第30話:月光

 家に戻る途中、開けた場所で空を見上げた彼は、何かに魅入られたかのように足を止めた。


「あの、何か?」


 敵の気配でも感じたかと同じように上を見上げてみるが、月と星のほかには特に何も見えなかった。


「月が綺麗だ」


 どうやら、月に見入っていたらしい。


「はぁ……」


 もう一つの意味など、彼に期待できるわけも無い。本当に月に見入っているだけなのだろう。事実、彼は私のほうなど見ようともしていない。


「先に戻っていろ。俺は少しここで月を眺めてから帰る」


 予想通りだ。ここで一緒に月を眺めようとでも言ってくれれば淡い期待を抱くことも出来たのに、言うに事欠いて先に帰れとは。


「ご一緒します」


 私は、何をむきになっているのだろう。


「好きにしろ」


 彼は私と何を張り合うわけでもなく、ただ自分が月を見たいからこの場に留まっているだけだというのに。


「……はい。好きにします」


 私は、彼に体重を預けるように寄り添った。


「……」


 彼の考えることは、それこそ手に取るように分かる。


「『好きにしろとはそういう意味ではないがそう解釈し得ることも事実。ゆえに抗議は諦めよう』ですか。あなたらしいですね」


 あえて彼の思考を声に出してからかってみたのだが、彼は少しばかり険しくなった目で月を睨みすえているばかり。『鬱陶しいから無視する』と無言の内に宣言する、そのこと自体が既に私を無視していないことに気付いていない彼の心が少し可愛い。


 が、すぐに彼の心は黙り込んでしまった。


 彼の思考は、ごく表層に浮かぶ、口に出す寸前の思考以外非常に読みにくい。かつて読んできた心の多くと異なり、思考が言葉に『翻訳』されていないのだ。


 例えば、信徒達の私への恐怖も、『見透かされている気がする』『破滅をもたらす何かがいる気がする』など、何かしら恐怖の理由は言葉になっていた。


 しかし彼の心は今、目の前にある月の美を、ただ魂の震えとして味わっている。『白』、『丸』、『光』、そんな断片的な記号すらなく、『美しい』などという感想さえ言葉にすることなく、ただ、その美に見入っている。


 他者と関わってこなかった彼は、その内心に言葉という『やり取りの道具』を介在させていない。だから、彼の思考は読みづらい。


 言い方を変えれば、彼の心は他者との関わりを前提としない構造になっているのだ。


 ……それは、私にとっては寂しいことだった。


 私に何かを伝えようとするときは、確かに彼は言葉で考えてくれる。何かを推察しようとする時には、論理を扱うに適した言葉を使って考えている。でも、彼の幸せは、心の中に言葉のない、今のような時間なのだ。


 私では、ないのだ。


 同じ時間、同じ場所にいながら、彼の心に私の居場所はない。


「月は見ないのか?」


 私の視線が月ではなく自分に向いていることに気付いた彼が目だけを此方に一度向けた。どうやら私がここに留まったのも月を見るためだと誤解しているらしい。


「私が見たいのは、月を見ているあなたの顔です」


 月を見上げる彼の横顔は絶望と羨望に彩られて、この胸が甘く締め上げられるほどに美しかった。


「……気色悪い」


 興が削がれたといわんばかりに、彼は足早に歩き出してしまった。

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