第29話:偏愛
あれから老爺に散々若い恋人のようで初々しいとからかわれ、寺を後にしたのは既に日の落ちた後だった。
「薬屋を頼む」
彼は山門を出たとき、振り向くことなく足すら止めずにそれだけを口にした。
「任された。お嬢さんと仲良くな」
失礼極まりないという次元を超えた無礼にも思えるが、和尚は別に気にしていないようなので私も気にしないことにする。
彼の心はどちらかといえば妖怪と恋仲扱いされたことへの苛立ちで満ちていたが、何故かそれを思うと私は奇妙な不快感を覚えてしまう。
山道を下りながら、少しだけその理由を考えてみた。でも、無駄なのですぐにやめた。
私は考えることより、彼の声を聞くことのほうが好きだ。
「私のことは、忘れられて久しいのですね」
私が彼の心を読んだ限りでは、それは遠い昔の物語として、概要が辛うじて残っている程度のものだった。霧の神を信奉していた宗教も、彼らの推論でしかなく、忘れ去られていると言っていい。
「人間の寿命も記憶も、お前のそれほど永くはない。生きている間にも人は忘れ続けなければならない。だから、何もかも廃れ、失われていく」
彼は特に隠すこともなく考えたことをそのまま話した。隠すだけ無駄などと考えることもない。隠す必要がないことだとさえ考えていない。
今に限った話ではないが、彼は人と関わる機会がほとんど無かった所為か、隠し事が苦手どころかそもそも隠そうという発想が欠如している。それゆえに、時々その言葉は辛辣だ。
「でも、私はここにいます」
隠し事をする相手さえいない、どこまでも穏やかな孤独を宿すその心に幾許かの寂寞を読み取った私は、そっと彼の手を握った。
或は、それはただ私自身の寂しさを埋めるための行為だったのかもしれない。
「それも今だけのことだ」
明確な嫌悪感を押し殺しつつ、彼は私の手を振り払った。
「……え?」
私は、自分の認識を疑った。
彼が、嫌悪感を『押し殺した』? 何故?
「俺はお前が嫌いだ。バケモノのくせに俺よりよほど人間らしいお前が嫌いだ。俺がどれほど人でなしなのか突きつけてくる、お前が嫌いだ」
己の嫌悪を叩きつけるのではなく、その言葉によって私が愛想を尽かすことを祈りながら、彼は嫌いだと繰り返した。
「でも、私は嫌いじゃないですよ」
私は、そんな彼に対してよく分からない感情を抱き始めていた。
いや、私は既に、その正体を理解していたのかも知れない。
振り払われた手でもう一度彼の手を掴むと、彼は足を止めた。
「バケモノの私より人間らしくないあなたのこと……嫌いじゃ、ないです」
恐怖はある。妹に冷徹な殺意を向けたときも、妹の愛を踏みにじったときも、彼の心は今となんら変わらない、誰のためでも無い彼自身の安息を望んでいた。
そこまで冷酷になれるほど自己中心的なら、何故私を殺さないのだろう。正直なところ、彼が殺意を抱く基準が全く分からない。
彼の中にある不快感は妹に対するものより今の私に向いているものの方が大きい。今すぐあの透徹した殺意で射抜かれ、この首を刎ねられても不思議ではないくらいなのに、何故か彼は、私から目を背けるだけだ。
「お前のそういうところが、俺は嫌いだ」
彼が苦しげに吐き捨てたのは、紛れも無い彼の本音だ。
自分に好意的な相手を、彼は蛇蝎の如く嫌う。妹の人間全体に対する愛も、私の信頼も、彼にとっては不愉快極まりない感情だ。まるで父親か祖父のように彼を見守る先刻の老爺も、例外ではない。
「悲しいです。あなたから、嫌われるのは」
その中に私が含まれているというのは、なんだか無性に悲しかった。
「諦めろ。俺はとうに諦めた」
「どういうことですか?」
彼が何を諦めたのか、私にはまるで分からなかった。いや、正しくは『好かれること』『好きになること』のどちらを諦めたのか、その言葉からは判別出来なかった。
「俺はどれほど努力してみても、両親を憎み軽蔑することしか出来なかった。俺は、誰にも好意的な感情を抱くことが出来なかった」
彼の答えは、まるで私の心を読んだかのように的確だった。
そして、両親を憎んだ理由も、少なくとも心の内には答えてくれた。
「なんだか、あなたらしいです」
偽善。欺瞞。普通の人間なら考えずにやり過ごすだけの、ほんの僅かな腐臭。
彼は、その臭いに敏感で、その臭いが大嫌いだった。善行が孕む自己陶酔の歪な充足、つまり自慰行為の側面を、彼は心の底から憎み、それゆえに、あらゆる善人を憎んだ。
「己が外道であることを隠してきたつもりも無い」
偽善を憎む彼に対して『善人(すなわち偽善者)となる』ことを、よりによって『父さんが(母さんが)恥をかく』という自己中心的な表現によって強い続けてきた両親という偽善者達に対しては、その干渉量、そして方法ゆえに憎悪も一入であった。
「あなたは、少なくともそれを理解している。それではいけませんか?」
道徳など所詮理想。多くの道徳的な人間の行動も、気分次第でしか善行を積まないくせに口先では『常にそうあるべし』と他者に言ってはばからないものだ。
「開き直るわけにはいかない」
彼は、そこに自らを落とすことを良しとしなかった。いや、落ちようという、楽になろうという意志すら己の醜悪さ、開き直りとして拒んだ。ならば。
「そう、かもしれませんね。でも……」
自分にも他人にも平等に、或は自分にはさらに厳しい彼から、自分にはどこか甘い大半の人間が醜悪に映るというのは、至極当然の心の動きではないのか。
その考え方が生まれつきなら、確かに人を好きになることはできない。そういう感情を育むことが出来ない。そういった機能の欠落した心は確かに、人として不完全なのかも知れない。それでも。
「でも、あなたが悪いとは、私には思えません」
少なくとも、私に彼を悪と断ずる資格はない。
「善悪など考えるな。あるのは互いの都合だけだ」
私に掴まれるままになっていた手を、彼はいつもより乱暴に振り払った。慰めを受け入れることも、どうやら彼にとっては一種の開き直りであるらしい。
「さっき私に『お前は悪くない』って言ってくれた人が言うと説得力がありませんね」
「あれは自戒だと言ったはずだ」
言いながら、彼は目を逸らした。何故私を慰めるようなことを言ってしまったのか、自分でもよく分かっていないらしい。
私は、もう一度彼の手を握った。
「そういうことにしておきます」
彼が『人の手を握りたがる妖怪』の類は存在しただろうかなどと考えているのが、少しだけ腹立たしかった。
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