第44話:残酷

「待って下さい」


 少女の声が、去ろうとした俺を引きとめた。


 振り返ろうとした俺を、少女の指がそっと押しとどめる。


 少女は俺の服を掴み、俺の背中に自分の頭を押し付けた。


 吐息混じりの熱を帯びた声が、小さくも確かに俺の耳朶を打つ。


「あなたはきっと、分かってはいないのでしょうね」


 言葉を続ける少女の指先は、小さく震えていた。


 首をめぐらせれば視界の隅に映る、普段の姿とは似付かぬ潤んだ瞳、情欲をかきたてる少女の体温が、否応なく俺の理性を溶かしていく。


「あなたと恋人になれただけで満足していると思いましたか?」


 これは、なんだ?


「あなたの恋人という肩書きを得ただけで十分だと?」


 少女は何を言っている?


「……確かに、始めはそれで満たされていました」


 それ以前に、何故俺はこうも動揺している? 身体的接触など、毎朝のことではないか。今更、何故その程度のことで動揺しなければならない?


「たとえその形が拳であっても、貴方が私を受け入れてくれただけで、嬉しくてたまらなかったんです」


 少女の言葉も、もはや耳を素通りするのみ。


「でも、恋人同士になっても、まだ不安に思うんです」


 俺は、恐怖しているのか?


「私はあなたを何よりも大切に思うけれど、あなたは、私をどう思っているのか」


 恐怖?


 だから、何にだ?


「怖いんです。私だけが、浮かれているんじゃないかと」


 今少女は俺の背中に触れている。仮に少女が微笑んでいたとしても、俺にその微笑みは見えない。怯える理由はないはずだ。


「私は、自分で思っていたより堪え性のない女だったようで」


 少女の声音が、怖い。


 俺が怖かったのは、微笑みではない。この声音でも無い。


「欲しいんです。あなたが私を愛してくれているという確かな証が」


 怖いのは、俺に向けられる剥き出しの好意。俺が好意に好意で返すと信じて疑わない、その無防備にして残虐な信頼。


「……私たちは恋人なのですから、もっと深く繋がりを持ってもいいでしょう?」


 ならば、俺は今すぐ少女に振り向きざまの裏拳を叩き込み走って逃げるべきだ。


 だが、俺の腕はそれを拒んだ。拳での拒絶など無意味だと、既に嫌というほど思い知らされているからだろう。


「……抱いて、ください……」


 震える俺の背後で、衣擦れの音がした。


「……嫌だ」


 絞り出した声は、自分にさえはっきり聞こえないほどかすれていた。


 俺の精一杯の拒絶は功を奏したのか、少女は俺から離れた。


「どうして……」


 その震えた声は、俺の胸をちくりと刺した。


 受け入れようとすれば暴れだしたくなるほど苦しくなり、拒絶すれば胸が痛むのなら、俺はどうすればいい?


「嫌だからだ」


 やはり俺達は、恋仲になどなるべきではなかったのだ。


「私は……あなたにとって何なんですか!?」


 俺に何を期待していたのか、少女は悲痛な声で訴える。


「それは俺の台詞だ」


 だが、声音はともかくその意味するところは、俺を苛立たせるだけだった。


「俺は既に、俺の一生をお前にくれてやると言った。お前はこれ以上、俺から何を奪う気だ? 足るを知れ。妖怪」


 よくもまあ自分が自分の想像しているとおりに大切にされているのなら今の待遇はありえないなどという、厚顔無恥な台詞が言えるものだ。


「私も、私の全てをあなたに捧げたいだけです! あなたにとって迷惑なだけの、あなたから何かを貰うだけの女でいたくないんです!」


 言うに事欠いて、与えたいとは笑止千万。与えたいから欲せよ、などとは本末転倒も甚だしい。『誰かの為の行動』が所詮自身の精神の充足行為でしかないということに、何故永きに渡って人間を見続けてきたこの少女が気付かない?


「だから、俺にお前を欲しろと? 文字を読めない者に書物を欲せよと言うに等しい無茶だな」


「私なんて、要らないんですね」


 俺の苛立ちを読み取ったか、少女の声は悲しげに沈んだ。


「有り体に言えば」


 そして俺は、わざわざ取り繕う気にもならなかった。それをして己の罪悪感を減じたところで、何の意味も無い。そもそも心の読めるこの少女を前にそんなものは端から無意味だ。


「本当にあなたは……正直な人ですね」


「お前に嘘をつくことの愚は理解しているつもりだ」


 無論、俺が悲観的なだけだとも考えたことはある。自身の精神の充足行為であっても、誰かの為になるのなら良いではないかと。


 だが、それならば最初から自分のためだと言い切れば良い。


「恋人になれて浮かれていた私が、馬鹿みたいじゃないですか……」


 しゃくりあげ始めたこの少女は、その最初の一歩を間違えている。


「……チッ」


 何度も考えたことのある不愉快なことを思い出させてくれた礼に、俺は振り返って服を着ていない少女の華奢な体をそっと抱きしめた。


 それが、少女に最大限の苦痛を与えると知っていながら。


「どうして、優しくするんですか?」


 余計な世話を焼きたいのなら好きなだけ焼けばいい。人の笑顔が見たいのなら葬式でだって人を笑わせ続ければいい。自分がそうしたいだけで相手の迷惑など考えていないと言い切って、好きなだけ偽善に興じればいい。


 そうやって里の衆を皆殺しにした、お前の妹のように。


「お前の泣き声は、笑顔以上に不愉快だ」


 この少女の涙を見たくないだけの、俺のように。


「……何なんですか、あなたは」


 俺の腕の中で、少女は怨嗟の声を上げた。


 そうだ。それでいい。己の行動に感謝が返ってくると期待する時点で、それは自分のための行為でしかないのだから。


「俺はただの、臆病な人間だ」


 俺のような腐れ外道を好いたこの妖怪は間違いなく不幸だ。


 では、この面倒な少女に好かれた俺は果たして不幸だろうか。


 即座に肯んずることのできない俺は、その時点で否と結論しているのだろう。


「残酷なほど、正直な人です……」


 俺は、どうしてしまったというのだ。

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