第21話:疫病神
人里に下りた私達は、妹がいると思しき、霧の最も濃い場所に足を踏み入れるなり足を止めざるを得ない状況に追い込まれた。
普通の人間なら、取り乱していてもおかしくない状況だ。
「……さて、また人里まで下りてきたわけだが」
昼飯をどの店で食べようか、という言葉が続いてもおかしくない気安さで、彼は私と顔を見合わせた。私を恐れずにいてくれたように、彼はこんな状況でも『面倒』以上には動じていないらしい。
「私は疫病神でもあるようですね」
屍食鬼と化した人間が、いささか距離があるとはいえ3人ほど此方に視線を向けているという状況にあってその余裕は不思議な頼もしさがあった。
「疫病神か……それは妖怪なのか?」
彼にとっては疫病神であるはずの私に気遣ったわけではなかろうが、そんなとぼけたことを彼は言う。
昨日屍食鬼と戦い倒しはしたものの、一人で三人を相手取るには荷が勝ち過ぎる相手だということは私以上に痛感しているはずの彼が、ここまで余裕でいる。
「……気にしている場合ですか」
おかげで、私も随分と気分が軽くなった。
屍食鬼が此方に食欲に満ちた視線を向けつつじりじりと近寄ってくるという現状で、気分が多少変わったところでどうなるものでも無いが。
「冗談はさておき、悪いがもう一度刀を貸してもらおう……ん?」
私に妖刀を要求する彼の手には、既に妖刀が握られていた。どうやら、妖刀はまだ彼を仕手だと思っているらしい。一度私に返された後も妖刀が仕手と認め続けた人間も、彼が初めてではなかろうか。
「妖刀も、あなたを気に入っているようです」
物言わぬ妖刀に代って微笑みかけると、彼は小さく頷いた。
「なら、まだしばらく借りておく」
あくまで彼の中では、妖刀の正当な所有者は私ということになっているらしい。著しく間違っているわけではないが、正確な認識ではない。
既に妖刀は、彼を選んでいるのだから。
「しかし、あなたはまだ左手が……」
いかに妖刀に仕手として選ばれ、技の意味では十分な域に達している彼とはいえ、その筋力は剣士としてはいささか不足。左手を負傷している今、残った片腕で剣を振るうには、まだ彼は貧弱すぎる。
「ああ。その上、昨日より数が多い」
腕が使えないことの意味はもちろん、数の不利も彼は承知している。それなのに何故、彼は笑っているのだろうか。状況を理解していない筈はない。理解したうえで恐れていないのか、それとも、その恐怖そのものを、彼は楽しんでいるのだろうか。
「追い討ちか気休めか分かりませんが、私があなたの家に辿り着いた段階で、まともな生活に復帰できる見込みのある人間などいませんでしたよ」
普通の人間にとっては残酷な事実を、今まであえて隠していたことを、告げてみる。
「里の生き残りは全て敵か。酷い追い討ちだな」
言葉とは裏腹に、彼は心底楽しそうに、どこまでも邪悪に、嗤った。
やはり、彼は人を救うなどということは考えていない。それどころか、敵が増えたという状況の悪化を喜んですらいる。
「それで、どうします? この状況」
訊ねておいてなんだが、彼の答えは大体予想ができる。
「文字通り、切り抜けるしかあるまい」
根本的に無計画にして徹底的に前向き。しかしてそこにあるのは、諦めない強さでもなければ力強い希望でもない。
「無理です」
「ならばその無理を通す」
有無を言わさぬ声に、私はひとつのことを確信する。彼は、この危機的状況に愉悦を感じている。
まさか孤独以外にも彼が愉悦を感じるものがあるとは思っていなかった。そして彼は、自分の愉しみを邪魔されることを嫌う。
文字通り自制を『知らない』彼の前に、道理など一切の力を持たない。人として歪な在り方であると自覚してなお隠遁を続けていたように、彼は底無しに自分勝手だ。
しかし、今は彼の思うまま、愉悦に任せて戦ってもらっては困る。
「あなたに万一のことがあれば、私は霧から逃げることしか出来なくなります。軽々しく命を博打に乗せないでください」
ではどうする。私自身を囮に彼を逃がすことはできる。しかしその先にあるのは、私は霧に飲まれ、邪魔がなくなった彼が妹を斬殺するという、考えたくも無い未来だ。
さらに悪いことに、彼は呆れるほどに諦めが早い。怒りすらも無意味を理由に一瞬で諦める彼が、この状況で諦めずに『考える』などという徒労を選ぶ筈がない。
一刻も早く対案を出さなければ。そう思うほど、私の頭は空回りする。
「刀から出せる炎が俺の身の丈の倍ほどもあれば、寄られる前に焼ける気もするが」
彼の呟きは、現状を打開するには十分だった。
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