潰えた旋律-2

「またしても、でかいパフェが出てきたな、おい」

「……そう?」

 霧島は例によって巨大なパフェを頼み、真上から掘削作業に取り掛かっていた。

「こんなものより、日本一大きなパフェが大阪にあると聞く……一度食べてみたい」

「それはたいそうな夢で何よりだよ」

 呆れてそう言った途端、霧島はスプーンを振って俺の顔にアイス一口分を飛ばし、命中させていた。

「冷てえな!」

「毛利くんの態度のほうが冷たい。乙女の夢を破壊してはいけません……」


 霧島は少しむくれているようだった。周囲のクスクス笑いが痛い。

 顔の熱でアイスが溶けてしまうのではないかと思えるくらい恥ずかしいので、俺は早々に顔についたそれを拭きとった。

「そんなにパフェが好きなら、もうパフェ職人と結婚しちゃえよ、お前なんか」

「……毎日パフェ食べ放題……?」

「ああ、おそらく三食全部パフェだぞ。もうパフェしか食えないぞ。死ぬまでパフェだぞ。死んだら棺桶として、巨大パフェの具になれるぞ」

「……すごい……」

 投げやりで言ったのに、霧島は見事に食いついてしまった。

(本気の目だよ……)

 俺はまたため息をついて、紅茶を啜った。




「おなかもいっぱい、人いっぱい。ここで一曲、三線を弾こう」

 巨大パフェを一人で全部平らげてご機嫌の霧島は、新宿駅前の人通りの多い一角でケースから三線を取り出し、買ったばかりのウマを立てて軽く調弦チンダミをすると、おもむろに音を奏で始めた。

(なんだかずいぶん、聴いていなかったような気がするな……)

 日数的には、そんなに長いこと聴いていないというわけではなかった。

 ただ、先日の騒ぎもあり、少し俺の気持ちもバタバタしてしまっていて。

 そんな時こそ彼女の音色で安らぎたかったのに、こともあろうにその騒動で霧島は三線を弾けなくなった。

 それだけに、ようやく俺が聴くことのできた彼女の演奏はとても美しく甘美に聞こえ、求めていた物が手に入らなくてやっと手に入ったような気持ちを思い起こさせるものだった。


(やっぱ、いいな……)

 元々人通りの激しいところなので、足を止める人も今までと段違いだ。

 割合的には今までと変わらないので、過ぎ去っていく人間もまた多いのだけれど。

 たちまち人の流れが止まり、なにごとかとやってきた人も吸い寄せられ、彼女と彼女の演奏に心を奪われる人間たちは増えていく。

「演奏巧いねー」

「俺は演奏より、弾いてるあの子がいいと思う」

「あの楽器、小さくない? もしかして子供用?」

「バカ、あれは沖縄の三味線でなあ。沖縄のは本州のより小さいんだよ」

「にわかか。そもそもあれは三味線じゃなくて三線だし、三味線とは別物だから」


 思い思いのことを口に出す者、指笛を吹く者、囃したてる者、黙って腕組みをして聴いている者など、聴衆の態度は様々だ。

 霧島もそれらに触れて嬉しいのか、いい笑顔で一曲といわず二曲三曲と続けて演奏していく。

(あんまり盛り上げ過ぎると、警察が来て怒られちまうぞ……大丈夫か?)

 俺がそんな風に、人だかりを眺めてぼんやりと危惧していたときにそれは起こった。




 なにやら低いダミ声がしたのち、鈍い音と悲鳴がして、演奏が止まって。

 俺が視線を戻すと、そこには一人の女と、その前で倒れている霧島と三線があった。

(な、なんだ!?)

「う……」

 霧島がうめき、周囲がざわめき、一気に場が不穏な空気に包まれる。

 人だかりの中心に割って入った女は、倒れている霧島の襟を掴んで無理やり立ち上がらせ、彼女の耳元で金切り声をあげた。

「瑠那……お前は一体、こんなところでなにをやってるの!」

「…………う」

(だ、誰だ!? 霧島を知っているということは母親、か……?)

 それにしては、あまり顔が似ていない。

 見たところの歳は四十五くらいだろうか、化粧でベタベタなうえ、無駄に装飾品の多いいでたちだ。


(そう言えば、以前こいつは……)

 家では自分の三線が嫌われていると、霧島が言っていたことを思い出す。

 やはり、親との確執があるのだろうか。

(しかし、だからと言っていきなり暴力はまずいだろ……)

 俺が間に入って止めに入ろうとしたときには、周囲にまでよく聞こえる高い音で霧島は頬を張られていた。

「もう夏で、勉強しなきゃいけないから、それはもう弾かないって自分で言ったくせに! こんなところで馬鹿みたいに三線弾いてるなんて、なに考えてんの!」

「ごめ……ごめんなさい……でも、それは……」


 怒鳴り声に霧島は涙をぼろぼろ流して、消え入りそうな声でそう繰り返す。

 ものすごい迫力に周囲の人々はなにも言えず、恐れ慄いて我関せずとばかりに去っていくか、遠巻きに見ているばかり。

 霧島の母らしき人間はそこで、地面に転がっている三線に目をやった。

「あいつがこんなものを娘に残して消えたせいで……! こいつはいつまでもだらしないんだから!」

 そこで彼女は霧島を乱暴に放し、三線の棹を掴んで拾い上げる。

「あ……!」

 なにをされるのか分かったのだろう、霧島が悲痛な叫びをあげる。

「こんなもの、こうしてやる!」

 彼女は高い位置から、思いきり三線を振りおろした。

 その軌道上には、鉄製のガードレール。

(――壊される!)


「よ、よせっ!」

 俺は衝動的にその手をひっぱたき、三線を手から取り落とさせた。

 その影響で三線はガードレールに直撃はしなかったものの、ボンと変な鈍い音を立てて三線は地面に小さくバウンドする。

「あ、あう……!」

 霧島は小さく悲鳴を漏らして、転がるようにして三線を抱きかかえる。

 俺はそれを視界の端で確認してから、目の前の女に食ってかかった。

「あ、あんたはなんなんだ! いくらなんだって……こ、壊すほどのことかよ!」

「うるさいわね! あんたこそなによ、いきなり出てきてひっぱたいて!」

 年上ということもあり、俺はどうしても逃げ腰な口調になってしまう。


(なんでこないだから、俺や霧島はこんなことばっかりなんだ……!?)

 松永の時も、今この時も、三線や三線弾きが傷つくようなことばかり――。

「人の家のことに口出すんじゃないわよ! それともなに、あんたがこいつをたぶらかしたって言うの!?」

「違う! 俺はただの……」

 そこまで言って、俺は言葉に詰まった。

 ただの、なにと言えばいいのだろう。

(ただの……)

 俺が迷っているとそいつは俺の横をすり抜けて、三線を抱きかかえてうずくまっている霧島に詰め寄った。


「今までだって、こそこそどっかで演ってたんでしょ! 今日ここでたまたま買い物してたら人だかりができてて、なんだろうと思ったら! お前はこれからもずっとその忌々しい楽器を弾き続けるってことか! ほら、立って帰るわよ今すぐ! こんな物ここで壊して捨ててやる!」

「やめて……!」

 今度は間に合わなかった。

 そいつは霧島がそれを抱きしめていることなどお構いなしに、彼女の身体の上からその三線をヒールの高い靴で踏みつける。


「いっ……!」

 小さく彼女が苦痛の声を発したのと同時に。

 ベキベキと、木のようなものが折れる音がした。

(まさか……)

「…………!」

 次の悲鳴には、声が乗らない。

 驚愕と絶望にまみれた顔で、霧島は固まった。

(そ、そんな……!)


 力を失った霧島の両手から、三線だったモノが落ちる。

 棹を真ん中から折られ、木の皮一枚だけでつながっている、悲惨な姿で。

(な、なにが起こってるってんだよ……!)

 俺はもう、ひたすら狼狽するばかり。

 霧島にいたっては声すら出せず、あまりの衝撃に固まったままで。

「ほら! ボーっとしてないで、すぐ帰るんだよ!」

 そいつが霧島の腕を引っ張り、再度立ち上がらせようとし。

 その瞬間、俺は我に返って直感した。

 このままではいけない、と。


「霧島! 霧島!」

 彼女に駆け寄り、女を突き飛ばして。

「逃げるぞ! とにかく、この場は逃げろ!」

 そう叫んでから、俺は壊れてしまった三線を拾い上げ脇に抱えると、反対の手で霧島の腕を掴んで地を蹴った。




 走っていたときの記憶はなく、気づいたら俺と霧島は電車の中で並んで座っていた。

 俺が持っているものは、踏み砕かれて無惨な姿になってしまった三線。

 そして、俺に寄りかかってがくがくと震えている演奏者。

「霧島、大丈夫か……?」

 大丈夫なはずはないのに、そう訊くことしかできない自分がふがいない。

 霧島は虚ろな目で自分の足元を見つめ、はー、はーと荒い息を吐きながら震えているだけだ。

(なんで、こんなことになってしまったんだ……)


 俺は決めた。

 一晩だけ、こいつを俺の家に泊めようと。

 あの女の激昂ぶりからして、あのまま霧島を帰してしまったら彼女はもっとひどい目に遭ってしまうだろうし、なによりあの女の三線への憎悪は半端ではない。あれ以上霧島と三線をそこに置いていたら、絶対にいけない気がしたのだ。

「霧島……このまま俺の家まで行って、泊まって行け。無断外泊になっちまうけど、とりあえずあの人のほとぼりを冷ましてからのほうがいい」

「…………」

 返事はない。

 霧島はただ震えて俺に寄りかかり、俺が持っている折れた三線に触れていた。




「ちょっと優ちゃん、停学期間中は外出ちゃダメなんでしょ……って女の子連れてきちゃった――! ちょっとどうしたの優ちゃん、その子一体誰なの! 優ちゃん! 優ちゃん!」

「……ああ霧島、うちの母さんのことはいいからとりあえず俺の部屋まで行こう」

 帰宅した俺を迎えるなり混乱してしまった母は放って、俺は霧島を連れて自室へと向かった。

 ドアを閉めて鍵をかけ、とりあえず彼女をベッドに座らせる。

 座ったはいいが、霧島は相変わらず死んだような目で放心状態のまま、うつむいているままだ。


「……ふう、とんでもないことになっちまったな」

「…………」

 勢いとはいえ、霧島を部屋に連れ込んでしまった。

 しかも彼女はいたく気落ちしていて、異様に間が持たない。

 あの叫び以降一言もしゃべらない彼女は、まるで声を出すことを忘れてしまったかのよう。

 たまに辛そうに身を震わすことで、ようやく彼女が生きていることが分かるくらいだ。

「……多分な、母さんがお前の分もご飯作ってくれると思うんだ。それ食って、ほんの少しでも元気出せ、な」

「…………」


 何かしゃべってもらわないと、こちらまで不安になる。

 俺は持ってきた三線を見やった。

 真っ二つにこそなっていなかったが、その棹は真ん中から折れてしまい木の皮一枚で繋がっている状態。

「弾け……ないよなあ、これじゃあ」

「…………」

 霧島は、壊れた操り人形のような鈍い動作でそれに触れる。

 触れるが、ただその傷口を撫で続けるだけで、なにも変わらない。

 俺はどうしたらいいか分からず、ただひたすら夕食の完成を告げる母の声を待つよりほかなかった。

 ほどなくしてそれがやってきて、俺はそのとき心からほっとした。


「霧島、飯だってさ。喉通らないかもしれないけど、少しでもいいから食っていけ」

 彼女はぴくりとだけ肩を動かしたが、それっきり再び押し黙ってしまう。

 随分長い沈黙の後、彼女は一言だけ蚊の泣くような声で漏らした。

「……にも、いらない」

 なんにも、と言いたかったのだろうか、言葉の最初が切れていた。

(そりゃ、あんなにショックならな……)

「んじゃ、俺だけ食べてしまうぞ」

 こくりと頷く霧島。

 俺はそれを見て、またもため息をついてしまう。

(ああ、もう!)

「……分かった、少しだけ持ってきてやるからちょっと待ってろ」




 行儀が悪いとさんざん母に怒鳴られ詰なじられつつも俺は完全に無視を決め込み、自分の食事を五分で片付けると新しい器にスープをよそって部屋に持っていった。

 片手で部屋を開けて中に入ると、出て行ったときとまったく同じ格好で霧島がうつむいてベッドに腰かけていた。

「ほら霧島、スープくらいなら飲めるだろ。さ、ぐっといけぐっと」

「……いい」

 ほとんど分からないくらいの振れ幅で霧島は首を横に振って、弱い拒絶の意思を表す。

「断食したって、三線は直らないんだから。今はまず栄養を摂れ。な……?」

「……ってる……わかってる、けど……」


 消えそうな声で、霧島はそう言った。

 悲しみも怒りも、その表情にはない。

 今の彼女の顔は、虚無というただ一色に染められていて、見ているこちらのほうが辛くなってしまう。

「俺は無理にやらせるのは嫌いなんだ。だから頼む、ひと口でもいいから……」

「…………」

 霧島はそっと震える手を伸ばし、俺の差しだした深皿を受け取って――。

「――――あ」

(熱っ……!)

 それを支える力すら失っていた彼女は、そのまま皿を取り落としていた。

 俺の足が熱を感じ、カーペットには染みが広がっていく。


「…………」

 俺はそのとき、なぜか佐々木のことを一瞬だけ思い出した。

 彼女はよく笑っていた。

 そして、壊れた。

 そうしてしまったのは、自分のせいだった。

(俺は、今もまた……結局……)

 目を向ければ、そこには壊れてしまった霧島の三線がある。

 すぐそこでまたしても、自分の好きな物が壊れている。

 三線弾きは助けられても、彼女の三線は助けられなかった。

 俺にとって大切な存在は、彼女だけでなく、それと同じくらいに彼女の三線もそうだったのに。


(やっぱり俺は、助けられなかったのか……!)

 懐かしくて優しい旋律は、潰えた。

 三線が壊れ、同時に三線弾きの心も壊れてしまった。

 それが自分のせいだと分かった時に、堪え切れない気持ちが胸に突きあげてきた。

「すまない、霧島……」

「…………えっ」

 霧島は顔をあげて、俺を見つめた。

「俺のせいだ……俺が一緒に、ウマを買いに行くなんて言ったばっかりに……!」

 その大きな両の眼には、涙を流している俺が映っているはずだ。

 半年ぶりに途方もない後悔と自己嫌悪をないまぜにして、涙する俺が映っているはずだ。


「俺はまた……大事な物を自分のせいで壊して……! 全部俺が……悪いんだ……!」

「……毛利、くん……」

 霧島は立ち上がって、俺の顔にそっと手をかざす。

 その手は、震えていなかった。

 優しく俺の目じりに触れ、涙をぬぐって彼女は訊く。

「なんで……泣いてるの……? なんで、毛利くんが……?」

 そんなこと、俺が訊きたかった。




 さすがに女の子の前でいつまでも泣いていられないので、俺は無理やり泣くのをやめて床を拭いた。

 拭き終わって雑巾を洗い、固く絞って洗面所に置いてから部屋に戻る。

 そこにはやはり霧島が同じ格好で座っていたが、今度は少しだけ顔が上がっていた。

「あのね、毛利くん」

「なんだ?」

 霧島は、俺が部屋のドアを閉めるなり切り出した。

「話しても、いい……?」


 その眼には虚無ではなく、少しだけであるが光が宿っていたように見えた。

 失意の底で、彼女はわずかな勇気を集めてなにを言おうとしているのだろう。

 それがどんなものであっても、俺は全てを受け止めなければいけないと思った。

「……なんでも、聞かせてくれ」

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