潰えた旋律-3

「私は沖縄で、うちなんちゅのお父さんとお母さんとの間に生まれた一人っ子だった」

 そう言って霧島は語りだした。


 彼女の父は仕事のかたわらで三線をよく弾いて、彼女にいつも聞かせていた。いっぽうで彼女の母は沖縄で観光ガイドを務めていて、忙しくても休みはきちんと取って娘の面倒を見ていたように思う、私は両親の寵愛を受けて幸せだったと彼女は言った。

 そんな幸せな暮らしも、霧島が五歳のときに彼女の母が病気で亡くなってから一変していった。


 父は妻を亡くした衝撃から立ち直れず、仕事をやめてアルコールに入り浸るようになり、霧島の好きだった三線も弾かなくなり、近所づきあいもやめて殻に閉じこもるようになり、次第に家庭は崩壊していったという。

 そんな生活がしばらく続いたあるとき、霧島は父からひとつの宣告をされる。

 ――もうお前の面倒を見ることは、自分にはできない。

 霧島父は、東京にいる自分の従弟夫婦に当時七歳の霧島と三線を半ば押しつけるように預け、それっきり連絡がつかなくなった。

 蒸発してしまったのだ。




 こうして父と母を失った霧島は本人の意思と関係なく父の従弟夫婦に育てられることになったが、物心のついたばかりの時期に荒れていく父と家庭を見ながら過ごした霧島はすっかり内気な性格になってしまい、誰からも疎まれるようになった。

 特に父の従弟の嫁は不妊症なうえ気性が激しく、それゆえに全く血の繋がっていない娘をひどく冷遇し、常日頃から暴力行為に及んでいた。

 ――なんで自分が、全く関係ないだらしない男の残した『厄介物』の面倒を見なければならないのか、と。


 標準語を話すことのできない霧島は転入した小学校でもいじめの対象に遭い、必死に言葉を覚えた頃にはもう誰からも口を利いてもらえなくなった。

 家、学校と完全に居場所を失くした霧島に残されていた安息はただ一つ、まだ優しかった頃の父が弾いて聴かせてくれていた三線を弾くこと。

 彼女の父がどんな意図で自分の三線を残していったのか、それは今でもわからないと霧島は言う。

 独学で三線の弾き方を覚え、学校から三線の楽譜である工工四クンクンシーと沖縄民謡のCDを取り寄せてもらい、ひたすら独りで三線を弾いていた。

 演奏をしているその時だけは、自分が沖縄にいて幸せだったころを思い出し、現実から目を背けられた。


 しかし、彼女の父を嫌う霧島の養母が、霧島がその形見である三線を弾くことを好ましく思うはずがなく、養母は執拗に三線を破壊しようとするため霧島は学校に三線を隠し、家では弾かないようにした。

 学校が終わると一人で屋上に出て、日が暮れるまで演奏する毎日を送っていた。

 そうやって霧島はずっと独りで三線を弾きながら、中学、高校へと進んでいった。


 演奏にはどんどん磨きがかかり、やはり独りで三線を弾くのは寂しい、自分の三線を誰かに聴いて欲しいと思うようになってきて、家とも学校ともある程度離れた場所を探して三線を弾き、育ての親に気取られないように一か所にとどまらずに演奏を続けていた。

 俺と出会うまでも、俺と出会った時も、そして今日まで、霧島はそうやって三線を弾いていた。




「俺がお前と出会ったのは、そんなときか……」

 そこまで聞いて、俺は口をはさんだ。

「うん」

「大変だったんだな」

「うん……」

 それは、大変などという一言では片付けられないほど重く、苦しく、哀しい過去。

 俺はまだいい。実の父と母がいるし、友人もそれなりにいるし、想いを共有した少女がそばにいてくれたことだってある。

 だけど、霧島は。

(ずっと、独りで……)


 幸せな家庭は既になく、育ての親に冷遇され、学校でも浮いて。

 たった一つ残された物は、幸せだった記憶の象徴である三線。

 なのに、それも壊されてしまった。

 彼女の心中、どれほどかと思う。

「私は……つらい……」

「そりゃ……つらいなんてもんじゃないよな……」

 俺にはそう言うことしかできなかった。

 そんな言葉では霧島の心に届くことなど、到底かなわないと知っていても。

「……毛利くんに、もう一つ話すことがある」

「なんだ……?」


 それは、以前から霧島が口にしていた、この夏で三線を弾くことをやめる、ことについての理由。

 先ほどの霧島の語りのように、霧島は養父母との折り合いが悪かった。

 しかも彼女は友人もいなく内気なため、誰も彼女に味方してくれる人間はおらず、折に触れて周囲から何かと責められていた。

 霧島が高校三年生になった時、彼女は養父から言い渡された。

 ――卒業してすぐ働くか、さもなくば国立の大学に進んでから高給を取れる仕事に就け。それができないと言うならもうこの家から出ていけ。もうこれ以上、あのだらしない従兄の娘であるお前に費やす金などない。


 それを聞いて霧島は、落ち込むだとか悲しむといった感情よりも、ああ、やはりそうなるのかという諦念のようなものに包まれたという。

 彼女は、大学に進んでから就職する道を選んだ。

 そのために勉強をしていかなければならない。三線を弾いてばかりいたので成績もあまり芳しくはなかったが、それでも勉強して育ての親に少しでも報いなければと考えた。


「私は、あの人たちに迷惑ばかりかけていたんだと思う」

「そんなことないだろ……お前に罪はない。お前が選んで今の家に入ったわけでもない、成り行きでそうなっちまっただけなのに、そんな重荷しょいこまなくったっていいじゃないか」

 俺がそう言っても、霧島はふるふると首を振る。

「そうだとしても……私が少しでもお金を稼げれば、きっと少しは良くしてくれるって……もう、痛いのも苦しいのも、嫌だから……」

「霧島……」


「だから、自分で三線を弾くのをやめようって決めた。過去にとらわれないで、無理矢理でも三線を捨てて、目標を作って、前に進まなきゃいけないんだって思った、そうしないと未来はないんだ、居場所もないんだってやっと分かった……でも、すぐにやめることがどうしてもできなくて……だから、時間のいっぱいある夏休みにたくさん弾いて……それで終わりにして、過去にけりをつけようって考えた……でも……」

 霧島は自ら、三線弾きとしての自分を殺そうとしていた。

 けれど、その前に三線のほうが死んでしまった。


「どっちみちいっしょなの、かも……しれない……三線を弾くのを、やめるのと……三線が壊れるの……弾けなく、なるっていうのはいっしょだ、から……だけど……だけど……」

 泣いていた。

 今度は霧島がその細い肩を震わせて、破裂しそうな思いをこらえるように泣いていた。

「こんなに……つらいなんて……目の前で三線が死んじゃって……」

「お、おい」

「ここまでつらくなるなんて、思わなかった……! 三線と一緒に自分の心も、死んじゃった、みたいに……!」


 俺はそっと、抱くと言うには弱すぎる力でその背中に手をまわしてやる。

 今すぐにでも壊れそうな、三線弾きの少女の身体を。

「お母さんも、お父さんもいない……三線もない……私にはもう、なにもない……なにも……!」

 それでも彼女は泣きやまず、それどころかますますその心は深淵に沈んでいく。

「もういやだ……こんなのいやだ……生きていけない、生きていたくない……毛利くん、私を殺して……」

 霧島は俺をまっすぐ見つめて、その瞳から涙をぼろぼろこぼして、そう言った。


 どうして彼女は、そんなに苦しまなければならないのだろう。

 自分のせいでもないのに、好きなことも最後までできずに。

 どうして――。

 俺は霧島の細くて白い喉に、そっと手をかけてみた。

 そしてその上で、それでいいのかと目で語ってみる。すると霧島はこくんと頷き、言った。

「好きなことを好きなようにやることさえ、私には許されないみたい……だからもう、私なんか生きていても、仕方ない……」

 彼女は目を閉じ、身体の力を抜いた。


「…………」

 ここで終わりにするのは簡単だ。

 命とはひどく脆くて、とても儚い。

 終わらせようと思えば、好きな時に終わらせられる。

 失望した時に、その衝動で命を絶つことも、簡単にできてしまう。

 だけど――。




「霧島、お前は一つ見落としている」

「……え?」

 彼女は眼を開け、俺は喉から手を離した。

「夏が終わるまで三線を弾くって、お前が自分で決めた。そしてその夏は、まだ終わってはいないということ」

「でも、三線が……」

「三線は直せばいいだろ」

 それは、至極簡単なこと。

 今日ウマを買った店でも、確か三線の修理を請け負っていたはずだ。

 そう思ったのだが、霧島は哀しそうに首を振る。


「だめ……三線の修理は、買った店でないとだめなの……ソーチーガも、他の部分も、全体で一つの楽器だから、仮にその辺のお店で直してもらっても、逆にバランスが崩れて変な音になる……」

 それは、三線が好きだから妥協したくないという、彼女の気持ちの表れだった。

 弾ければいいなどといったことではなく――。

「なるほどな。でも、だからと言ってそれで詰んだってわけじゃない。買った店じゃないと駄目だというなら、そこまで行けばいいだけの話じゃないか」

「でも、でも……これはお父さんの三線で、どこで買ったのかなんて……わからな……」

 どんどん小さくなり、かすれてしまう霧島の声。

 自分の無力さ、どうしようもなさに打ちひしがれているようで。

 そんな彼女を救いたい想いで、俺は言いきった。


「沖縄だ」

「…………?」

 言葉を失い、疑問符だけで俺に応える霧島。

「沖縄にあるんだろ、その三線の店は。お前の父親が沖縄出身なんだから」

「そう、だけど……」

「じゃあ、沖縄までそれを探しに行こう。そして三線を直したら、お前の言う夏の終わりまで、また三線を弾けばいい。それから先は、その時考えればいい」


 終わっていないのは、夏だけではない。

 彼女の命だって、なにもここで終わることはない。

 そして、彼女の三線だって、生き返る。

 俺だってこんなところで、後悔したくない。

 いまここで諦めたら、佐々木に宣言した俺の決意も、いつも音色に乗って俺に伝わってきた霧島の三線への思いも、全てが嘘になってしまう。

 だから、俺は訊いた。

 何度も彼女に訊かれたことを、その少女に訊いてみた。


「……三線は、好きか?」


 言葉こそ出なかったが、霧島は何度も何度も、首が取れそうになるのではないかと思うような勢いで、涙を飛ばしながらこくこくと頷く。

 本当に三線が好きな少女の、それが答えだった。

(だよな……)

 それは、先ほど彼女が口にした過去の話から痛いほど伝わってきている。それに、三線が好きでなければ、あんなに優しい演奏はできない。


「なら、こんなところでくよくよしちゃいけないんだ。三線が好きなら、三線のことで諦めちゃいけないんだ。それに……」

 俺は壊れた三線を、奏者の目の前に置いてやる。

「音を奏でられないまま役目を終えるなんて、三線もかわいそうだろ」

 はっとした表情になって、霧島はその楽器を優しく撫でた。

「……三線……壊れたまま…………かわいそう……」

「そうだろ。……だから、こいつを直しに行こう。俺も一緒に行く。お前の三線が好きで、こんなところで終わりなんて、嫌だからさ」

 ぐしっ、と涙をぬぐって、霧島はもう一度俺を見上げた。

 本当にいいの、と言わんばかりに。

 それに応えるように、俺は力強く頷いてもう一度言う。




「沖縄に行こう、霧島」

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