第31話:理不尽
逃げるように足早に私の前を歩く彼の袖に、幾度手を伸ばしただろう。
これは、『袖引き小僧』の行動なのだろうか。
……違う。私はもう、自分が何者だったのか思い出している。過去の自分に向けられていた恐怖の意味も知っている。今更、他の妖怪の真似をする必要など、ない。
では何故、私は彼の袖に手を伸ばすのか。
「……何故、気付かなかったのでしょう」
私のことなど、鬱陶しく付きまとう面倒な奴としか思っていない人なのに。
自分さえよければいいという思考を隠そうともせず、邪魔をするなら排除することに一切の躊躇いなどなく、たまに向けてくれる優しさも自己満足の域を出ない人なのに。
そのことを、私以上に理解している人なのに。
最低で、だからこそ他の人と関わることを拒み、孤独が好きだと嘯きながら最低な自分が他の誰かを傷つけることを恐れている小心者なのに。
そこまで理解していながら、自分と接する誰かのために自分を高めようなどとはせず、孤独の静けさに安らぎを見出した卑屈な人なのに。
傍で何日も心を見続けてきた私がその心のあり方について罵詈雑言の類ばかりを思い浮かべるような、真性の屑なのに。
何故、汚物の塊のようなその魂が、こんなに愛おしいのだろう。
「……あなたは……」
どうして、そんな最低な人に、恋をしてしまったのだろう。
「俺が、どうかしたか?」
何かの拍子に音を立てた道端の小石に向けるような目で、彼は私を振り返る。
そんな目を向けないで。私を見て。私があなたを見るように、私の心を見て。
あなたに私を知って欲しい。私の全てを、読んで欲しい。
どうして私は心が読めて、あなたは心が読めないの?
私は、あなたにこの気持ちを知って欲しいのに。
……知って欲しい?
伝えて、どうするというのだろう。彼に私の痛みを思い知らせて、私の想いを理解させて、それから何をしたいのだろう。
彼が、それに応えてくれるとでも期待しているのだろうか。
「いえ……なんでも」
「そうか」
本当になんでもないなどとは、彼は微塵も信じていない。無駄だから『なんでもない筈はない』などと踏み込まないだけだ。むしろ、どうかしたのかなどと訊ねたこと自体、無駄なことをしたと悔いてすらいる。
暖簾に腕押し。糠に釘。
彼の心を自分に向けようという努力を言い表すなら、そうなる。
恋は薔薇色、とは誰が言った言葉だっただろう。……そんなもの、大嘘だ。
「……理不尽、です……」
この嘆きは、彼には届かないのだろう。
彼は、こんな面倒に首を突っ込む人ではない。
「理不尽でないことがどれほどあるというのだ」
ぼそりと言う彼の心は、明確な呆れを私に向けていた。
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