほど驚くようなことでもない。

 だが、それでも何かが違ったのである。さっき会ったばかりの少女の姿を思い出すと何故か、ちくりと胸が痛んだ。

 荷物を下ろしてコートを脱ぎはしたものの、落ち着かない気持ちで奥の扉に背を向けると、再び少女の声が聞こえてジェハは慌てて振り返った。

「風邪ひきますよ?」

 少女が怪訝そうに小首をかしげて、巻いた毛布を胸の辺りに両手で抱えたまま突っ立っている。

 ジェハは赤面して胸甲と背甲を外し、服を脱ぎ始めた。少女が慌てて床に毛布を投げ出し、一言だけ言い残して奥の扉の向こうに消える。

「服は暖炉の前にかけておいてください」

 革のコートを着ていたのでずぶ濡れというわけではないが、気持ちよく着ていられない程度に服は湿っている。ジェハは暖炉の前の衝立にコートと服を掛け、毛布にくるまって座り込んだ。剣が邪魔だったが、これだけは離すわけにはいかない。

 床に放り出された自分の鎧を見つめながら考える。

 どうも調子が狂っていけない。ここは知らない土地の、深い森の中の、アカの他人の住む一軒家である。用心に越したことはないのに、警戒すればするほど無駄なことをしているような気がしてならない。いったいどうしてこんな気持ちになるのか。

 考えながら部屋を見渡してみるが、何の変わったところもない。年季が入って天井にいくつか染みがあるばかりである。

 ふと床を見れば、塵一つない。よく磨かれているのに、思わずジェハは見入った。生まれてこの方、人の住む屋根の下で、まともに掃除された床というものを見たことがなかったのである。

 といっても、いつ、どこで生まれたのか自分でも分からない。物心ついたときは旅回りをする見世物小屋の一座にいた。5つか6つの頃、幼い頃、自分の歳を教えてくれたのは、油染みた顔のでっぷり肥えた座長である。

 小屋といっても小さなテントで、床板などありはしない。客は地面に直座りである。ジェハは、その前で虎や狼などの猛獣を相手に戦わされた。年端も行かぬ頃はろくに持てもしない武器をいつもあっという間に落としてしまっていた。その度に殺されそうになり、獣に餌が与えられておしまいだった。それがある程度大きくなると、もう武器を失うこともなく対等に戦えるようになり、傷だらけになりながらも生き残ることができた。今になって思えば、幼い頃も大きくなってからも、客は獣ではなく、傷つくジェハを見て喜んでいたような気がする。

 旅の途中では、よく安宿に泊められた。寝かされるのはいつも雑居部屋で、埃っぽいだけでなく、床には鶏の骨やパン屑が散らばって、ひどい悪臭がした。一座の者を含めて、泊まっている誰もがそんな床の上にうずくまって俯き、顔を上げるかと思えば死んだような目を泳がせている。そんな人々の中で、ジェハはぼろぼろの毛布にくるまり、必死で眠ろうと努めた……。

 現れては消える、昔見た光景に、ジェハは身体をこわばらせた。そのとき、背後からあの澄んだ声が聞こえた。

「出来ましたよ」

 振り向くと、少女が鍋を手に微笑しながらジェハを見下ろしている。その頭上に光るランプの炎が眩しく、ジェハは目を細めた。

「さあ、召し上がってください」

 ジェハを食卓に招く少女の声は弾んでいた。

 椅子に座ると、木の皿にスープが振舞われた。色の薄い、ほとんどお湯と言っていいような豆のスープである。それでもジェハの腹は鳴った。自分では気づかなかったが、相当に空腹だったのだ。どうぞとも言われないうちに、ジェハは木製のスプーンを手にとって、スープをすくおうとした。

 だが、スプーンを口に運ぼうとする前に、ジェハの手は止まった。少女がじっと見つめているのに気づいたのである。

 そのとき、かつて傭兵仲間から聞いたことが思い出された。

 ……深い森の一軒家に一夜の宿を求めると、温かい食事を振舞われることがある。喜んで手をつけると、仕込まれていた毒が全身に回ってその場で死ぬ。旅人から金品を剥ぎ取ろうとする盗賊のよく使う手だ……」

 少女がまた微笑んだ。

「どうなさいましたか?」

「いや」

 再びスプーンを手にして、ジェハは迷った。用心に越したことはない。しかし……

 少女は台所からもう一枚皿を持ってきて言った。

「あ、お気になさらないでください。丁度、夕食にしようかと思っていたんです」

 ジェハはスープに口をつけた。この娘に限って、そんなことをするはずはないという気がしたのである。

 確かに味は薄いが、温かかった。ジェハには、それだけで充分だという気がした。

 少女が心配そうに尋ねる。

「どうしてこんな森の中を……」

 本当だったら答えたくない。泊めてもらう立場ではあるが、それだけにしゃがれ声を気味悪がられるのは避けたかった。

 だが、ジェハはそのしゃがれ声で答えていた。

「向こう側まで」

 あまり詳しい話をしたくはなかったが、察しのいい少女のようだった。すぐさま問い返してくる。

「アルケン様のところですか? ローク様のところですか?」

「アルケン」

 ジェハは再びスープを口に運んだ。その口元をじっと見ていた少女は、「それでは」と言いかけてジェハの腰を見た。ジェハもその視線を追った。その先にはジェハの剣があった。

 少女は押し黙った。二人はスープを口に運び続けた。

 察しのいい少女だけに、ジェハがアルケン伯爵領まで何をしにいくのかは分かったことだろう。目を伏せてスープを口にする少女を見ると、ジェハは自分が何か悪い事を言ってしまったような錯覚にとらわれた。

 食事が済むと、少女は空になった皿を台所へと下げた。その背中に向けて、ジェハは言った。

「この辺じゃない」

 少女は笑顔で振り向いた。

「分かってます、戦の話は、いつも人から聞くだけですから」

 人の出入りがある家らしい。本当だとすれば、の話だが、ジェハはこれ以上は疑うまいと思った。雨の中を走り続けてやっと食事と寝るところにありついたのに、人を疑って気を張るのはつらかった。

 扉の向こうで、皿を水につける音がした。しばらくして扉が開き、少女が顔を出した。

「早くおやすみになりますか?」

「ああ。どこで寝ればいい?」

 朝は早く発ちたかった。少女を警戒する気もない。

「それでは、暖炉の前でおやすみください。私も上で寝ます。ランプは消して、暖炉の火に気をつけてください」

 わかった、と答えると、おやすみなさい、の一言を残して、少女は扉を閉じた。

 おやすみなさいの声が妙に耳に残って、つい扉を見つめているとカギをかける音がした。女の身としては当然のことだろうが、やはり警戒されているのかと思うと不思議に胸が痛む。

 ジェハは天井からランプを取って火を吹き消した。辺りが闇に包まれる。暖炉の明かりを頼りにしては、天井に戻せなかった。

 少女が階段を上っていくらしい音が扉の向こうから聞こえた。ジェハはズボンと下着も衝立にかけ、暖炉の前で毛布にくるまり、ソファの上で横になった。

 雨は相変わらず強く、打ち叩かれる窓の板戸が鳴っている。暖炉の炎で自分の横顔がちらちらと揺れているのが、ランプのガラスに映っている。

 ヒョウタン型のガラスのせいで下膨れにはなっているが、酒場や娼館の女たちには幼いとか可愛らしいとか言われる。

 目つきは悪い。それは自覚している。仕事柄、あまりに押しが利かないので人を睨んで暮らしているうちに、こうなってしまった。

 それも仕方がないのだ。生きるのにヤケを起こして剣を買い、命を売り払うつもりでグルトフラング傭兵団に入った。団長のグルトフラングは老いた面倒見のいい男で、年少の新入りは人をつけてきちんと鍛えてくれた。何よりもジェハにとってありがたかったのは、剣一本を手に乗り込んできた、実際に使えるかどうかも分からない子どもを、訳も聞かずに受け入れてくれたことである。

 ジェハは思い出す。腰の剣を買った日のことである。自分の腕力に合わせて軽量の剣を選んだジェハに、店の主は10枚以上の金貨を要求した。言われるままに支払ったジェハは、剣を受け取る手が血に濡れているのを発見した。それは、乾くこともなく金袋にこびりついていた……。

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