そこは「帰らずの森」

兵藤晴佳

第1話 赤毛の少年兵

 「帰らずの森」を迂回する街道の住民にとって、槍や斧を携えて背嚢を負った物騒な傭兵の行き来は日常茶飯事である。

 鋤や鍬をかつぎ、また天秤棒の両端に売り物を下げたり荷車いっぱいに遠方からの珍品を積んだりした者たちは、武装した男たちが集団とはいわず1人でも通ると、目を伏せて道を空けるのだった。

 今日も革の長いコートをまとった男たちがニルトセイン河を越えてスロガ公爵領に入り、アルケン伯爵領とローク男爵領に向かう分かれ道にさしかかっていた。

 その分岐点には高札が掲げられ、その先端には相争う2人の貴族それぞれの領国を示す矢印が、字の読めない者にもわかるよう、大雑把に描かれた紋章付きで示されてある。

 早春の夕暮れであった。

 低く傾いた太陽が、雨が上がっても未だぬらぬらと濡れている空にじんわりと滲んでいる。淡く照らされた街道端の田畑の土は、あるところは起こされ、あるところは固いままで、それぞれがいずれやってくる生命の季節を寒々と凍えながら待っていた。

 アルケン公爵領へと向かう男たちの目の前には、高札の向こうで、低く傾いた西日に黒々と広がる「帰らずの森」が影となって映し出されていた。男たちはフードの下の顔を伏せ、いささか前屈みに黙々と足を進めている。

「あとどのくらいだ」

 男たちの一人が尋ねた。声がしゃがれているので年を食っているように見えるが、その声の張りはまだ少年のものである。

 年かさらしい男の声が答えた。

「夜っぴて歩けば朝には着けるさ」

 石臼を挽くときのような、ごろごろと重くて鈍い響きがある。

 少年の声はなおも尋ねた。

 ぶっきらぼうに、そしていらだたしげに、ぶつぶつとくぐもった声で言う。

「間に合うんだな」 

 年かさの方が答えた。

 いささか間延びした言い方ではあったが、はっきりと言い切った。

「間に合う」 

 男たちのコートは、灰色の泥があちこちにこびりついて汚れている。ちょっとぬかるんだ道を歩いたくらいで、そうそうこんなことにはならない。

 これはつい昨夜、大雨でニルトセイン河の堤防が決壊したせいであった。

 耕地の一部が流されるほどの洪水だった。領民が困り果てたのは当然のことである。

 冬を越した麦は、肥えた土と共にすっかり流されてしまった。他の作物を植えなおそうにも、耕地の境目が分からない上に、土には砂や石が混じってしまった。水に浸かってしまった土地が耕地として蘇るには、気の遠くなるような年月を要することだろう。

 だが、スロガ公爵家は、領民たちを手厚く保護することで知られていた。

 この洪水についても、穀物の一時貸付や堤防工事人足としての日雇いなど、すぐさま至れり尽くせりの救済策が講じられた。

 実際、この傭兵たちが来た道の傍では、スロガ公爵の命令で集められた領民たちが、鋤や鍬を手に、流された耕地の復旧にあたっている。彼らは黙々と目の前の泥を掘り起こしては何度となく荷車に積み、馬を叱咤して運んでは下ろして畑の畦を築くという作業を繰り返していた。

 傭兵たちの中には、そんな領民たちを見ながら、ぼやく者もいる。

「オレたちも勘弁してほしいよな」

「遅れるのはオレたちのせいじゃないんだから」

 そんな不満も、さっき少年の問いに答えた年かさの一言が抑え込んでしまう。

「黙って歩け」

 アルケン伯爵に私兵として雇われた傭兵たちが、スロガ公爵の領民たちのように救済されないのは当たり前である。

 だが、彼らは幾多の戦場で生き抜く術を身につけてきた屈強な傭兵団である。河が氾濫したからといって、そうそう溺れたり流されたりはしない。

 それでも隊列は乱れ、一部は落伍した。 

 落伍兵は、何とかして本隊に追いつかなければならない。本隊と共に行動しなければ、期日通りにアルケン伯爵領に着けない。集合期日に遅れれば、前払いの報酬を返さなければならない。それまでの装備や借金の返済で、そんなことができる者はほとんどいない。そのまま逃げれば、傭兵団から暗殺者が放たれ、どこへ逃げても殺されてしまうのである。

 落伍兵の中にもいろいろな者がいる。何十年となく戦場で生き抜いてきた強者もいれば、ついこの間武装を整えたばかりの新米もいる。年配の者なら50歳を過ぎた者もあり、若い者では12歳かそこらにしかならないこともある。彼らは一人で、また何人かが助け合いながら街道沿いを急ぎ、本隊に追いつこうとしていた。

 黙々と歩く男たちは、分かれ道にさしかかった。右に行けばアルケン伯爵領、左へ向かえばローク伯爵領である。

 アルケン伯爵領とローク男爵領の国境争いは、もう何代にもわたって続いている。

 どちらにも正規の軍隊はあるのだが、こんな小競り合いに貴重な兵馬を失うわけにも行かず、その度に兵を雇って戦をするのであった。

 領民はおろか、実は当事者同士もうんざりしているらしいのだが、やめることができない。

 その原因は、利権の他に、この地、ユイトフロウの特別さにも由来している。

 この肥沃な耕地の広がるユイトフロウの地はニルトセイン河とフイランボル河という2つの大河に挟まれている。豊富な灌漑用水にも恵まれてはいるが、この大河は支流が多く、その支流同士が蜘蛛の網のように絡み合っているのだった。

 ニルトセイン河沿いのスロガ公爵領はよく治まっている。それはもちろん領主の内政手腕によるものである。だが、「帰らずの森」を隔てた先にある、フイランボル河沿いのアルケン伯爵領やローク男爵領に比べて、河川がそれほど複雑に入り組んでいないことも原因の一つであった。

 河川が入り組んでいない分、橋をかける手間もいらず、広い道を作ることもできる。

一方、アルケン伯爵領とローク男爵領には河川や水路が複雑に張り巡らされていた。そのため、それらを基準として国境を定めることがたいへん困難だったのである。

 男たちは右へ行く道を選んだ。だが、背後からそれを呼び止める者たちがいた。

「おい」

 男たちは立ち止まった。振り向くと、やはり長いコートをまとった男たちが背嚢を負ってやってくる。だが、そのコートは汚れていなかった。

 後から来た男たちのひとりが言った。中に鎖鎧を着ているのだろう、針金を編んでつくった帽子で頭を覆っている。

「アルケンの方へ行くんだな」

 声は、まだ若かった。

 汚れたコートの男たちは、黙って歩き出す。

 道端の領民が手を止め、その姿を不安げに目で追った。

 声をかけた男が、仲間と思しき周りの男たちにあごをしゃくる。彼等の顔立ちもまた、若かった。

 若者たちがにやにや笑いながら、ばらばらと散らばって足を速める。アルケン伯爵領に向かう道を選んだ男たちは足を止めた。

 一番後ろにいた赤毛の少年が真っ先に振り向く。はだけたコートの裾から、反りを打った片刃の剣が現れる。

 少年の背後から、年かさの男が囁いた。

「よせ、ジェハ」

 だが、ジェハと呼ばれた少年は聞かなかった。既に何人もの若者たちが、槍や長柄斧を手に襲い掛かっていた。

 少年が、しゅう、と息を吐いて剣を横たえ、中腰に構える。再び年かさの声がたしなめた。

「逃げるぞ」

 そんなヒマはない、とつぶやくや否や、少年は地面の泥を撥ね上げた。低く屈めた身体が前へ跳びだす。

 瞬く間に、何本もの槍が突き出され、長い竿の先に付いた斧が振り下ろされる。

 だが、それらが少年に手傷を与えることはなかった。

 少年は長い得物を巧みにかいくぐり、凄まじい速さで剣を振るう。

 たちまち、うめき声や悲鳴と共に血しぶきが上がり、赤黒い泥溜まりができた。

 その中に、武器を握った手がごろごろと転がる。

 後に続く者たちが少年を見据えてゆっくりと武器を構える。

 少年の仲間の傭兵たちも、そわそわと武器を構える。

 傭兵たちの諍いを、仕事をしながら息を殺して横目で眺めていた領民の何人かが、とうとう悲鳴を上げて逃げ出した。

 さっき少年に囁いた男が手斧を構えながら叫ぶ。

「お前ら、ロークに雇われたんだろう」

 若者たちはにやにや笑って答えない。男はなおも続けた。

「決着は戦場でつけようや」

 答える声はなかった。嘲笑だけが響いた。

 しゃらくせえ、と吐き捨てた一人が少年に斬りかかる。少年の剣が横一文字に一閃し、その若者はその場に倒れた。

 ローク男爵側の傭兵と思しき若者たちが、それぞれの武器を構えてあとじさる。アルケン伯爵側の傭兵達も、じりじりと退いた。

 傭兵達はしばし睨みあった。土木作業にかかっていた領民たちは、もう誰一人としてそこにはいなかった。

 やがて、遠くから角笛の音が聞こえた。

 少年の背後で、さっき彼をたしなめた男が同じことを言った。

「逃げるぞ」

 少年は首を横に振った。男は溜息をついて言った。

「うまくやれよ」

 そのまま男は、背後の仲間たちを押しのけて街道を駆け出した。他の傭兵達は互いに顔を見合わせたが、すぐに逃げだした。

 少年は慌てて叫んだ。

「おい!」

 それに応ずるように、ローク側の若い傭兵達は行動を起こした。手首から先を切り落とされた仲間が地面に倒れてのた打ち回るのを尻目に、剣や手斧を構えて少年を包囲する。

 少年の前に2人。左右に1人ずつ。背後に1人。その周りでも、まだ十人近く隙を伺っている。

 剣を真っ直ぐに構える少年に向かって、正面の2人が剣で斬りかかった。少年は地を這うほどに低く身体を伏せ、二人の足元へと斬り込む。

 一瞬で脚を切られた正面の2人が、呻いて倒れる。

 背後に回った3人が一斉に斧で打ちかかった。身体を起こして振り向く少年の目の目の前に、3丁の斧が振り下ろされる。

 少年は咄嗟に剣をかざしたが、間に合わない。まだ無傷の兵が、少年の背後からも剣で斬りかかってくる。

 その時だった。

 ひょうという音がつづけざまに聞こえた。

 背後で、1人倒れる音がする。

 1人、また1人とローク側の傭兵が倒れる。

 目の前の1人が倒れて、少年はようやく何が起こったのかを見ることができた。

 少年の足元の死体には、それぞれの眉間に一本ずつ太い矢が突き刺さっている。クロスボウの矢であった。

 傭兵達は慌てて武器をしまい、街道をローク男爵領に向けて走り出した。

 少年は、矢が飛んできた方向へ振り向いた。

 白い曇り空の下にも鮮やかに翻る黄色い旗があった。向かい合う龍と獅子の紋章が黒く染め抜かれている。

 分かれ道の手前で、その旗を掲げた鎧姿の騎士がいくつかの騎影を従えて馬を駆っていた。

 逃げた年かさの仲間が残した言葉が意味していたのは、これである。「去るものは追わず、来る者は拒まず」という寛大さで知られているスロガ公爵であるが、治安を乱し、領民に危害を加える者は許さなかった。商人であれ、アルケン伯爵とローク男爵の戦を逃れてきた難民であれ、もちろんその戦に雇われた傭兵であれ、領内の通過に制限はない。しかし、もし難民が大挙して領内に居座ったり、傭兵がいさかいを起こしたりすれば、即座に警備兵がやってくる。

 難民の場合は、もとの土地へ送り返される。(ただし、見つかれば、の話である。大きな迷惑にならない限り、領民が告発することはなかった。)

 問題は、傭兵である。運の悪いものはその場で殺されることになっていた。たとえ運よく生き残った傭兵であっても城へと連行され、やはり死刑に処される。

 それを知っていれば、少年もローク側の傭兵達も剣を抜かなかったに相違ない。

 少年の、逃げた仲間達が賢かったのである。

 咄嗟に、少年は道を外れて走り出した。踏み込んだのは、まだ工事の手が入っていない、泥に埋まった畑である。

 泥に足をとられて、動きにくいことこの上ない。少年は、コートの裾を引きずりながら泥の中を歩いた。

 ……矢が風を切る音……。

 身体をすくめるが、何も飛んでこない。振り向いてみると、傭兵団に追い縋る騎士たちの姿が遠くに見えた。

 重い足を引きずり引きずり、歩を進める。やがて、水に浸かった後の畑を抜け、固い地面に立つことができた。

 少年は、そのまま歩き続ける。

 どこへ向かおうとしているのか。

 もう夕暮れ時である。もう春先であるが、風はまだ冷たい。

 畑を抜けても、まだ道は続いている。道の両側には、水に浸かることを免れたらしい、種まきを前にした土の冷たく香る畑が広がっている。

 道はやがて畑をも外れ、まだ開墾されていない草地へと入る。

 少年の歩く道は、大雨の名残でまだうっすらと灰色に凍りついた空の下で木々が寒そうに身を寄せ合っている針葉樹の森の中へと消えていく。

 この森こそが、「帰らずの森」であった。

 このユイトフロウの地に古くからの言い伝えられるところによれば、この名は森に入った者が再び出てこないことに由来している。

 いかに落伍したとはいえ、余りにも無謀な行為ではないか?

 いや、そんなことは承知でこの道を選んだのである。

 なぜなら、森の中へ入っていくこの道は、けもの道ではない。従って、この森は人が通るのだ。人が通る以上、抜ける方法はあるに相違ない。

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