毛利と霧島と、佐々木-2

「じゃ、そろそろ俺は行くわ。このあと、塾もあるし」

「あ……ごめんね、ずいぶん遅くなっちゃったね。時間、だいじょうぶ?」

 霧島は心配してくれたが、ぬかりはない。

 今日は塾のテキストも学校の鞄に入っている。彼女の演奏を聴いてから直接塾に行くことで、時間を浮かせようと考えていたのだ。

 そういう風に彼女に伝えると、霧島はどことなくほっとしたような、不安そうな顔になる。


「そっか……塾に行ってるんだね」

「ま、行かされてる、って言うほうが正しいかな」

「……私、塾に行ってないけど……行った方がいいのかな……もう、夏休みになっちゃうのに……」

(ああ、そうか……)

 こいつもまた、受験の悩みにさいなまれているのか。


 たしかに、受験生と言うものは夏休みにたくさん勉強をするものだ。学校や塾での夏期講習、自宅での勉強、人によっては一日十時間以上勉強しろ、なんて言う大人もいる。

「……塾に行ったからってできるようになるとも限らないし、自分なりに勉強していればいいんじゃないか。そんなに深刻になる必要も、ないと思う」

「……そう?」

 うつむきがちだった彼女の顔が、少し上がってくる。


「周りがみんな『勉強しろ』ってうるさいから、つい深刻になっちゃうんだよな。親や学校が、一丸となって緊迫した空気を作りだして、俺らを勉強から逃げられないようにさせるからな」

 まさにそうだ、とばかりにこくこくと首を縦に振る、三線弾きの少女。

「空気を読むのと、周りに流されて自分を見失うのは紙一重だ。あえて、空気読まずにマイペースにやってくのもありだと、俺は思う」

「なるほど……」

「どうしてもこの大学に行きたい、っていう信念や妄執があれば話は別だけどな。霧島には、そういうのがあるのか?」

 訊かれた彼女は、今度は無言で首を横に振った。

「別に、行きたいところもない……」

「そっか……俺もだ」


 先のビジョンなど、欠片も見えてこない。

 どこの大学に行きたいのかも分からず、とりあえずお前は優秀だからAランクの大学を目指してみろ、と教師に言われ、逆らう理由もなかったからなんとなくその『層』をぼんやりと眺めている俺。

 いや、俺だけではない。

 友人の吉川や小早川も、俺ほど成績が振るわなくても『上の大学に入ることに損はないのだから』などと言われ、上の層を眺めて勉強している。

 きっとこの霧島だってそうなのだろう。


 親や教師たちに闇雲に『上を目指せ』と言われ、『頑張れ』と言われ、『勉強しろ』と言われる。その言葉に責任などちっとも感じず、どれだけ当人を追いつめているかも考えず、ただ偉そうに言い放つ外の立場の人間たち。

 それなのにその一方で、『夢をあきらめるな』とか『生涯で大切なものを見つけろ』だとか、目先のことすら満足に指針できずに、いい加減に『上へ行け』と言う奴らがよくぞ言えたものだ。

 そんな奴らに囲まれ、俺たちは受験生として生きている。


「疲れるな……」

「うん……」

 ため息をつく男女が、ここにひと組。

 夏休みが近づくにつれ、旅行やレジャーに向けて浮かれる世間の空気と、勉強をしなければならないと言われ続ける身近な空気に挟まれ、やるせない思いがこみ上げる。

「ま、頑張りすぎない程度に頑張るしかないよな」

「そう、だね……」

 そんなことしか言えない自分が、少し情けなかった。

 そして、霧島は変わらず沈みがちな顔のままで。

 見ているのが辛くて、そんな彼女から逃げるように踵を返し、「じゃ、もう行くわ」と言って駅を目指して歩きだした。

 背後から、また来てね、と声が聞こえた気がした。




 ただでさえ後味が悪いのに、余計俺の気分を乱す奴がそこにいた。

「やあ、毛利」

「……うわっ……」

 改札の内側で、壁にもたれて立っているひょろひょろした長身。

 自称俺の親友、松永だ。

「うわっ、って御挨拶だな。最近一緒に帰ってくれないから、健気に追いかけて待ち伏せていたってのに」

「ストーカーという言葉を知っていて、なおかつお前はそう言ってるんだよな」

「大丈夫。俺はストーカーじゃない、お前の親友だ。何の問題もない」

 こいつとは永遠に話がかみ合いそうにない、ということを今日も再確認できた。


「……で、何の用だ」

 わざと嫌そうに、いや実際に嫌なのだがそう訊いてみる。

「なにもヘチマもないだろ。お前を心配してついて行ってみたら、まだあの三味線女と仲良くしてるのか、って話」

 男のくせにきんきん高くて耳障りな声だ。声だけで言えば、女の子であるはずの霧島のほうが落ち着いている。

「あんな頭悪そうな奴より、俺と一緒にいた方がお前は楽しいし、お前のためでもあるんだからさ。俺とお前、頭いい奴同士仲良くして、ともに智を高め合おうじゃないか」

「……お前、何を根拠にあいつの頭が悪いと思ってるんだよ」


 どんどん不快な気分になりながらも、我慢して会話してみた。すると松永は演劇でもするかのように大きく手を広げて、得意げに解説し始めた。

「あんなの、三味線弾くだけしか能のない女じゃないか。お前が見ても、あいつは三味線弾く以外のことしてたか? してないよなあ。喋り方だって頭悪そう、っていうか頭弱そうで……」

「お前さ」

 やはり我慢できず、俺はこいつの言葉を遮った。


「一方向から見ただけで他人の頭の善し悪しを判断するのはやめておけ。お前、学校でも嫌われているのを知ってるだろ、頭いいんなら」

「知ってるとも。だが、俺のことをどうこう言う奴らこそ馬鹿そのものじゃないか。頭で俺に及ばないからって、劣等感から陰口言ってるだけだろ? 頴脱えいだつした俺には、そんな愚民たちの雑音は聞こえないね」

 ふん、と鼻を鳴らす松永を見て、俺は盛大にため息をついた。駄目だこいつは。俺が――いや、誰がなにを言っても聞く耳を持たない。


「サンシンだ」

 だから俺はそれだけを低い声で言い、松永の横を通り抜けた。

「ん?」

「あの楽器は三味線じゃなくて三線だ。そんなことも分からないなんて、随分といい頭してんなお前」


 それ以上、なにも言う必要はないだろうと思った。

 俺本人もこの間まで分からなかったがそれは棚に上げておく。改札を抜け、さっさとホームへの階段を上がる。

 当然のように松永が追いかけてきた。ホームにはちょうど電車がドアを開けて停車していて、サイン音を鳴らしていた。

 俺は最後の一歩を少し大きめに踏み出して乗り込むと、まるで俺の気持ちを察してくれたかのように背後で扉が閉まった。

 ちら、と振り向くと、間にあわなかった松永が窓越しに俺を見つめて、何か言いたそうにしている。

 電車が動き、俺も奴のほうを見るのをやめた。

 ほっと息をつき、ドアにもたれかかる。


 個々の人間の頭の――勉強の成績ではない――善し悪しなど、全体から見れば誤差の範囲だ。

 だというのにあいつはそんなことに拘泥し、しかもその頭の善し悪しの判断が学業の成績のみという大間違いをかまして、それに気付かない。

(俺もお前も、広くから見たら凡庸な人間なんだよ。そうじゃないと確信してるなら、マサチューセッツ工科大学でもどこにでも行けばいいだろ……)

 日本の中堅進学校で成績二位、その程度でつまらない勘違いをしている男。そういう奴こそ『馬鹿』の類ではないか。

 俺は成績一位だろうと、決してすごくなどない至って凡人だと思っている。

 驕ることなく普通に過ごし、普通に友人と遊び、普通に彼女が出来たりしたこともあったが――。


(ああっ、もう!)

 嫌な思い出が過よぎり、俺は頭を振って忘れようとした。

(霧島……あいつまで、松永の毒牙にかけてたまるか)

 過去の苦い経験から、俺はひそかにそう決意した。

 携帯がポケットの中で振動した。見てみるとやはり差出人は松永。俺はもうひとつため息をつき、ろくに内容も見ずに削除した。




「お嬢ちゃん、歌は歌わないの?」

 東畔木の駅前で霧島が演奏するようになってから数日、今日も演奏を終えて一息つく彼女に、買い物袋を携えた小太りな主婦が話しかけてきた。

「……はあ」

 対する霧島はゆるりと頭を上げ、あまり感情の乗っていない声で返事をすると、オバサンは中年女性特有の押しの強さで話し続けた。

「三線弾くんなら、歌わないと。歌三線うたさんしんって言葉があるでしょ。歌が先で、三線が後。歌のほうがメインなのよお?」

 どんどん声を高くし、一歩詰め寄ってくる中年女性に霧島は戸惑いを隠せないようだった。

「……あ、あきさみよー……」

 霧島は何やら変なうめきを上げている。さて、どうしたものだろうか。


 歌三線なんて言葉があるとも知らなかったが、そのオバサンが言うに歌と三線は切っても切れないほどの関係らしい。

 が、確かに霧島は今までも三線の演奏だけを行っていて、俺は彼女が歌ったところを聴いたことがない。

 歌わないのか、歌えないのか、歌いたくないのか、理由や事情は分からないが、霧島はオバサンに詰め寄られ困っているようだった。

(静観するか……? それとも助け船を出してやった方がいいのか?)

 俺が逡巡していると霧島は、ちらっ、と一瞬俺を見やった。

 助けて、と言わんばかりに。


(マジか……お前の歌わない理由も知らずに、なんて言えばいいんだよ)

 まあでも、俺に任せたということは、ある程度適当なことを言っても構わない、ということだろう。

 無難な嘘でもついて、オバサンに諦めさせればいいわけだ。

 俺はつかつかと二人に歩み寄って、オバサンのほうを向いて実にナイスな嘘をついた。

「オバサン、悪いがこいつはとんでもなく音痴で、人前で歌えないんだ」

「誰がオバサンよ!」

「いてえ!」

 そうしたら、オバサンチョップをモロに脳天に喰らってしまった。

 しかも俺への打撃はそれだけで終わらない。


「……音痴じゃない……」

「いてえ!」

 後ろからも鈍器のようなもので、ごいん、と頭を殴られた。

 振り向くと霧島が三線ケースを剣道のように構えているではないか。公衆の面前でなんて真似をさせやがる。

 そんな俺たちの姿を見て、オバサンは豪快にため息をついて。

「はあー、若い子ってのはお盛んでいいわねえ。ま、歌わないなら歌わないでいいわ。ありがとね、お嬢ちゃん。いいもの聴かせてもらったわよ」

 そして去っていった。他の聴衆たちも既にほとんど四散しており、周囲はまたいつも通りの夕方の風景へと変わっていく。


「なんとかやり過ごせたようで、良かったな」

「よくない」

 また三線ケースで殴られた。いくら楽器本体じゃないとはいえそんなに乱暴に扱っていいものか。

「いってえ……」

「あきさみよー。私、音痴だと思われたかも」

「……お前が『音痴じゃない』って否定して俺の頭を盛大に叩いてるのを目の当たりにしたから、あのオバサンだって信じてくれるだろ」

「そうかな……」

 そうじゃなかったら俺は殴られ損だ。

 いまだに、そうかな、そうかなと呟きながら首をかしげている霧島に、俺は改めて訊いてみた。


「で、ほんとのところはどうしてなんだ?」

「……歌、について?」

「ああ」

 霧島は少し考えてから、おもむろに口を開く。

「……ヘタだから……」

「それってつまり、音痴ってことじゃないか」

 ごいん。またケースで殴られた。

「てめえ、いい加減にしろよ人の頭を木魚みたいに! 今回は別に文句ないだろ、歌が下手なのを音痴って言って何が悪い!」

「言い方の問題……」

 相変わらず表情が動いていないが、少しむっとした表情になっている三線使いの少女。


「……なるほど、じゃあ霧島は『歌が下手な人よりちょっとだけ苦手な人に比べて少し下手な人よりちょっぴり苦手な人に比べるとやや劣る』人なんだな」

 俺が言い方に細心の注意を払ったにもかかわらず、またも打撃がやってきた。

「いつから三線ケースは、人の頭を叩く道具になったんだ?」

「毛利くんが無神経なことを言った時から……」

 ごく最近だった。

「そうかよ。つまり俺がお前の機嫌を損ねたら、それで殴られるわけか」

 こくり、と頷く霧島。

 それから話題を元に戻して、話を始める。


「私が弾いているのは沖縄の民謡なんだけど、歌が歌えないのは、沖縄の発音を忘れてるからなの。CDとかで聴けるんだけど、内地に住んで長いからかな、すっかり発音の仕方を忘れてて……CDの真似をしてみても、なんかしっくりこない。あきさみよー」

「なるほどな」

 霧島は下がり調子でため息と同時に言った。

 確かに、歌が下手なのはともかく、後者の理由はいちいち話して聞かせるものではないと思う。これでようやくはっきりした。途中、何回か殴られたが。

 なおさっきからこいつが言っている「あきさみよー」とはそれ自体に意味はなく、「あーあ」とか「なんてこった」のようなネガティブな感嘆詞のようなものらしいと後で知った。

「ま、でもさ」

「……ん?」

「たくさん歌えば、自然に発音も慣れてくるんじゃないか? 人前で歌うのがアレなら、家で毎日練習するとか……」

 俺がそう提案してみると、霧島は首を横に振る。


「……できない」

「は? なんで?」

 しない、ではなく、できない、と言ったところが気にかかった。

 すると霧島は、悲しそうに眼を伏せて続けた。

「三線も、沖縄の歌も……家ではできない」

「だから、なんでだよ?」

 霧島は、少し黙ってから。


「……嫌われてるの。私の三線、私の沖縄の歌……ると、怒られるから……」

 どうしようもないことだから、仕方ないんだよ、と、零れるように小さな声で付け加えた霧島の表情かおは、計り知れないやるせなさをにじませていた。

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