第三楽章 過去から繋がる今

過去から繋がる今-1

 七月に入り、すぐにテストがやってきた。テストは三日間にわたって行われるが、この時期に調子など落としていられない俺は余裕で切り抜けられた、と思う。

 テストは午前中で終わるので、俺はさっさと帰り、塾の時間まで寝ていたかった。

 こういう時くらいしか、寝る時間がない。

 けれど、俺には寄るべきところがある。

 学校の隣駅で下車し、 三線の演奏を聴きに、霧島に会いに行くのだ。




 いつもは夕方に出会う俺たちだが、今はまだ昼の一時。もしかしたらいないかと思ったら、相変わらず駅前広場で彼女は三線を弾き、道行く人の足を止めていた。

 霧島と出会って半月ほどだろうか、彼女の演奏はもともと巧かったが、ここにきてさらにその演奏に磨きがかかってきたように思える。

 どの辺が、と訊かれると俺は音楽に疎いから分からないのだが。

 よく見ると、演奏中の霧島の足元が光っている。

 これも前からあったことだが、最近では投げられる小銭の量も微妙に増えてきているのではないだろうか。

 そう思って、今日の俺は彼女に渡す物を用意してきていた。


「よう、こんな昼から演奏してたんだな」

 一区切りついたところで声をかけると、霧島は三線をそばに置いて立ち上がる。

「……私の学校、もう夏休み。今までも、昼前から演奏してた」

「そっか、俺のとこも今日ようやくテスト終わって、そろそろ夏休みだ。……ところで、今日はお前にこれをやろうと思って持ってきた」

 出された物を見て、霧島は表情こそ動かさないがぴくっと肩を震わせる。


「……お菓子」

「まあ、家にあったやつだけどな。でも、今回のメインは中身より外身だ」

 底が浅く面積は広い扁平な円い缶に、クッキーが入っている。霧島はさっそくそれをバリバリ食べながら、「外身?」と訊いてきた。

「その缶を目の前に置いて、演奏してみろ。きっと、普通に演るより金がもらえるぞ」

 霧島は箱を眺め、考えてからこう言った。


「毛利くん、抜け目ない」

「まあ、お前には素質があるってことだよ。ただでさえお金もらえてるくらいだからな。その缶に、自前でいいから少し小銭も入れてみろ。空っぽより少し入ってた方が、道行く人も『あ、じゃあ自分も入れようかな』って気になる」

「……えげつない」

 えげつなくはないだろ、どうせもらえるなら最大限にもらったほうがいいに決まっているじゃないか――と言いたかったけれど、あまり彼女を怒らすとまた三線で殴られるから言わないでおいた。

「あこぎな商売……」

「いや、あこぎじゃない……というかお前、意味分かってて言ってるのか?」

「わからない……」

「じゃあ言うなよ、恥かくから……あだっ!」

 やっぱり三線ケースで殴られた。俺が悪いのだろうか。




 ともあれ、霧島は俺の渡したお菓子の缶を目の前に置き、先ほど投げ与えられた小銭をその中に集めてまた演奏を始めた。

 するとあれよあれよと、まるで初詣の賽銭箱のようにどんどん小銭が投げ入れられていく。まあ、十円玉とかが主だが。

 やはり、霧島の演奏は上手なのだ。そこらへんのプロと同じくらいかそれ以上なのではないだろうか。


 俺なりに考えてみると、演奏が巧いだけではなく、訊く人の心に訴えかけてくるような何かがあって、その何かとはきっと、俺のように過去の記憶を揺り動かす力なのだと思う。

 無理やり引っ張り出すのではなく、忘れていた何かを、その存在だけをそっと示してくれるような――。

 人間は、さまざまなことを得て、同時に失っていく。

 覚えたこと、出会った人、体験した出来事。

 それらを記憶に新しく入れ、留め、また後から入った記憶と入れ替わり、忘れていく。


 どこかで、人間は『忘れる』生き物だと聞いた。

 生きていくために必要な事柄を覚え、また、生きていくために不要な事柄を忘れて生きていく、と。

 脳も新陳代謝しているのだと。

 俺も、いろんなことを忘れてここまで生きてきた。

 なにを忘れたかもわからないようなことも、たくさんある。

 忘れたことにすら気づかないようなことも、たくさんある。

 霧島はそんな不確かな記憶を、そっと揺り動かしてくれるのだ。

 その、三線で。




(さて、帰るか)

 人が少なくなっても霧島はまだ演奏をしていたが、そろそろ家に帰らなければいけない。

 塾の時間はもう少し先だが、だからと言ってあまりのんびりしていると親がうるさい。

 俺は先に帰るな、という意思表示のもと片手をさっと上げ、その場から立ち去り駅へ向かう。

 そこでまた、嫌な奴が以前のように改札のところで立っているのに気づいた。

 俺は無視して通り過ぎようとして――。


「お前、なにやってんだよ」

 呆れるような声でそう言われ、俺は足を止めた。

「なに、ってなんだ」

「夏休みはもう間近なのに、まだあの三味線女と仲良く楽しそうにしてさ」

 その男、松永は相変わらずのモヤシのような体を壁から起こし、俺の周りをゆっくりぐるぐると回りながら言った。気味が悪い。

「俺たちは受験生、勉強するときで、遊んでる場合じゃないだろ?」

「……俺がどうしようと、お前に関係ないだろう」

「おおありだよ。一度言っただろ」


 俺は自分より頭がいい毛利を買ってるんだ、一緒にトップの大学に入って、そこでも成績を競おうじゃないか、と松永は言う。

 言われて確かに、そんなことをこいつが言っていた気もしないでもない。

「そのためにお前には勉強に集中してほしいんだよ。俺だけトップの大学に受かったら、俺は誰をライバルとして生きていけばいいんだよ。お前、まさかエスカレーターでN大行くわけじゃないよな? ここ、高校は進学校としてなかなかだけど、大学はDランクだぞ」

 俺は呆れ果てた。呆れ過ぎてもうどうにもならないほどに。


「ふざけるな。それはお前の身勝手だろうが。なんで俺がお前に付き合わなきゃいけないんだ。俺はお前のことが嫌いだって言ってるだろ」

「俺は好きだよ」

「……っ、気持ち悪いんだよ!」

 俺は吐き捨て、大股でホームに向かって歩いていく。

「なあ、毛利」

「なんだよ、まだ何かあるのかよ」

 後ろから、気持ち悪い高さの男の声がまとわりつく。


「俺だって乱暴な手段に出たくはないけど、時にやむなく外患がいかんを断つことだってあるぞ。大切な親友のためなら、手段を選ば……」

「黙れ。なにが親友だ。俺はお前が嫌いだ」

 もう話すことなんてないと、俺はこれ以上なにも聞かないつもりで歩きだした。

 階段を上り切ってホームに出た時、電車の扉が目の前で閉まった。

 振り返ってみたら、追ってきているだろうと思った松永はいなかった。

(なんだ……なんか妙だ……)

 俺が訝った、そのとき。


 ――毛利くんは、行ってきなよ。私、ここで待ってるような、待ってないような――。


 不意に、本当に不意に、俺の脳にあいつの声が聞こえた。

 それは、間違いなく去年、あいつが俺に残した言葉。

 あの言葉を最後に、あいつは――。

「…………」

 胸騒ぎが、した。

(まさか……!)




 俺は上って来たばかりの階段を駆け下り、改札を出て再び東畔木の駅前広場に出た。

 先刻までそこにいた三線少女が、いない。

 代わりに空の三線ケースが、開いたまま放置されている。

 そしていないと言えば、俺に絡んできた、あの男も――。

「おいっ! ……じゃない、すいません! ここで演奏していた女の子は、どこへ!?」

 俺は彼女のいた場所で、自分が見ていたときもそこにいたはずの聴衆の一人、三十代くらいの会社員の男に問いかけた。

 余裕も礼儀もない不躾な態度だったが、相手は俺の焦りが伝わった上で対応しているのか落ち着いた声で返してきた。


「ああ、今さっき、君と同じ服を着た男の子が、彼女の腕を引っ張ってなんだか無理やり連れて行ったけど……」

「……んなっ……そいつはどこへ行った!?」

「あっちのほうかなあ……」

 男が指さした先は、ここから百メートル弱離れたところ、バスターミナルを越えた先にあるビルとビルの間の狭い道、というよりむしろ空間というべき場所。

 それだけ知って、俺は礼も言わずに駆けていった。

 嫌な予感を、これ以上ないほど感じながら。

(松永……お前はまた、また俺の大切なものを奪い取る気か……!)

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