第39話:立場

 翌朝、俺は久々に自力で朝食を用意した。


 思えば、ここ数日ものを口に入れた覚えがない。俺の精神状態は、衰弱しきらなければ空腹すら自覚できないほどの域に至っていたようだ。


「おはようございます」


 朝食が仕上がった頃に起き上がってきた少女が、久々に朝の挨拶を俺にかける。


 何故久々かということは、あまり考えたくない。


「……ああ……」


 ぼんやりと答えてから、以前に『ちゃんと返せ』と言われていたことを思い出す。


 といって、わざわざ言い直す気力も無いのだが。


「大丈夫ですか?」


 気遣う少女の顔、いや、全身に残る青痣がなんとも痛々しい。何より不愉快なのは、その全てが俺のつけた傷だということだ。


 俺はここ数日、少女を殴るか、一人で膝を抱えて震えているか以外には何もしていない。


 それでも懲りずに俺の隣で眠っている少女の姿に疑問を覚えたのも、今朝が初めてだ。それまでは、そこに少女がいるから当たり前のように殴り続けた。そうすることに何の疑問も抱かず、衝動に命じられるままに。


「分からん」


 今朝そうしなかったのはそれがある程度おさまったからなのか、単なる衰弱ゆえか、それはよく分からない。だが、少女を殴らずに済むならなんでも良かった。あの微笑みを見ずに済むなら、なんでも良かった。


 ……このまま、物を食わずに飢えて死ぬほうがいいのではなかろうか。


「あれは、あなたの性癖ではなかったのですか?」


 少女は俺の思考を読んだのか、心底不思議そうに首を傾げた。


 どれほど殴られても微笑んでいた背景には、そういう誤解があったのか。


「何処でそういう知識を仕入れて来るんだお前は……」


 だが、俺は残念ながら性的交渉の前に全力で女性を殴打するような特殊性癖は持ち合わせていない。……残念?


 とはいえ恋人だの妻だのを迎える気は一切なかったこともあって自身の性癖に関してなど考えたことすらなかったことを鑑みれば、或は特殊性癖の一つもあるのかも知れない。


「あのまま服を破かれ、力任せに組み敷かれるのかと密かに期待していた私の立場は?」


 目に涙を浮かべて尋ねてくる少女に対し、何故か俺は微塵も罪悪感を持たなかった。


 怒るところが、著しく間違っているからだろう。


 頼むから、殴ったことそのものを責めてくれ。


「いくら殴られても微笑んでいるお前に怯えていた俺の立場は?」


 殴りかかろうという衝動を抑えられなかった非は俺にある。然り乍ら、このような暴力すらも受け入れてみせると無言の内に宣誓しているようにも見えたあの微笑みのせいで、俺は数日悪夢にうなされ続けてきたのだ。


 俺自身の譫妄が原因であったことを鑑みれば少女のみを責めるわけにはいかないのだが、少女の微笑の理由を知ってしまうとよく分からない苛立ちが込み上げる。


「知りませんそんなもの」


 少女は不必要ほど頬を膨らませ、そっぽを向いた。


 まるで子供のようなこの少女が人の一生など比較にならない時間を生きる大妖怪だというのだから、外見とは当てにならないものである。


「なら俺も知らん」


 俺も少女から目を離し、朝食を摂ることにした。

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