第26話:希求

 無我夢中で逃げ続ける最中、私はあることを忘れていた。


「……んぁっ……」


 呼吸が荒くなるのは、走っているということだけが原因ではない。


「く……ふぅ……」


 疼く。全身が、甘く、切なく。


 すぐに走り続けることが苦痛になり、歩くことすらままならなくなった。


 足を止め、私は近くの建物に背を預けて座り込む。


「……霧のことを……忘れていました……」


 彼の近くにいないと、霧のせいで理性を削るほどの欲求に苛まれるのだ。彼から逃げてきた以上、私はもう、長くないだろう。


 妖怪であるからか食欲や睡眠欲はさほどでもないのだが、もう一つの欲求が、異常なほど込み上げる。狂おしいほどの情欲が、私の肉体を苛む。


 彼に、会いたい。


 彼の声が聞きたい。


 彼の腕に抱かれたい。


 彼の熱を感じたい。


 彼の……。


「おかしい……」


 今の今まで恐れ慄いていた相手を求めてしまうこともそうだが、以前霧に飲まれたときには特定の誰かを欲するということはなかった。ただひたすらに体が疼き、誰でもいいから鎮めて欲しいと思っていたはずだ。


 あの時の私が彼に出会えたのは、天文学的に運がよかったというだけのことなのだろう。


 だが、今の私は……。


「はぁ……はぁ……」


 優しくしてください。


 お願い……私を……。


「愛して……ください……」


 私は、何を言っているのだろう。


 愛なんて、妖怪が知るものではないのに。


 答えてくれる人は、ここにはいないというのに。


「断る」


 ……いた。


 躊躇なく容赦なく否定を返す人が、私が背を預けた建物から出てきた。


「何故、あなたがここに?」


「ここは酒屋だ。薬屋の主人は酒好きだったからな」


 そう答えた人物――私が求めていた『彼』は、酒樽に溺れていたのであろう男の溺死体を背負っていた。


 亡骸を捜して墓を作る、という自身の言葉を、彼は守るつもりであったらしい。


「あなたは……」


「俺はこの程度で償ったつもりになる外道だ」


 この程度、なのだろうか。普通の人間なら触れることも厭う溺死体を親身になって背負い、どこか静かな場所に埋めようというその行為が『この程度』と評されるものなのだろうか。


「……俺に愛だの情だの期待するな。するだけ無駄だ」


 遺体を背負ったまま、彼は私に背を向けた。


「埋葬は、どちらに?」


 不思議なくらい、簡単に立ち上がれた。彼が近くにいるから霧の影響が薄れたのか、私が彼を欲しているからなのか、自分ではもう分からない。


 彼の背中を見送るのは嫌だと思ったときには、私は立ち上がっていた。


「山の上に寺がある。まだ霧はそこまで広がっていないはずだ」


 問えば答えてくれることに、私は安堵した。まだ、彼は私を受け入れてくれている。少なくとも、形の上では。


「ついていっても、いいですか?」


 少しばかり、私の声は震えていた。問えば拒絶されると分かっている筈なのに、どこかで彼が受け入れてくれることを期待してしまう。そして、その期待が不安を煽る。


 ……本当に、私はどうしてしまったのだろうか。


「最初から勝手に付きまとっておいて、よく言う」


 相も変わらず、彼の答えは一刀両断だった。返す言葉もない。


 でも。


「では、勝手についていきます」


 まだ彼の隣にいられることに、私は言い知れぬ安堵を覚えた。

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