第10話:憤怒
「ここだよ、人間のお兄ちゃん」
その声は、息がかかるほど近い、真後ろから聞こえてきた。
「!?」
咄嗟に、振り返りながら刀を抜き放つ。
手応えはない。逃げられたらしい。
「お兄ちゃんは、楽しくない?」
「……ッ!」
その声は、耳元から聞こえてきた。重さを感じないまま、背中から抱きつかれたような気分だ。
俺の家に居候している少女からは想像もつかない、立派な妖怪ぶりだった。
あの少女と同列に考えるべきでは、なかったらしい。
「お前か、この霧の原因は」
この腹に刀を突き立て、背中から伸びた刃で刺し殺すことはできるだろうか。
可能性はあるかも知れないが、それでは俺の望む平穏は俺以外にしか訪れない。
里を救うためなどという理由ならいざ知らず、俺はあくまであの少女から解放され、元の暮らしに戻るためにここにいる。
捨て身で得る決着など俺にとっては単なる敗北。その手は絶対に使うわけにはいかない。そうするくらいなら、俺は着の身着のままこの里を捨てて逃げることを選ぶ。
いや、俺は最初からそうしておくべきだったのではなかろうか?
あの少女に、目をつけられてしまう前に。
「楽しくないの? どうして? この霧は、楽しくなれる、幸せになれる霧なのに」
居候の少女さながらに俺の敵意を読み取ったか、背中の声は悲しげに呟いた。
「ならば何故、大昔にお前は封印された?」
幸せになれる霧、か。その結果がこれだ、幸せのなんと醜きことか。
「それは……」
そも、幸福とはなんだ。絶対に手に入らない幻想。そう答えるのでは不足か。そう答える俺は壊れているのか。あの醜い、ただ快楽を貪る地獄の宴が幸福のあるべき姿か。
否。俺もまた人間だ。そしていかな酒好きも、酒樽の中で溺死したいなどとは思うまい。
「分かっているはずだ。お前の与える幸せは、あらゆる人間にとっての幸せではない」
だから、霧の妖怪は封印されたのだ。
「そんなことない! みんなの心が私には分かるもの!」
確かに快楽を貪り、宴に興じる間は楽しかろう。だが、そのすぐ後に破滅が手薬煉引いて待っている。それを知っているから、人は快楽を求めながらも自制する。そうせざるを得ないからそうする。それを、この妖怪は破壊した。
それがどれほど破壊的な所業なのかを理解せぬままに、人の自制を壊し、良かれと思って多くの人間を快楽に溺死させたわけだ。
成程、『愛し方を間違えた』という少女の表現は的を射ている。
「心が読めるなら分かるはずだ。ここに一匹、お前の与えた幸せを拒んだ人間がいる」
欺瞞に満ちた享楽に溺れることなど、子供の時から拒んでいる。今更それを与えられたところで、俺が受け入れる理由は微塵も無い。
少しばかり目端の利く子供だった。人が幸せと呼ぶものに腐臭を嗅ぎつける嗅覚を有していた。俺が狂わなかった理由など、所詮その程度でしかないのだろう。
俺の求めるものは、隠遁の中に全てあった。霧があろうとなかろうと関係ない。
俺はただ、多くの人間と、好み欲するものが違うだけだ。俺は人間をやめたわけでも、人間を超越したわけでも無い。ただの、臆病で偏屈な人間だ。
「違う。お兄ちゃんの心は……」
だが、見せ付けられる。突きつけられる。人間からも、そして、妖怪からも。俺が自分で思っているほど、普通まともではないということを。
……欲するものが根本的に違うということは、そもそも精神のあり方として別種の生物なのだと、突きつけられる。
「まともな人間のものではない、か?」
言われる前にこちらから言った俺の声は、少しばかり震えていた。
「どうして分かるの? お兄ちゃんに他の人の心は読めないのに、どうして他の人の心が自分と違うって分かるの?」
驚いたように、背中の声は肯定した。
「嫌でも分かる。吐き気がするほど見せ付けられる」
俺は人間だというのに、人間であり続けたいというのに、誰もが俺を人でなしと言う。思うに善とはなんだ。人の条件とはなんだ。考えれば考えるほど、そこに潜む腐臭を嗅いでしまう。所詮善行など、己の精神の充足、つまりは自慰行為ではないか。
恐らく、善や人の条件について考えることなど、普通の善良な人間にはほとんどないのだろう。そんなもの考えずとも分かるというわけだ。だから、考えずにはいられない俺は人でなし。全くもって、何故俺は……こうも余計なことばかり考えるのだ。
「お兄ちゃんも、受け入れてよ。余計なことを考えずに、ただ幸せに……」
誘惑するように、妖怪は俺の耳元で甘く囁く。が、俺には通じない。
この妖怪の言っていることは、こうだ。自分が相手の為にしたことを相手が喜ばないはずがない。相手が喜ばないのは、素直に受け入れない相手が悪い。
善意の押し売り、という表現が一番近いだろうか。俺の大嫌いな、果てしなく人間らしい行動だ。……吐き気がする。
「お前が俺を幸福にすることなど……不可能だ」
狂った善意など欲しくも無い。ありがた迷惑はどう取り繕っても迷惑なのだ。形式だけでもありがたがらねばならないだけ余計に迷惑だ。善人は、必ずと言っていいほどそれに気付かない。
この妖怪は、俺の大嫌いな、『善人』だ。
「どうして?」
寂しげに訊ねる妖怪に、俺は情動のままに吐き捨てた。
「お前のような奴を見ていると、吐き気がする」
沸き上がるこの理不尽な感情は、恐らく怒り。これから自分のやろうとしていることがどれほど愚かなことか、理解はしている。
だが、不思議とやめる気にはなれなかった。望む平穏を犠牲にしてでも、今俺の背中に張り付いている醜悪な偽善の権化を破壊したい。その衝動が、俺を駆り立てていた。
だから。
「俺と一緒に、地獄へ逝こう」
俺は、自分の腹に刀を突き立てた。
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