苦衷編

第16話:妖異

 はじめはただ、利用するだけのつもりだった。


 私にとって必要なのは、霧を無力化できる彼の体質であり、体さえ手に入ればそれでよかった。


 騙してあの刀を渡し、妖刀を介して支配する。慣れていることの筈だった。


 私が守り神と呼ばれていた頃も、私が何かを守りたいという人間に与える力は常にあの妖刀だった。妖刀と仕手の結末は二つ。


 仕手が同化した妖刀に支配され、妖刀が引き出した殺意のまま辻斬りと化すか、同化される前に仕手が妖刀から逃げるか。


 場合によっては、仕手を支配した妖刀を私が操ることで、既に理性を失った仕手を仕手の守りたいものの為に戦わせたこともあった。せめてもの慈悲、というものだ。


 それなのに、彼は……。


 妖刀との同化が完成したのは恐らく今朝。間違いなく彼は激情に飲み込まれ、殺意に任せて飛び出していった。しかし何をきっかけにしてか、彼は妖刀の支配を自力で解いた。


「どうして……」


 一度は妖刀と同化しながら自我を保ち、しかし妖刀を拒むことはしない。妖刀と同化して戦いに快楽を覚えるわけでもなければ、妖刀を拒んで戦いそのものを厭うわけでもない。これまで見届けてきたどの妖刀の仕手とも、彼の精神はまるで違う。


 その異常さは、数日接しただけでも嫌というほど理解できた。


「あなたは……」


 彼は私を妖怪としてではなく、一人の女として見ている。いや、女という括りすら細分化しすぎだ。関わると面倒で鬱陶しい、ただ一個の『他者』として、私以外の何者とも区別差別なく、全く同じように拒絶している。


 だから、屍食鬼と化したあの女性を切り刻み、焼き尽くすことにも全く躊躇いはなかった。己に害を為す他者を排除することに、彼は一切躊躇しない。


 ならば何故、彼は私を殺さなかったのだろう。彼の心は、私もあの女性も、等しく排除すべきだと認識していた。


 彼は、妖刀を無造作に私の横に置いて家に戻っただけだ。


 それなのに、彼は一人で妹を探せと言った。


 それが、彼の答えだ。それで十分に私を排除できるのだ。


「酷い人です……」


 彼は、この里を離れるつもりなのだろう。彼なしではまた霧に狂わされるだけの私を置いて。もしかしたら殺すより残酷かも知れないことを、彼は平然と行うつもりでいる。


 私を恐れずにいてくれた代わりに、彼は私のことをなんとも思っていない。


 彼の中に、私の居場所などない。


 心が読めるせいで、それが嫌と言うほど分かる。


 私は彼に縋るしかないのに、彼に私は必要ではないのだ。


 ようやく落ち着いた私が家に忍び込むと、彼は気持ちよさそうに眠っていた。


 さっき人を殺したとは思えないほどいつも通りの、いや、私の見たことのないほどに安らかな寝顔だ。


「本当に……酷い人」


 彼にとっては先ほどの殺害も私への拒絶も、不必要に干渉してくる他者を二つ排除した、ただそれだけなのだ。他者の干渉を打ち砕き見る夢は、私の目には底のない絶望としか映らなかった。彼の寝顔は、こんなにも幸せそうだというのに。


「違う……」


 私は彼の心を覗き込んだまま、首を横に振った。


 この底なしの絶望だけが、彼の安らぎなのだ。希望を持てば、何かを求めれば、心を乱さずにはいられない。だから彼は、安らかな絶望に眠ることを選んだ。


 絶望に浸る快楽を邪魔するあらゆる者を拒み、自らの周りに光を灯す者に憧憬しながらもその光を厭い、闇の安らぎに身を委ねることを、選んだ。


「可哀相な人……」


 穏やかな寝顔に、そっと口付ける。その瞬間、私の胸に理解できない温かさがしっとりと広がっていく。人は、この感覚を幸せというのだろうか。


 ……幸せ?


 私は、狂っているのだろうか。妖怪が幸福などを感ずるはずがないというのに。そもそも、何故彼の頬に口付けることに、私はこうまでも幸福を感じている?


「……あなたには、分からないのでしょうね……」


 布団に潜り込み、彼のぬくもりに包まれながら、その頬をそっと撫でる。彼の言う『妖怪頬撫で』の行動なのか、私自身の意思なのか、よく分からない。


 私が何の妖怪だったのかさえ思い出せない、曖昧な妖怪だからだろうか。


 いや、そんなものは、自分の性質すら忘れているような私は、既に妖怪ですらない。


 ならば、私は何なのだ?


 人間……であるはずはない。妖怪でも、人間でもないなら、私は……。


「ねえ、私は何? 妖怪さとり? 妖怪舐め女? それとも……」


 狂おしい幸福感と恐怖の中で、舌を彼の首筋に這わせ、温もりの中で私は震えた。


 これは、何? 狂気? それとも霧の所為?


 とにかく、何かに縋りたかった。


 自分の感情を全く理解できないまま、私は彼の腕に抱きついた。


「まだ、俺を解放してくれないのか……お前は」


「……ひぅっ!?」


 いつもは聞くだけで落ち着く彼の声が、この時だけは私の心臓を跳ね上がらせた。


「起きて、いたのですか?」


「寝ている最中に首を舐められれば、誰でも気持ち悪さに目が覚めると思うのだが」


 彼の不愉快そうな横顔に、つい私は見入ってしまう。


「済みません……」


「もういい。寝るぞ」


 彼は、私に布団をかけて目を閉じた。

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