第33話:秘策

 次の朝も、私が目を覚ました時に彼は隣にいなかった。


 それどころか、彼は家の中のどこにもいなかった。また里まで何かを調達しに向かったのだろうか。


 もう、耐えられない。


 眠れない夜を幾度も過ごした。


 胸が締め付けられるような痛みも、早鐘のような鼓動も、何度経験しただろう。


 でも彼は、相変わらずだ。


 苦しみ悶える私のことなど露知らず、彼は今でも『一人で』暮らしている。


 いつまで待ち続けても、彼が私を同居人として受け入れてくれることはないだろう。


 このままの、ただ同じ場所、同じ時間に居るだけの関係を続けることはもう、私には無理だった。


 だから私は、彼に恋文を出すことにした。


「紙と筆は……」


 手紙のやり取りをする相手などない彼が硯箱を所有していないことは、予想できた筈だった。彼の思考の中に文字は見えたので、読み書きはできると知っていたが、その道具を家に備えておく必要まではない。


 彼に恋文を書くつもりであった私にとって、それは致命的だった。


「……決心した矢先にこれなんですから……」


 だからといって、諦めるわけには……。


「何を決心したというのだ?」


「ひゃっ!?」


 いつの間にか、彼が帰ってきていた。


「……盗んで役に立つものがあるとは思えないのだが」


 奇声を上げて飛び上がった私が盗みでも働いていると思ったらしい。


「いえ、借りようと思っただけで盗もうとまでは。無断ではありますが」


「そうなのか。何を探していた?」


 当然の質問だろう。ここで『金目の物』などと答えるようでは借りるのは盗みと同義だ。


「硯箱と紙です」


「ここにはないな。里に下りれば……俺が居ないとすぐに動けなくなるのだったな。火急なら、取りに行って来るが」


 彼の答えは、予想通りのものだった。


「いえ、そこまでしていただかなくても……ふぇあ!?」


 私は、またも奇声を上げた。彼は今、取りに行ってくると言っていなかっただろうか?


「今度は何だ?」


 さも面倒くさそうに、彼は頭をかいた。


「あなたには何の利益も無いのにそんな提案をしていただけたのがあまりにも、その、意外でして」


「なんだ、お前の妹を確実に捕らえる秘策の類ではなかったのか」


 彼の心をよく見てみると、そこには悪鬼羅刹の形相で紙に梵字のような何かを書きなぐる私の姿があった。


 ……私をなんだと思っているのだ。


 いずれにせよ彼は、私が彼に恋文を出すつもりだなどとは露ほども思っていない。互いに、ただ近くに『在る』だけの路傍の石だと信じて疑っていない。


「あなたの心を私に向ける秘策と言ったら、あなたはどうします?」


 訊ねた声は、震えていたかもしれない。

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