第五楽章 いちゃりばちょーでー

いちゃりばちょーでー-1

 空港を出て見上げた空は、青く澄み渡っていた。

 どこまでも青く、高く、抜けるような空が広がっていた。

「思ったほど暑くないな」

「……うん」

 神奈川や東京の暑さとは違う、蒸し蒸しする感じがない。

 暑ささえも心地よくて、吹いてくる風はもっと心地よい。

「…………」

 俺の傍らにたたずむ瑠那は空気をめいっぱい吸い込み、吐いて、両手を広げて空を仰いだ。


「ここが沖縄……私のふるさと……」





「沖縄に行こう、霧島」

 俺がそう持ちかけた時、霧島の顔はぱっと輝いた。

 そしてまた、少し曇る。

「でも、そんなこと許されない……」

「いいじゃないか別に。直しちまえばこっちのもんだ。あとは好きなように、夏が終わるまで三線を弾けばいい」

「そう、かな……」

 まだ不安そうな顔をしている彼女だが、決して行きたくないわけではなさそうだ。

 ただ、いろいろ不安が多いのだろう。


「私、どうやって飛行機に乗ったらいいのかわからない……」

「そういう準備は、俺が全部やる。お前は着替えとかだけ持ってくればいい」

「空港まで行けないかもしれない……」

「どこかで待ち合わせしよう。んで、一緒に空港まで電車で行く」

 不安や疑問を次々打ち消してやると、霧島は最後にこう訊いた。


「私、できるかな……やれるかな……」

「大丈夫だ。俺が全力で支えてやる。お前は着替えその他と、三線を弾きたいって気持ちだけ持ってこい」

「…………」

 そう、彼女がまた三線を弾けるようになるなら、俺はどんな苦労だって厭わない。

 俺はそんな風に覚悟を決めていた。


「お前、住んでるとこは東京なんだっけ?」

「うん」

「じゃあ、品川で待ち合わせしよう。そこまでは行けるだろ?」

 こくこくと頷く彼女。

「そっから、俺と京急線に乗って羽田空港まで行く。それで大丈夫だ」

「わかった」

「んで、お前は明日になったら家に戻って、出掛ける準備しろ。俺は那覇行きの飛行機を調べて、インターネットでチケットを予約する。んで、日取りが決まったらメールする。ちなみにこの壊れた三線は、当日に俺が持っていくから預かっとくぞ。お前に持って帰らせたら、今度こそ完全に壊されかねんしな」

「毛利くん、リード巧い」

「リードって言うな……」


 まあ、とりあえずこんなところだろう。あとは寝るだけだ。

「とりあえずお前、今日はここで寝ろ。俺は……居間のソファーででも寝ることにするから」

 そう言って俺が立ち上がろうとすると、霧島はとんでもないことを言ってのけた。

「毛利くんも、ここで寝ればいいのに」

「そんなわけにいくか、いろんな意味で。俺が正気でいられる保証はどこにもないぞ」

 呆れて言ってやった。

 こいつは男の怖さというものを知らないのか。


「……ダメ?」

「駄目だ」

「……どうしても?」

「…………」


 霧島は、切なそうに、寂しそうに俺を見上げる。

 そう、彼女は今、一人だ。

 誰かが支えてやらなければならないから、というのは俺の大義名分なのか。

「も、文字どおりの意味で睡眠をとるだけなら、一緒に寝てやらんことも、ない……」

 俺は自分でもわかるほど顔を真っ赤にして、そう言うのが精いっぱいだった。

「うん、それがいい。毛利くんならだいじょうぶって信じてる」

 笑顔でそう言われると、変なことはできないな。

 せいぜい霧島より先に寝てしまおう。




「毛利くん」

 俺のすぐ後ろで、ささやく声が聞こえた。

 いま、俺と霧島は一つのベッドで体を横たえている。

 俺は彼女に背を向け、できるだけベッドの隅に陣取った。

 彼女の想いを受け入れつつ、俺が煩悩に駆られないように。

 なのにこいつは今、俺のことを呼ぶ。

(無視して、寝たふりしておくか……)

「もう寝た……?」

(寝たよ)

 ささやき声に、無言で答える。

「……寝たのなら、くすぐっても起きないよね……」


(え……)

 言葉の意味を考えようとした瞬間、俺の脇腹がぐにょっと握られる。

「ほおおい!」

「あ、起きてた……」

 俺はその感覚に耐え切れず、変な声をあげて飛び起きてしまった。

「な、なにすんだてめえ!」

「起きてるのに無視なんてひどい……」

 ひどいのはお前のほうだと思うが、俺は言う代わりにため息をついた。

「で、なんか用か」

「……お礼、言おうと思った」


 霧島の大きな瞳は窓から差し込む隣のマンションの明かりを反射していて、さながら星空のようだった。

「んなもん、気にするな。さっさと寝ろ。俺も寝るから」

 俺はあえて無愛想に言い、再び霧島に背を向けて横になる。

 その背中に、温かくて柔らかい感触があった。

「毛利くん……」

「なんだよ」

 俺はというとそれだけで心臓の働き加減が体感で三倍くらいになってしまい、そう言うのがいっぱいいっぱいだ。

 佐々木とだって、こんな風に同じベッドで寝たことはないのに。

 そのままの体勢で、霧島は言った。


「毛利くんみたいに、人のために泣いて、人のために力を尽くしてくれる……そういうの、すごく損だと思う……」

 わざわざそんなことを言うためにくすぐったのか。

「ああそうだよ、どうせ俺は損してばっかりの人間だよ」

「うん……でも……」

 なんだよ。フォローなら要らないぞ。

「……もしできるなら、この世界が毛利くんみたいな人でいっぱいになればいい……」

「…………」


 そんなこと、到底無理だと思う。

 今のこの世界で、俺みたいなやつは生きていくのは苦しいだろうことは分かっている。

 きっと社会に出たら、この程度ではなくもっと損をして、面倒なことになって。

 そんな奴らが、俺だけでなくもっと増えたら――。

「……ずいぶん、ぬるい世界になりそうだな」

 そう言ったら、霧島は少し考えてから答えた。


「ぬるいんじゃない。あったかいんだよ。だって毛利くん、こんなにあったかい……」

「…………」

「ありがとう、毛利くん……私のために……ほんとうにありがとう……」

「礼なら三線が直ってからにしろ。ぬか喜びすると、いざ外したとき悲惨だぞ」

「そうだとしても、落ち込んでた私に光を見せてくれた……それだけで、すごく嬉しいから……」

「そりゃどうも」

「それだけ。もう話さないし、くすぐらない。おやすみ……」


 そう言ったが最後、霧島は本当にしゃべらず、動かない。五分ほどして俺がそっと振りむいてみると、霧島はとても気持ちよさそうに眠っている。

「なんちゅう寝つきの早さだよ……」

 起きている男の前で、無防備に寝てしまっている少女。

「…………」

 そんな彼女の寝顔を見ながら、俺は再度決意を固めた。

 三線を生き返らせるのは職人の仕事だが、そこまで彼女を行きつかせるのは俺の役目。

 俺は彼女のために、自分ができることを全てやりとげようと。

「安心しろ、霧島……俺がお前を引っ張って、必ずまた三線を弾けるようにしてやるから……」

 眠り続けるその顔が、少しだけ緩んだように見えた。




 翌朝、朝食を一緒にとってから霧島を駅まで送っていった。

 駅の前で、もう一度確認する。

「昨日も言ったように俺はこれから飛行機を予約して、旅の日取りを決めたりする。んで、ぜんぶ決まったらメールで教えるから、お前もそれまでにできる旅支度はしておけよ。あと絶対バレるな」

「うん」

 神妙な面持ちで霧島は頷くが、まだ少し不安なのか前で組んだ手をもじもじさせている。

「ま、あの親になんかされても、しばらくの我慢だな。三線のことを聞かれても、『知らない』で誤魔化してしまえ」

「……うん」

 不安は大き過ぎて、言葉だけではぬぐえなさそうだ。


「…………」

 俺はそっと彼女の頭に手を乗せた。

 霧島の頭は大きくて形がよい。ついでに髪も柔らかかった。

「大丈夫だ。お前も、お前の三線も俺がなんとかしてやる。だから、ちょっとだけ我慢していろ」

「わかった」

 いまだに不安そうだったが、先ほどよりも強い表情で霧島は答えた。




 それから俺はできるだけ近い日での飛行機の予約をし、三線店探しの拠点になりそうな宿を探して予約して地図をプリントアウトし、それからできる限りの沖縄、とくに三線店に関する情報を拾い集めた。

 夢中だった。

 ただ、俺はそうするべきで、そうあるべきだと思った。

 今の俺はまだ停学期間中だが、すぐに夏休みがやってくる。

 受験生にとっての天王山なんて使い古された文句で言われる、大切な期間である夏休み。

 たとえそれをまるまる潰すことになったとしても、俺は霧島瑠那の三線を生き返らせたかった。

 彼女にも、そして自分にとっても大切な音色を守るために、死なせないために。

 俺は彼女とともに行くことを決意した。

 そうして全ての準備が整い、俺は彼女にメールを打った。


『七月二十三日 朝五時 京急線品川駅一番線ホームに集合』


 我ながら味気ない文体だと思ったが、他に言うべきことも見つからない。

 すぐに返った霧島の返信は、それに負けず劣らず簡潔だったけれど。




『三線を忘れないで』

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