過去から繋がる今-3

「ったく、なんなんだあいつは」

「あの人、毛利くんの友達?」

「友達なもんか。あいつが勝手にそう思ってるだけだ。佐々木にも近づけるべきじゃないな……」

 まだ人の行き交いが激しいエレベーターホール前まで歩いて行って、俺たちは柱に寄りかかって話していた。


「こら、毛利くん」

「ん、な、なんだ」

 そうしたら急に、佐々木は眉を吊り上げてたしなめた。まさか、みんなと仲良くしなさいとか言うつもりなのか――。

「美優でいいって、言ったじゃん」

「え、あ、そっちか……」

 ほっとして、肩の力が抜ける。

「そっか、私がきみのことを下の名前で呼ばないから、きみも名前で呼んでくれないのかな。ねえ、優佑?」

「う」

 一歩近寄り、上目づかいで初めて俺の名を呼ぶ俺の彼女。


(な、なんだこれは……これがいわゆる、トキメキというやつか!? だいたいなんでお前は平然としてるんだよ! ああもう駄目だ! 俺の理性と言う名のベルリンの壁がソ連のように崩壊してしまう!)

 わけのわからない思考が止まらず、体温が五度くらい上がったような気がした。大ごとだ。

「ささ、優佑も、美優って呼んでみて?」

「み、みみみ……」

「あ、そう言えば私たち、名前に同じ『優』の字つくんだね。なんなら優ちゃんでもいいよ、優ちゃん?」

(どっちも優ちゃんだしややこしいわ!)


 と、普段の俺なら切れ味鋭く突っ込みをかますところだが、いまの俺はなにぶん思考回路の大半がやられてしまっているため不可能だ。

 俺がどうしようもない状況に陥っていると――。

「毛利いいいいいいいい!」

「優佑ええええええええ!」

 俺の名字と名前を叫びながら、物凄い形相の二人の男が突撃してきた。

 友人の吉川と小早川だ。またこのパターンか。

「な、なんだ?」

 その影響で少しだけ我を取り戻した俺は、戸惑いながらも二人組に問う。


「毛利、お前も後夜祭に出るだろ?」

「そろそろ時間だぞ」

(後夜祭……)

 どこの学校でもあるだろう、文化祭が終わった後に、体育館に集まってみんなで歌ったり騒いだりする、慰労の催しだ。

 二日続けて文化祭がある学校は一日目と二日目との間に『中夜祭』なんていうのもあると聞く。

 ちなみにそれらには在校生しか参加できない。

 佐々木もそれを心得ているため、後夜祭と聞いて自らの額を軽く叩いた。


「あちゃー! そっか、じゃあ優……じゃなくて、毛利くんも出たい、よね?」

「あ、あー……でも……」

 その時、俺は迷った。

 後夜祭は出席自由だ。出ずに、佐々木とすぐ一緒に帰ることもできる。

 せっかくなかなか会えないのだから、一緒の時間を少しでも長く共有していたい。

 しかし――。


「毛利、てめえは恋と友情を天秤にかけてるな!」

「んでどうせ、恋のほうにガクーンと傾いて、俺らを置いて行っちゃうんだろ!?」

「いいよいいよ吉川、もてない俺らは盛大に騒ごうぜ!」

 このうるさい二人組が黙っちゃいないわけだ。

 こいつらは松永とは違って一応俺の友人だし、あまり無下に扱ってしまっては少し可哀想にも思う。

「んでどうせ、いま『一応こいつらにも気を使ってやらないと、可哀想だよな』とか思ってるんだろ!?」

「ひでえよ毛利、彼女持ちの男の余裕ってやつかよ!」

 人の心を読むな。


 俺は佐々木のほうをちらりと見やった。自分でスパッと解決できない、優柔不断さを少し恥じながら。

 すると佐々木は腕組みをして、少し考えてから答えた。

「んー、じゃあさ、毛利くん、後夜祭に行ってきなよ」

「え……」

「だって、三年になったら文化祭に参加できないっしょ? つまり、後夜祭を楽しめるのも、今年が最後なわけだし。でも私は、これからも毛利くんのそばにいられる。逢おうと思えば、いつだって会えるような、会えないような」

 俺や、おまけの二人まで気遣うような、優しい少女がそこにいた。


「うおおお、義姉あねさん、優し過ぎるっす――!」

「俺らのことまで気遣ってくれるその姉御っぷりに惚れたっす――!」

 吉川と小早川は男泣きに泣いて感謝していた。そんなことで泣くなよ。

「俺たち、毛利と『もてない義兄弟』の誓いを結んだ吉川と小早川って言います! 毛利の彼女はすなわち俺らの義姉あねさん! これからも命懸けてついて行きます――!!」

「あ、あはは、ほどほどにね……」

 そんなに暑苦しく迫られたら佐々木だって引く。見てすぐ分かるほどのドン引きだ。


「んじゃまあ、毛利くんは、行ってきなよ。私、ここで待ってるような、待ってないような」

「すまない佐々木、すぐ戻ってくるからな」

「いいよ! 楽しんでおいで!」

 手をひらひらさせて、佐々木は俺たちを送りだす。と言うより、この段階で俺は二人の義弟に両腕を引っ張られ、エレベーターの中に放り込まれたわけだが。




 熱気と絶叫に包まれる体育館で、俺は一人、どことなく不安を抱いていた。

(やっぱり、佐々木を連れて帰るべきだったかもしれないな)

 彼女は笑って送り出してくれたが、それでもあの場に一人残しておくなんて、彼氏としてどうだろう、という思いもある。

 佐々木のことを考えると不安になって、目の前の喧騒から取り残されたような感覚を覚える。


「なんだ、浮かない顔をしてるな。頭の悪そうな奴らの騒ぎは、たしかに俺たちにとっては疲れるからな。俺もお前を求めてわざわざやってきたけど、ちょっと限界だね」

 そして俺は吉川や小早川とはぐれ、俺を探してやってきた松永に捕まってしまっていた。

 なんで佐々木と離れ、こんな奴と一緒にいなければならない。行き場のない不快感が押し寄せてくる。


「やっぱり俺、帰る」

 即断即決、決めたらすぐに体育館の入口へと引き返す。人でごった返していて、そこに着くまでも一苦労だがそうも言っていられない。

「おい、待てよ、帰るんなら俺も一緒に帰るよ」

 要らない奴もついてきた。俺はお前とじゃなく、佐々木と一緒に帰りたい。

 地下にある体育館を後にして、エレベーターで教室のある階、佐々木と別れた階へ上がる。

「なんでお前までついてくるんだよ」

「しょうがないだろ、俺も鞄を教室に置いてきてるんだから」

 不毛な言い合いを交わしながらもエレベーターは停止し、ドアを開けた。

 が、そこで待っているはずの佐々木がいない。


「いない……教室のほうか……?」

 殺風景なエレベーターホールでずっと待っているのは退屈で、教室に移動したのだろうか。そう思って教室を覗いてみても、あるのは机や椅子を押し下げられたこれまた殺風景な夕暮れの教室。

 俺は携帯を出し、電話をかけてみた。

「……ダメだ、何度コールしても出ない……」

 けれどそれも、俺に虚無感しかもたらさなかった。


「あいつ、どうしたんだ?」

「帰ったんじゃないのか」

「あいつが何の連絡も寄こさずにそんなことするとは思えない」

「頭悪いから、連絡すること自体忘れてるんじゃないか」

 舌打ち一つして、俺は松永を睨みつけた。

「……お前、いい加減にしろよ。人をそんなふうにいつも軽んじやがって」

「おいおい、怖いなあ。彼女だからって怒ってんのか?」


 松永は俺の気迫を柳のように受け流す。見かけからしてひょろひょろしているこいつの、人を食ったような物言いは本当に不快だ。

 だが、こんな奴にかまっている暇はない。

 もしかしたら、何らかの異常な事態が起きているかもしれないのだ。

「分かったよ、俺が悪かった。おわびに、俺も探してやるよ……」

「勝手にしろっ」

 そいつはニタリと笑ってそう言った。

 いつもの人を食ったような笑いだった。

 その時はそう思っていたから、つい流してしまったのだが。


 今考えてみると、それはすべて松永の計画通りに事が運んでいたことへの喜びだったのだ。


 俺は携帯でもう一度佐々木を呼び出し、そのまま携帯の音量を最大にしてポケットに放り込んだ。

 校内にいるのなら、その発信音が聞こえた場所が佐々木の居場所。

 俺は三階、二階、一階と下に降りながら佐々木を探しまわった。

「佐々木! どこにいる! いたら返事をしろ!」

 携帯のほうも、全く無反応で呼び出しだけを続けている。


「必死だなあ。頭がいいのに、愛する人のため闇雲に走りまわるとは、劇的と言えば劇的だけど」

「お前はちょっと黙ってろ……!」

 ついてくる松永の煽りにも、切り返していられる余裕がない。

 ついにエントランスホールまで来てしまい、あと残るは校庭、そして校外。

(校庭を探してダメだったら、どうするか……)

 うちの学校は街中にあるため、敷地はそう広くない。ゆえに校庭も非常に狭く、遮蔽物も隅っこに佇んでいる創立者のおっさんの胸像くらいで隠れられそうなところもない。

 校庭には誰もいないのがすぐに分かった。校舎沿いに歩き、校門を目指して下校していく生徒たちが俺たちの背後を通り過ぎていくだけだ。


「くそっ……」

 俺は立ったまま膝に手を置き、下を向いたまま荒い息を整える。

 足の間の地面に汗の雫が、ぽたり、と落ちるのが見えた。

「だから、浅はかな奴のことだからただ連絡忘れて帰っただけだって」

「じゃあなんで、こんだけ呼び出しても出ないんだよ!」

 俺は怒りのまま、いまだ呼び出しを続けている携帯を突きつける。

 それは今でも、プルルルル、ピリリリリと呼び出しを――。


「……ん?」

 気がついた。

 音が二重に鳴って聞こえる。

 こちらから着信音が聞こえてくるはずはない。だとすれば――。

 俺は目を閉じ、意識を集中させる。

(……あっちだ!)

 それは、人の通らなさそうな体育倉庫やゴミ集積場のあるところ。

 嫌な予感を全身で感じながらも、俺は残った力を振り絞って駆けた。

(佐々木……佐々木……!)


 俺は祈った。

 どうか、俺がそこに着いたときに、なにも起こっていませんように――。

 そんなところでじっとしている人間に、なにも起こっていないはずがないということから必死に目をそむけて。

 音は体育倉庫の裏から聞こえてきていた。

「佐々木!」

 俺はそこについにたどり着いて。

 そして、見た。

 変わり果てた、彼女の姿を。




 壁に力なく背を預け、地面に座ってうつむいている彼女を。

 頭から流れる血は綺麗な顔に何本も血の筋を作り、口の端からも血を滴らせている彼女を。

 あらぬ方向に曲がって向いていて、関節が異様に大きく、赤黒く膨らんでいる彼女の右腕と左足を。

「……な……なんで……どうして……」

 足から崩れ落ちて、彼女の前で地に両手をついた。

 声が、うわずった。

 信じられない。

 これは、何かの間違いだと思いたい。

 けれど、これは現実で。


「俺が……俺が一緒に帰っていれば……後夜祭なんかに出なければ……」

 悔いても、自分を呪っても、もう――。

「嘘、だよな……こんなこと……」

 震える手で彼女の肩をつかんでも、顔を持ち上げても、反応がない。

 意識が、ないようで。

「おいおい、どうなってるんだこれ? 大怪我じゃないか。いったい誰が、こんなひどいことをやってのけたんだ……? とにかく、俺は警察と救急車を呼んどくとするか……」

 あとからやってきた松永の声も、よく聞こえない。

 そちらを見ない俺は、奴がどんな顔をしていたのかも分からない。


「俺が……俺のせいで……佐々木……佐々木……! うわああああああああ――――!」

 俺に出来るのは、ただ彼女の体を抱いて、その名を呼んで泣き叫ぶことだけだった。




 全身打撲と骨折で、長期入院。

 数日経っても、意識が戻らないらしい。

 もしかしたら、記憶の一部、または全部を失っているかもしれないとさえ、彼女の両親は医師に申し渡されたらしい。

 そして、なによりも。

 剣道に置いて軸足となる左足を著しく損傷した佐々木は、普通の歩行はできても、もう二度と剣道ができないと診断された。

 命があったこと以外、最悪の結果だと俺は思った。

 飯もほとんど喉を通らず、それでも学校や塾に行かなければならなかった。ノートすら取らず、ただ着席して下を向いているだけの時間になった。

 見舞いすらできなかった。


「優ちゃんは、悪くないんだから」

「お前の彼女には気の毒だが、お前のせいではない」

 親や教師には口を揃えてそう言われたが、それはつまり、そんなことでいちいち気を落とす暇があったら勉強しろと、そういうことだ。

 あるとき、松永は言った。

「やっぱりさ、あれは偶然なんかじゃない、必然だよ。お前みたいな頭のいい奴に言い寄ってくるから、報いを受けたのさ」

「お前は……なにかを知っているな」

 力なく、それでも俺は奴を睨みつけて言った。


 あのときの奴の挙動は、あまりにも不自然過ぎた。絶対にこいつが、裏で糸を引いていたに違いない。

 だが、その証拠が見受けられない。俺と一緒に行動していた松永には、アリバイがあるのだ。

 それに。

 たとえ証拠が挙がっても、松永を責めても、すべては手遅れなのだ。

 もう、彼女の足は戻らない。剣道にも、打ち込めない。

 断たれた道は、もう繋がらない。


 俺は自分で自分を深く、深く責めた。

 自分という存在が大嫌いになって、いっそ自害してしまおうとさえ思えた。

(こんな俺が……佐々木の彼氏なはずがない……俺の不明であんなにも傷つけてしまった佐々木が、俺の彼女でいてくれるはずがない……全ては俺が悪いんだ……許してくれ、佐々木、許してくれ……)

 俺はそう決め込んで、佐々木のことを忘れようとした。

 佐々木との記憶を全部封じ込めてしまおうと思った。


「実は彼女と別れちゃってさ、もう一度『もてない義兄弟』の契りを結ばせてくれないか?」

 一月後、吉川と小早川にそう言ったのが、佐々木のことを口に出した最後だった。

 俺は必死に佐々木との記憶を封じ込め、三年生になって怪我から回復した佐々木があろうことか塾内で俺と同じレベルのクラスに上がってきても、閉ざした記憶を開かずにやり過ごしてきた。


 大切な少女を、俺は忘れた。

 結局一度も名前で呼ぶことなかった、俺の彼女。

 一度も好きと言えなかった、俺の彼女。


 俺は佐々木美優を、忘れた。




(俺はいったい、なにをしていたんだ……!)

 走りながら思い出すのは、封印したはずの過去。

 厳重に蓋を閉め、目をそむけ、忘れたはずだった。

 なのにあろうことか、先日当の本人に話しかけられて、その封が緩んで。

 そして今、あの時と同じことが起ころうとしている。


 ――気になる女の子がいる。俺は今度こそ、そいつを傷つけたくないんだ。


 あの時、気づいた。

 俺は人と親密になろうとしてはいけないのではなく、二度と親密になった人を傷つけてはいけないのだ、と。

 佐々木と久しぶりに話をして、それに気づいたからこそ、彼女の目の前でああ言ったというのに。

 あいつを傷つけてしまったからこそ、二度と繰り返してはならないのに。


(目をそむけていたら、また繰り返してしまうのに! 大切な人ができた時に、また繰り返してしまうのに! 忌まわしい記憶を封じて忘れたところで、なんの解決にも、なんの前進にもならないんだ……!)

 忘れていたから、忘れて目をそむけてしまったから、また大切な人が傷つこうとしている。

「俺は、なにも成長していない……!」

 悔しくて、苦しくて、言葉が漏れた。

 けれど、悔いている暇があるなら走らなければ。

(ダメだ、考えるな! 一秒でも早く、霧島の元へ……!)

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