第42話:親愛

 それから俺がしたことは、風呂を沸かすことだった。


 一週間以上悪夢を見続けて多量の汗をかいた挙句、体を拭うことすらしていなかったのだ。全身の汚れを、洗い流したい気分だった。


「湯加減はどうだ?」


 ……で。


「丁度良いです」


 何故俺ではなく、少女が風呂に入っているのだろうか。


 それからしばらくして、俺は湯船に身を沈めていた。


 少し薪をくべすぎたか、湯の温度は些か熱い。とはいえ外に薪をくべる者もいないことだし、少しばかり長風呂していれば適度に冷めるだろう。


「……ふぅ」


 汚れを落とすように不愉快な記憶などもこうして湯で洗い流せれば、どれほど楽だろうか。記憶にこびりついた少女の微笑みを、洗い流してしまえれば、どれほど。


「如何でしたか?」


 風呂から上がった俺を迎えた少女は、頭に手をやってなにやら悪銭苦闘していた。


「いい湯だった。ところで、何をしている?」


 しきりに頭をなでつけているように見えるのだが、風呂上りに寝癖もなにもなかろう。


「髪を梳かすのが些か不便でして」


 なるほど。だがその程度、さしたる問題ではないのではなかろうか。


「放っておけばいいだろう」


 少なくとも俺は、風呂上りに髪を梳かしたことは無いのだが。


「これでも女の端くれです。身だしなみには気を使いますよ」


「そういうものか」


 何百年も生きているはずのこの老婆がまだ色気を語るとは、笑止。


「今、物凄く失礼なことを考えていませんでしたか?」


「否定はしないが、櫛ならあるぞ」


 足元に転がっていた、この家にあった事さえ知らなかった櫛を俺は拾い上げた。髪を梳かすには誂え向きの道具だ。髪を梳かすために誂えられた道具か。


「貸して頂けませんか?」


「俺が梳かそう」


 何故自分がそんなことを言ったのか、俺には分からなかった。


「私の髪を、ですか。どういう風の吹き回しですか?」


 少女の疑問も尤もだ。いつも通りの俺なら、櫛を投げて渡していた筈だ。


「……俺にも分からん」


 どういう風の吹き回しなのか自分でも分からないまま腰を下ろした俺に背を向けて、少女も腰を下ろした。


 俺はその頭に手を伸ばし、髪にそっと触れた。


「……っ!」


 直後、少女の体が震えた。


「痛いのか」


「いえ、あなたに優しく触れられたのは初めてでしたから」


 殴られている間は平然としていられるのにそっと触れられただけでそこまで反応するというこの妖怪の感性は、どうなっているのだろうか。


「他の人に髪を梳かしてもらうのは、気持ち良いものですね」


 すぐに慣れたのか、されるがままに背を預けてきたが。

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