過去から繋がる今-5
松永は俺たちに背を向けて携帯をいじっているので、俺たちは奴の背後から近づいていく形になった。
奴まであと五メートルといったところで、不意に俺の携帯が振動する。開いてみると、その松永からの着信だった。
(なんだ……?)
俺はいったん松永から少し離れ、電話に出る。
「……もしもし?」
『あ、毛利? 大変だぞお前。お前にくっついてるあの三味線の女、変な大男に連れていかれてな。一緒に探そうかと思って電話したんだ。すぐ東畔木の駅前まで戻ることをおすすめするよ』
(て……めえ……っ!)
なんて白々しい仕込みだ。抑えようのない怒りが体中を駆け巡る。
「も、毛利くんの身体が小刻みに震えて……わっ」
俺はそばで聞いていた霧島の腕を掴んで、半ば彼女を引きずるようにして奴のそばまで背後から近付いてから、電話を耳にあてたまま静かに怒りを抑えて答えた。
「その女ってのは、こいつか」
『ああ、そうそ……って、え?』
電話を耳にあてたまま松永は振り返り、そして奴は驚愕の表情をあらわにする。
「おかげさまで無傷だとよ。さあ、どういうことなのか説明してもらおうか……」
「毛利くん、声怖い……」
松永はしばし唖然としていたのだが、すぐまたいつもの癪に障る笑顔で、
「あれ、助かったんだ? 俺が伝えるより早く行動してたなんて、さすが俺より頭いい奴だけある……」
そこまで聞いて、俺は怒りのまま奴の胸ぐらをつかみ、そばの円柱に思い切りその背中をぶつけてやった。「痛っ」などと言っていたが、どうでもいい。
「おい、てめえ言い逃れもいい加減にしとけよ……こいつがてめえに連れてかれたって言ってんだよ」
そばで、こくこくこくと激しく頷く霧島。
「まあ待てよ毛利、これはちょっとした計算違い、じゃなくて誤解で」
「計算違い……? 計算通りだったら私、どうなってたんだろう……」
奴の失言を拾った霧島が、顎に手を当てて考え込む。
もうここまで来たら九十九パーセントこいつが犯人でいいだろう。
「ほーう……てめえ、こいつをその計算でどうするつもりだったんだ、ああ!?」
「ま、まあ落ち着けよ毛利……俺たち親友だろ。親友の言うことに耳を傾けろよ」
「ざけんじゃねえぞ……てめえを親友どころか友達だと思ったことだって、一度だってあるわけねえだろ……何かにつけ突っかかってきて、ダチの吉川や小早川も成績のことだけでしょっちゅうバカにして、挙句の果てに佐々木をあんな目に遭わせたてめえに……!」
どこまでも白々しい半笑いの松永に、俺の怒りももはや止められないところまで来てしまっている。
するとあろうことか、松永はさらに俺の神経を逆なですることを言い出した。
「さ、佐々木……? ああ、毛利にすり寄って、挙句にひどい目に遭ってお前から離れて行ったあの女か。馬鹿すぎてすっかり忘れてた」
「てめえ……! ……て、めええ……っ!」
「も、毛利くん、ちょっとだけ落ち着こう……口調変わってるし……」
松永の胸ぐらをつかむ俺の手を、霧島は取って離そうとする。
けれど、彼女の制止も耳に入らないほど俺は激昂していて。
「てめえ、せめて認めろよ……佐々木も、霧島も、お前の仕業だろうが……! やっただろ!?」
「俺じゃないよ、だって証拠がないだろ」
「そうだな、頭のいいお前が、証拠なんか残すわけがないもんな……!」
「そ、そうそう。 まあ毛利、落ち着けって。こんなとこで騒ぐなんて、頭のいい人間ならしないぞ普通は」
「知るか、そんなもん……大事な人を傷つけられ、傷つけられそうになって、澄ましていられるほど俺は頭良くねえんだよ!」
俺は霧島の手を振り払って、思い切り奴の顔面を殴りつけた。モヤシ男は変な悲鳴を上げて、そのまま地面に倒れ込む。
「わ、殴った……」
霧島は口を押さえて、慄いた。
「てめえがやったって認めたら、もう一発だけ殴って許してやらあ。けど、あと五秒以内に認めなかったら、認めるまで殴ってやる……!」
「ご、ごめんだねどっちも。証拠もないのに暴行に及ぶのか? お前が悪いってことになるぞ……」
「うるせえ!」
「ま、待って、毛利くん、ストップ……」
霧島が何か言う前に、俺の拳は松永の顔面を再び殴りつけていて。
松永のモヤシのような体は、俺に殴られた勢いで二メートルほど吹き飛んだ。どこからか、キャーッという女性の悲鳴が飛んでくる。
「てめえが、てめえが、佐々木も霧島もやったんだ……! 俺の大切なものを、なんで奪おうとすんだよ……! てめえは俺に、何の恨みがあるってんだよ!」
「…………」
「なんとか言え松永ぁ!」
「……ひ、ひひっ、ヒヒヒッ」
殴り飛ばされた松永はしばらくそのまま身じろぎしなかったが、急に変な笑い声を上げてゆらりと立ちあがった。霧島がその不気味さに一歩後ずさる。
「毛利い……お前、この世界をどう思ってる?」
「ああ?」
「学歴や職歴、資格や地位のみが一個人の価値として評価される風潮に、親も教師も尻尾を振って迎合し、生まれてくる子供、入学してくる生徒に、とにかく文字通り学を勉め強いることで『優秀な人材』を作ろうとするこの世界、この社会だ」
頬を殴られて口内を切ったのか、松永は口から血を滴らせながら語ってくる。
霧島がその光景と奴の言葉に完全に引いているのがわかる。よかった、おかしいのは俺一人じゃなかったんだよな。あいつのほうがおかしいよな。
「けど、俺はそんな社会もわりと好きなんだよな。第一に単純明快だ。実際に生きる上で何の役にも立たない公式や文法を詰め込んで詰め込んでそうやって相手より偏差値を上回れば、相手を蹴落として優秀な大学に進めるし、高給の取れる企業に就職できて未来は明るい。分かりやすい弱肉強食の世の中だと思わないか」
「知るかこのボケが。てめえの勝手な世界観を俺たちに押し付けてんじゃねえ」
「だからな」
俺の言うことは耳に入らないらしい。
それにしても男のくせにダラダラベラベラと、いつまで話すんだ。
「いいか、勉強ができれば認められるんだ。いい大学にもいけるしいい職にもつける、出世も早い。学歴と地位を得れば、それだけで認められるんだ。どんなに体格が貧相でも、どれだけ顔が醜くても、どれだけ傷つけられても最後に笑えるし、社会的に評価されるんだ。ひっ、ひひっ」
その言葉には、聞いているこちらのほうが反吐の出るほどの毒々しい憎悪がこもっていた。
確かにこいつをよく見れば、お世辞にも顔がいいとは言えないし、お世辞にも健康的な体格には見えない。過去に他人からどういう扱いを受けたのか、今の言葉も加味して考えてみれば想像に難くなかった。
「そんな素晴らしい社会の中、俺はこの学校に入学した。当然成績は一位になるはずだった。けどそうではなかった、俺より頭のいい奴がいたからだ」
それが俺だってことかよ。
「だから俺はそいつに興味を持って、なんで成績がいいのか聞いてみた。そうしたらあいつ、こう言ったんだ。『勉強だけですべてが決まる世の中に踊らされただけだ』ってさ」
「…………」
俺、そんなことをこいつに言っただろうか。言ったような気もするし言わなかったような気もする。いずれにせよ大してこの男を意識してはいなかったと言うことだけは今わかる。
そうしたら松永は「分かるだろ」と言ってからさらに語る。
「俺とお前は同じなんだよ。この社会にいいように弄ばれ、勉強を積み重ねていくだけの存在だ。他に何に興じることも許されない。毛利の瞳は、いつだってそんな深い諦念と空虚の色をたたえ、くすんで澱んでいた。俺を安心させる、俺と同じ色の瞳だ。それなのに、あの女だ!」
松永は急に声を荒げて、俺に寄ってきた。近づくんじゃねえ、気持ち悪い。
「あいつが毛利に近づいて、毛利の彼女になったせいで、お前は勉強以外に興じることを見つけてしまった! 笑うこともなかったあいつが、楽しそうに笑っていた! 暗い色だった瞳が、幸せそうなバラ色に変わってしまった! あの暗い瞳の毛利が、どこかへ行ってしまった!」
「い、意味がまったく分からない……」
「ああ、まったくだ。こいつはどこまで腐りきってやがるんだ……!」
霧島もこの男の気持ち悪さにドン引きだ。なんなんだこの男は。人間の考えとは思えない。俺や霧島や佐々木と、この男が同じ種族であると思いたくない。
要するにこいつは自分に自信がなくて、自分と似た考えを持っていた昔の俺に自分の在りようを投射しといて、その俺に彼女が出来たら自分だけ置いてかれると思って、それで佐々木を再起不能にまでしたってのか。
「よーく分かった……てめえ、今すぐ俺にボロボロに殴られてから、佐々木に土下座して謝ってきやがれ!」
「うるさい! あいつは、あいつは毛利を幸せにした魔女なんだ! そして、やっと魔女を始末できたと思ったら、また毛利は別な女と幸せになろうとしている! そんなこと、俺が許すものか! もう一度、もう一度あの頃の不幸な毛利を取り戻してやる!」
「言うに事欠いて魔女とか、寝ぼけんのもいい加減にしやがれえ!」
俺は三度この男を殴りつけ、地面に叩き伏せた。すかさず馬乗りになって、何度も何度も顔面を殴りつける。
「てめえの勝手なエゴで、佐々木は二度と剣道が出来なくなっちまったんだろうが! あいつの人生が、あのとき滅茶苦茶に狂っちまったんだ! もう二度と取り戻せねえ! それで満足せず、今度は霧島もやろうとしたってのか! 二度と三線を弾けないようにしたかったのか! てめえの勝手は、どれだけの人間を不幸にして狂わすんだよ!」
自分が何者なのかも忘れ、この先にあるリスクも忘れ、俺はひたすら怒りと憎しみをぶつけていく。
いくらかの後に俺を正気に戻したのは、背後からひしっと抱きつかれる感触と、張り裂けそうなほど切ない声。
「……もうやめて、毛利くん……これじゃ、毛利くんが悪者になる……」
「…………」
戦意を失った俺の隙に、顔を腫らした松永はほうほうの体ていで遁走を図り、俺と霧島だけが残される。
(俺は……)
人を殴ったことなど、せいぜい小学生の時に喧嘩したときくらいだ。殴ることに慣れていない俺の両手は痛みを覚え、そこから血が滲んでいる。俺の血なのか松永の血なのか、それすらもよく分からない。
その赤いものを見て後悔に暮れながら、俺は霧島に言った。
「逃げるか、霧島。じきに警察が来るかもしれない」
「それがいい……」
が、制服を着ていたのがまずかったのか、それとも松永の陰謀なのか、俺が乱闘したということは翌日には学校に知れ渡っており、俺は登校早々校長室に呼びだされることと相成った。
「まあね、君は成績一位だしね、勉強も頑張っているということでストレスもたまっているだろうしね……」
「だからってそれを暴力に向けるなんてことは許されんぞ」
校長と担任にステレオで言われると、さすがに気が重い。
延々二十分説教を喰らい、俺は退室して扉を閉めると、その横の壁にもたれてため息をついた。
「停学……三日か……」
それが今回の処分、ということらしい。
もっとも、テストは昨日で終わり、この後夏休みまでの学校でのイベントは答案返却、大掃除、テスト休みという名の自宅学習、それと終業式だけだ。たいしたことは行わない。
「名目上停学は停学だが、ゆっくり休んで羽を伸ばしたまえ」
というのが校長の言い分で、俺の素行や成績が普段から悪ければもっと重い処罰がくだるとのこと。
(ま、いいだろ)
むしろ大掃除をしなくて済むくらいだ。
が、当然ながらそれを快く思わない人間もいるわけで、それがこの自宅の玄関を開けた向こうにいることを考えると落ち込んでくる。
「ただい……」
「優ちゃあああああああああん! てて、停学ってどういうことなのあんた――! 担任の先生から電話で言われて、お母さんひっくり返っちゃったわよおおおおおお!」
ほらきた、と思った。ほぼ予想通りの母の反応にげんなりする。
正気の沙汰とは思えないほどの母親の狼狽に、何と言えば落ち着かせることができるだろうか。
「まあ、落ち着いて……」
「落ち着いていられるわけないでしょ! 内申! 内申! 内申に停学って書かれちゃうじゃないの! もうどこの大学にも行けやしないじゃないの!」
「いや俺、一般入試だから……」
「そういうことじゃないの!」
母は前後不覚で、俺の言葉を聞いてもらえない。一般入試に停学は関係ないはずなのだが、もはやそんなことにすら気づかないのか最初から知らないのか。
「ああああ、もうどうしたらいいの! ここまで育ててきたというのに、大学にいけないんじゃろくなとこ就職できない、お金も稼げない! 成績一位でいいとこに進学して、いいとこに就職して、育てたお金を返してもらえないんじゃ、一家全員首くくって死ぬしかない!」
とんでもないことを言いだした。人は追いつめられるとボロボロ本音を出すと聞いたが、まさに目の前の母がいい例だな。結局俺はお前らの金を稼ぐ道具というわけで、ここまで育てるのに使った金はそのための先行投資か。
「まあ、ゆっくり寝て落ち着いてからコトの詳細を……」
「そんな悠長に構えてられるわけないでしょ! ああもう死ぬしかない! 死ぬしかない! この親不孝者! 穀つぶし!」
ヒステリックになってしまって手がつけられない。どうして息子の停学三日程度でこの世の終わりのように狼狽するのだ。退学を喰らったり、犯罪により逮捕されたらどういう反応をするのだろう。
俺はあきらめて母の横を通り抜けて、自室に戻って鞄を放り投げてからベッドに転がった。
(そう言えば、霧島は処分受けてないだろうな……)
彼女は既に夏休み中と聞いたが、それでも何かあれば学校に連絡が行くはずだ。なにもないことを祈りたいが。
俺は携帯で『昨日の件で学校から何か言われたりしたか?』と、彼女にメールを送ってみた。
一分程度ですぐ返信が届く。画面には『ない』と二文字だけ記されていた。
その二文字が、どれだけ俺の心を安堵させただろう。
下ではまだ母が一人で喚いているが、俺は放っておいて塾の時間まで休むことにした。
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