毛利と霧島と、佐々木-3
家には戻らず、そのまま塾への道を歩く。
歩きながら考えるのは、先ほどのこと。
霧島の言った言葉が、どうしても気にかかった。
家では、彼女の三線は嫌われていると。
あんなにも道行く人の足を止めるほど、上手な演奏だというのに。
演奏とは関係ない、別の何かがあるのか。
(考えてみると、俺は霧島のことをほとんど知らないんだよな……)
偶然三線の音色に導かれ、彼女と二言三言会話して。
気づいたら、彼女の三線を聴きに、放課後に途中下車して彼女の演奏を堪能してから塾へ行く、というのが最近の流れだった。
駅の近くのビルに入り、階段を上がって塾へ。
(あいつの好きなものとか、誕生日とか、学校はどこへ通っているかとか、友達はどのくらいいるのか……)
俺は彼女のことを知らなくて、そして。
(霧島のことを、もっと知りたいな……)
そう思いながら、教室の扉を開け中に入る。
まだ開始三十分前だというのに、多くの生徒が着席してテキストやノートにペンを走らせている。
みんなよくやるな、と俺が思ったとき、俺の存在に気づいて一人の女の子が席を立ち、歩み寄ってきた。
「やっ、毛利くん」
「…………」
絶句した。ややあって、絞り出すように彼女の名字を口にする。
「……佐々木……」
話しかけられるはずのない相手から、声をかけられている。
俺はこいつのことをよく知っている。
塾でのみ出会う女の子で、どこかの私立高の生徒。いつも制服姿で塾に来ている。
背の高さは俺と同じくらいで、髪は短い。
剣道部に所属しているらしく、いかにもなポニーテールと、武道で培われた意志の強さと優しさが程よく調和された瞳が好ましかった。
俺の、元彼女だ。
(ああ……)
そんな少女を見て、思い出す。
(俺は、他人のことを知ろうとしたら、他人と親密になろうとしたら、いけないんだった……)
自らの罪の記憶を。
その記憶のフラッシュバックは、俺が霧島にその罪を繰り返しかねないという警告でもあった。
教室に鞄を置いてから、建物の外へともう一度出る俺たち。
佐々木はそばの自販機で、コーラと果汁ジュースを買って、コーラのほうを俺に手渡してくれた。
「まだ、俺がコーラ好きって、覚えててくれたんだな」
「そりゃあね。あんだけコーラ飲んでるとこ見たら、嫌でも覚えちゃうよ。一度さ、コップになみなみ醤油を入れて、ラムネで泡出してコーラに見せかけて飲ませた時あったじゃん。あのときのきみの顔ときたら……あはっ、あはっ、あはははははは……!!」
「そんなことまで覚えてなくていいっ!」
彼女は、すぐ笑いがツボに嵌る。そんなところは、昔と変わっていなかった。
俺の恥ずかしい過去を思い出して、大笑いする佐々木。
それが収まって、ふう、と一息ついたところで俺は切り出した。
「で、あれから一度も口をきかなかったお前が、改まって何の用だ?」
「ん?」
佐々木はにこっと笑って、ジュースの缶に口をつけたまま、こちらを見る。
「いやあ別に。ただ……」
「ただ?」
「私たちが出会って、もう一年なんだなって」
「…………」
二口目に飲んだコーラは、タールのように重たく、食道をぬるりと通っていった。
「……そうか、もう、そんなに経つか……」
俺は彼女に、何を言えばいいのだろう。
あの時の俺の罪は、今さら謝ったところで
もう二度と、時間は戻らないのに。
それどころか、あのときから半年以上も過ぎてしまったということを、今になってやっと知った。
結局、時間ばかりが溝を隔てて――。
「や、やだな、そんな落ち込まないでよ。別に毛利くんを責めてるわけじゃないんだからさ。 毛利くん黒いよ、黒毛利になってる! ほら、その黒いの消して!」
ジュースを持っていないほうの手で、佐々木はバタバタと俺の周りの空間を凪ぐ。
けれどそれでも、俺に湧きあがった暗雲は払えなかった。
いや、湧きあがったのではない。
湧きあがった暗雲を、ずっと放置していたのだ。
わざと忘れてきたのだ。
暗雲と言う名の、忌まわしい記憶を。
必死に、忘れようとしていたのだ。
「重ねて言うけど、毛利くんを責めようと思って、今日こうして話しかけたわけじゃないんだから」
「あ、ああ……」
それでも、俺の中で後悔と自己嫌悪が渦巻いて、もうどうにもならない。
「私が毛利くんに聞きたかったのはね」
すう、と息をついで、佐々木はもう一言を告げた。
「……最近、どうかなって。ただ、それだけ」
「…………」
それが呼び水となったかのように。
俺の中で、時間が一年前の今日に戻っていく。
「えっと、特鋭クラスの毛利くんだよね?」
塾の授業を終えて帰宅しようと俺が教室を後にしロビーに出たとき、後ろから声をかけられた。
振り向くと、水色のテキストを一冊胸の前に抱え、やや緊張気味の面持ちでこちらを見つめてくる、凛とした雰囲気を醸し出すポニーテールの少女がいる。
「そうだけど……」
見覚えのない顔だ。俺のクラスにはいない。
「私、ハイレベルクラスの佐々木美優っていいます。あのですね、えっと、このあと時間空いてるかなあ……? ちょっとだけ、勉強教えて欲しいような、欲しくないような……」
「……なんで俺……」
しどろもどろに申し出てくる佐々木と言う少女に、不審なものを感じつつ訊いてみた。
「だ、だって毛利くん、ここでの成績トップだよね? ほら」
佐々木が指をさした先は、ロビーの壁面、二か月ほど前に行われた塾内模試の成績優秀者一覧だった。
最右端にある俺の名前には、特別大きいバラの花がついている。
だけどできれば、面倒事は避けたかった。
「講師に訊けばいいんじゃないか……?」
「いや、訊いたけどなんか説明が分かりづらくって……毛利くんなら巧いこと教えてくれるかなって考えたような、考えてないような……」
俺はため息をついた。
面倒なことは嫌なのだし、腹も減っている。早いところ帰って食事にしたいのだが――。
俺がなにげなく自らの腹に手を当てそう考えた時、彼女は俺の空腹を察したのか、こう申し出てきた。
「付き合ってくれたら、ご飯おごっちゃうような、おごっちゃわないような……」
情けない俺は飯につられ、つい承諾してしまった。
「……ま、いいだろ」
「ほんとう? ありがとう!」
もし俺がこの時、彼女を無視して帰宅していたら。
佐々木が傷つくことはなかったし、俺も罪の意識にさいなまれることなど起こり得なかったのに。
これが俺と佐々木との関係の始まりで。
俺の罪の始まりだった。
「これは先にこっち側の二等辺三角形、OABを考えるんだよ。
「なるほど!」
塾から比較的近くにある、駅前のハンバーガーショップの隅で俺はセットメニューひとつをおごられ、その代わりとして佐々木に勉強を教えていた。
彼女は俺の一つ下のクラス、ハイレベルクラスに所属しているだけあって、基盤がしっかりしている。「余弦定理ってなに?」などと言われてもっと手間取るかとも思ったが、そこまで苦労することはなかった。単に教え方の問題だろう。
「あとはできるだろ?」
「うん、できるような、できないような」
こいつの口癖はこれらしい。大丈夫だろうか。
しかし、ひとつの小さいテーブルに向かい合っているせいで、随分と互いの距離が近い。女の子とこんなに近い距離に自分の体が在ったことなど、今までなかったかもしれない。
加えて、佐々木は目の前の問題に夢中で、前かがみになっている。
(……おっ?)
そして俺は、あることに気づいてしまった。
ちょっと顔を近づければ、開き気味の彼女のブラウスから胸元が覗きこめそうだということに。
今が夏服の季節でよかったと思いながら、彼女に気取られないようゆっくりと視点をずらしていく。
俺は変態じゃない、世界の万象を知るためにしかたなく目の前の未知なる空間をその眼で確かめなければいけないのだと、どこの誰へなのかも分からない言い訳を心で呟きながら――。
「できた! これで合ってるかな!?」
「うえいやぁあああああっ!」
がばっと顔を向ける佐々木、突然のことに驚いて上がり調子の奇声を発する俺。
静まりかえる店内、吐息のかかる距離。
(うわあ――!)
俺の中で抹消したい記憶ベストテンに入るかと言うくらい恥ずかしい思い出が、また新しく形成されてしまった。
そしてそんな俺を見て、佐々木はくすくすと笑って。
「なんだ、毛利くんって普通」
「……はあ?」
「成績一位の人だから、もっとお固い感じだと思ってたよ」
「そんなんお前、思い込みっつうか偏見だろ」
まだ心臓がばくばくしている俺は、落ち着けと念じながら佐々木のテキストを上下反転させ、彼女の回答を眺めた。
「うん、正解だ」
「ほんと? 嬉しいなあ。昨日、まる一日かけても分かんなくて、塾の先生に訊いてもなに言ってるか分かんなかったけど、毛利くんに訊いてよかったような、よくないような」
「そりゃ
「あ、うん、ありがとう!」
俺は席を立ち、トレーと容器を片付けに行く。
鞄を取って帰ろうと振り返ったところで佐々木が二人分の鞄を持って、にこにこしている。
「はい」
「……サンキュ」
俺が鞄を受け取ったところで、ここぞとばかりに佐々木は言った。
「また、分かんないことあったら毛利くんに訊いてみたいような、みたくないような」
「一回ごとにここで飯おごるんなら、考えてやってもいいぞ」
「えーちょっと、次からは無料でいいんじゃない?」
「どうしてだよ……」
身も蓋もない会話をしながら、店を出て歩く。途中までは方向が一緒らしい。
「毛利くんって、高校どこ?」
「N大付属畔木」
「あ、意外と普通……うちの
明るくて元気な奴だ。どちらかと言うと俺とは対照的。
「ね、大学どこいくの?」
「……考えてない」
「えー、そんな勉強できるのに?」
「…………」
俺はこの時すでに、もやもやしたものを抱いていた。
それは不安であり、疑惑であり、恐怖でもある。
親や教師に言われて勉強し、なんとなく成績優秀を保ってきた。
このまま優秀な大学に行き、高給の取れる企業に就職し、働き続けて一生を終える。
それが、とても不安で。
考えたら、また落ち込んできた。
なので、相手に振ってみる。
「お前は、先のことをしっかり視野に入れてんのか?」
「……私も、よくわかんないような、わかるような」
「つまり、俺と一緒か」
「……かなあ?」
足を止めた。
佐々木もまた、俺に倣い、止まる。
「疲れるな……」
「だね。疲れるような、疲れないような」
こういう言い方をした時の佐々木は前者、つまり疲れていると、短い時間で俺には分かってきていた。
「何のために、私たちはここでこうしてるのかなあ」
「さあ……」
「たまにはレール脱線したいような、したくないような」
「俺もそう思う」
「……じゃあまあ、そういうことで」
そう言って、佐々木はスッと右手を伸ばしてきた。
不思議と相手がなにを言っているのか理解できた。
それは俺と彼女が、図らずも同じことを考えていたからかもしれない。
俺は手を伸ばし、佐々木の手を握ってみた。
「よろしくね、毛利くん」
「……ああ」
彼女の手のひらには、何かをずっと握ってきたような
「…………」
追憶から戻ってきた俺は、ため息をひとつ吐つく。
(あやまちだ……あの時の俺の、全てがあやまち……)
そして、さらなる後悔と自己嫌悪が俺を締めつける。
俺は佐々木のほうを見て、今まで言おう言おうと思いながらも一度も言う機会のなかった言葉を吐いた。
「……もう、怪我はいいのか」
遅すぎると分かっている。
今になって言ったところで、彼女の身体はともかく、その心には深く傷痕が残ってしまっていて、もう手遅れだと分かっているのに。
「怪我……?」
佐々木は一瞬、何のことか分からないような顔になってから、ああ、そのことかとばかりに目を見開いて、ぽんと手を打つ。
「だいじょうぶだよ。後遺症もないし、全然平気だって。むしろ今まで、きみに言われるまで怪我したこと自体を忘れてたくらい……」
嘘をつけ、と思う。
あんな凄惨なことを、そう簡単に忘れられるはずなどないのに。
あんな忌まわしい記憶を植えつけられて――。
俺のせいで、佐々木は――。
「佐々木……俺は、いまだに……」
「ほんとに、だいじょぶだって」
俺がまた後悔しようとする前に、佐々木はポンと俺の肩に手を乗せる。
「男の子は過去に目を向け、女の子は未来に目を向けがちって、どっかで聞いたことあるような、ないような。毛利くん、本当に過去にとらわれてる感じがするよ。私はもう、だいじょうぶだからさ。私はほんとに、あれから一年経った毛利くんのことが知りたいような、知りたくないような、そんな気分で声をかけてみただけ。また明日から、いつも通り毛利くんのそばには寄らないし、口もきかないし、間違ってもきみとやり直したいとか思ってないからさ」
「そっか……そりゃ重畳だな……」
彼女の最後の言葉で、俺は底知れぬ安堵感を覚えていた。
ふいに、佐々木はくすくすと笑う。その口癖、まだ使っているんだ、と。
「いや、もう使ってない。難しい言葉を使うのは、お前と別れてからはもうやめたんだ。けどまあ、お前と久しぶりに会話したら、思い出したからさ」
「そっかそっか。やっぱり毛利くんは、過去の記憶を大切にしてるんだね」
「そう、かな……」
自分では分からない。
金髪の若い男二人と化粧でべたべたな若い女が一人、俺たちの塾の隣の建物、騒がしいゲーセンの中に吸い込まれていった。
そこで佐々木は、こほん、と咳払いしてから続けた。
「まあでも、過去はともかく、今はどう? 彼女でもできた?」
「お前、もしかしてそれが知りたいだけなんじゃないのか」
「さあ、知りたいような、知りたくないような」
佐々木は得意の口癖で誤魔化してきた。でも、十中八九、知りたいということなのだろう。
「彼女……って言うのかな……多分、違うと思うけど……」
俺は脳裏に、三線を弾くあの少女の姿を思い浮かべた。
その像は勝手に指を動かし、弦を弾き、音色を奏でる。
あの懐かしい、不思議な旋律が、脳で再生される。
「……気になる女の子は、いる」
「おお? そりゃいいねえ、青春だねえ」
「俺は今度こそ、そいつを傷つけたくないんだ」
言っていて、自分でも意外に思った。
そこまで確固たる意志のもと、俺は彼女のことを思っていたことに。
「……ふうん?」
そしてそれは、きっと目の前の佐々木のおかげだと気づく。
今日、この
一度犯してしまった過ちを確かめられたからこそ、もう二度と繰り返させはしまいと――。
だからそれを、佐々木に誓うように俺は言った。
「お前みたいにはさせたくないって、思ってる」
「……そっか」
佐々木は少しだけ寂しそうに、微笑んだ。
どこか変で、放っておけなくて。
物静かで、優しくて。
そんな少女が、今は俺の近くにいる。
懐かしい音色を奏でる、女の子。
そんな少女が、今はいる。
三線を弾く少女が。
気がつけばこんなにも、俺の中で大きい存在となっていた。
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