第38話:絶望
悪夢から逃れた俺は、寒さに震えるように自分の体を抱いた。
「あれから……毎日これか……」
早鐘のような鼓動を抑えるために、深呼吸を繰り返す。
少女の告白を受け入れ、曲がりなりにも恋仲となってから数日、俺は、まともな生活が送れないほど不安定になっていた。
衝動的に少女に殴りかかったことが何度あったか、既に数え切れない。そしてその間、いくら殴られようが無抵抗のまま、少女は俺に微笑み続けた。
その微笑みを、俺は悪夢に見るほど恐れているらしい。
「大丈夫ですよ」
不意に俺の耳朶を打ったその声は、いつかの霧の妖怪のように後ろから抱きついてきた。
「あなたがくれるものなら、痛みすら愛おしい。ですから、負い目に感じる必要なんて無いんです」
耳元で囁かれるその優しい声こそが、俺に悪夢を鮮やかに思い出させる。いや、悪夢と現実の境界すら、曖昧にしていく。俺の見た悪夢が、まるで現実の再現であるかのように錯覚させてくる。
「これでは、拷問だ」
いや、拷問という言葉すら生ぬるい。
少女を受け入れ、愛するということは、これまでの俺の全てに対する全否定を意味する。
今までの俺を、一人で朽ちるための安寧の全てを破壊する行為は、自ら少しずつ体を切り刻むような周りくどい自殺にも等しい。
「残酷なことを言っているのは分かっています。でも、私にはあなたを頼るしかないんです。妹を救うためにも、もう二度と霧の厄災を繰り返さないためにも」
そのために貧乏籤を引かされたのが俺、か。
そうする理由など、何も無いというのに。
ならば何故抵抗しない? 何故この少女を殺さない? そうして、全てを忘れて逃げればいい。そうしない理由など無い。俺はこの場所に愛着もなければ、良心の呵責などに惑わされる偽善者でも無いはずだ。
「俺には無理だ……お前を……お前の妹を……」
愛するなど、この外道には不可能だ。無駄に苦しむだけだ。何故、あえて苦しむ? そうする理由など、何も無いというのに。
「何でもいいんです。愛が無理なら、憎悪でも。見てすらもらえないまま恐れられ拒絶された私達という存在と、向き合ってくれれば」
何故拒めない。何故この腕は凶刃を振るってくれない。何故この喉は呪詛を吐き出してくれない。何故この体は、俺にとって最大の敵を、排除しようとしないのだ?
「……その前に死ねる気がする」
かすれた声が訴えるのは、情けない弱音だけ。
ああ、そうか。
俺は、とうの昔に……この少女に屈していたのか。
「その時は、私を殺してください。あなたになら……」
少女の言葉に、折れた筈の心が敗北した喉を叱咤する。
「やめろぉぉっ!」
出せるはずのない声が、俺の臓腑のどこかから沸き出た。
殺されても構いません、などという言葉を、二度と聞きたくなかった。
何故か確信があった。俺が少女に凶刃を向けるとき、少女は悪夢そのままの微笑みを浮かべて、俺の殺意を受け止める。
あんなものに、俺の脆弱な精神が耐えられるはずはない。
「ご、ごめんなさい」
心を読んだのか、少女は急に声を荒げた俺を責めようともしなかった。
「何故、俺なんだ……」
ここ数日、何度口にしたか分からない問い。というより愚痴。
何故、よりにもよって同じ人間とすらまともに社会生活の出来ない俺なのだ。
「諦めてください。妖怪に取り憑かれた人間は不幸になるしかないんです」
少女は俺の背中に抱きついたまま、俺のようなことを言う。
「……全くだ」
反論の余地など、あるはずもなかった。
俺はもう、俺の望んだように死ぬことは出来ない。安らぎを与えてくれたこれまでの生ぬるい、今思えば諦観でしかない絶望とは異なり、その絶望は今すぐ叫びだしたくなるほどに俺を苛んだ。
それでも叫ばなかったのは、もはや叫ぶ気力すらなかったから、それだけだ。
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