ふわふわのはんぺん

@boko

ふわふわのはんぺん

だくだくと負の感情が湧き上がってくる。

恨み辛み、呪いの言葉達。疑問と困惑。

2年間付き合っていた彼氏が浮気をしていた。

謝ってきたけれど、土下座をしてきたけれど、それだけで許そうと心が揺らいでいた自分が嫌になった。

許しても胸のモヤモヤは取れず、私が我慢をしないといけない。

許しても私だけが苦しんで彼は許されたと安心するだけ。

「1人にして」と言って自宅に戻ってきたけれど色々な感情が湧き上がって涙が止まらない。

とめどなく流れる涙と感情が体から溢れ出てくるので私は布団で横になり暫く泣いてから寝た。


始まりはスマートフォンのバイブレーションと共に表示された見知らぬ女の情事の誘い。それを見たとき私は困惑した、というよりそこに書いてある事が信じられなかった。

信じたくなかった。私に見せてくれた緩んだ笑顔も、私を気遣ってくれた言葉も、愛してくれた時の優しさも、今までの全てが嘘に思えてしまうから。

丁度お風呂から出てきた彼が私の方に近づいてきて後ろから抱きしめてきた。

数秒前までは心地良い事だったけれど、後ろに居る彼は別の何かに見えてしまってどうしようもなく不快だ。

これが私の勘違いなら良いのだけれど現実はそんなに優しくない。

先程のスマホの画面の事を聞くと彼は動きを止め、体を僅かに震わせながらそっと絡ませてきた腕を解いて何かを床に当てるような音がした。

この時の私はどれくらい後ろを見ることがどれほど怖かったのかわかるだろうか?

後ろをみたら彼が認めているとわかってしまう。

見たくないという心の叫びと、もしかしたら私の勘違いなのではという少しの希望が心の中で混じりながらゆっくりと後ろを向いた。

時間にして換算すると数秒の出来事だったのかもしれないけれど私にとっては数時間の様に感じられた。

床に密着している頭を見て私が感じた事はそんな姿を見たくなかったという感情。そしてどうして浮気をしたのかという憤怒。先程まで愛した人だったのに同じ様には見えなくなっていた。

そこにいるのは彼の形をした別人なのだ、彼ではなく彼は、彼との思い出も全てが嘘ではないのに苦しい思い出にしか感じられなくなっていった。

「ごめん‥。」そこから先の事は思い出したくもない。

くだらない言い訳、言い訳、言い訳。表情言葉全てで反省の意を示しているけれどそんな事で私は許せるほど人間が出来ていないし何も聞きたくもない。

「1人にして‥」と言い彼の家を出ていき家に帰った。


目を覚ますと目の下が乾燥していることにまず気がついた。

そうだ、浮気をされたんだっけ。

思い出すととめどなく負の感情が湧き出てきて、涙がポロポロと溢れる。

全ての思い出が彼と一緒に作られて、全て彼に壊された。

あぁ‥。私が悪いのかな‥。

そんな事を思いながら涙を腕で拭うけれどとめどなく流れてくる。

「キュッ‥。」近くで何か音がしたので驚いた私は涙を拭い音のした方を見た。

他人に惨めな姿を見られたくないという大人のプライドが私の涙を止めた為、その姿を認識出来たがそれがあまりにも不思議なもので自分の目で見えているものが正しいものなのであろうかと疑問に思った。

言うならば「ふわふわしたおでんのはんぺん」。正方形の平らなはんぺんではなくまん丸のはんぺん。それを小型犬程の大きさにしたやつがそこに居るのである。

一瞬脳が真っ白になる。そもそも目の前のこれはなんなのであろう?本当にそこに存在している?

目を丸くした私は思わずそれをじっと見ながら数秒間固まると、左人差し指を伸ばしてそれにゆっくりと触れた。

フニフニというよりフワフワ。食パンの白い部分よりフワフワとしている。

私の指が体に触れたからなのかはわからないが、はんぺんは動きを止めた。

何度も突いてみると体が触れた衝撃によってプルプルと揺れる。

プルプルと震える光景を見て私はなんとも言えない衝動に襲われる。だが、その衝動を抑え右手を「それ」の頭頂部にポンと当てて撫で始める。

モニュモニュと柔らかい感覚が右手を包んでくる。

はんぺんは、じっと固まったままだったが、暫く経つとその丸い体の頭頂部からナメクジの様な触手を二つ出し、それを私の右手に当てた。

「味覚」

味覚が満たされる。脳に直接味が送り込まれてくる感覚。苦くて甘くてそして悲しい。感情が味となって脳に伝わってくる。

「美味しい。」

これが私の感情の味だと言うことはなぜかわかった。

このはんぺんが私の様々な感情を読み取って味として伝達してくれているのだ。

美味しい。今まで食べた食事のどんなものよりも美味しい。お母さんの味噌汁よりも、奮発して行ったフランス料理店の高い料理より、今まで食べていたものの価値が全てひっくり返る味。

こんな素晴らしい味を味わえたのだから、彼の浮気なんてどうでもいいと思ってしまうほどの美味しさ。

それほどの美味、全ての出来事がどうでも良くなるほどの味。

私の一生なんて物がどうでも良いと思ってしまう味。

現在進行形でどうでも良いと思ってしまう。

この味をもう一度味わえるのならどんな事でもする。

素晴らしい、人生で一番素晴らしい事だ。

この数秒間の出来事が私の生きていた意味であり今後生きるための活力なのだ。

「ねぇ‥?」私の言葉にはんぺんは反応して右手にくっつけていた触手を引っ込める。

「これって他人の感情の味も味わえるの?」私の質問に対して答えるように「それ」は体を左右に揺らした。

どっちなのだろう?

わからないけれどとにかく行動を起こせば良いのだろうか?

あいつの所にとりあえず行ってみよう。あいつの感情の味を知りたい。

私はスマートフォンを持ってあいつに電話をする。

プルルル、プルルルと呑気な着信音を聞きながら苛立ちを少し感じていた。

数回の着信音の後電話越しから声が聞こえてきた。

「‥もしもし。」バツの悪そうな話し方。声色が懺悔の念を示しているが今の私にとってそんな事はどうでも良い。

「今からそっちに行くから。」そう、どうでも良いのだ。今は彼の感情の味を確かめたい。それしか考えられないのだから。

「えっ‥?」返答を聞く前に通話を切った私は正体もわかっていない「それ」を抱えると、キャリーバッグの中に押し込み、先程まで居た彼の家に向かった。

歩きながら彼女は自分が先程まで抱いていた負の感情が消え失せていることに気がついたが、その事に疑問を抱かずに歩く速度を早めた。


そして彼の住んでいるアパートの前に私は到着した。

彼の浮気なんてもうどうでも良い。とにかくあれを味わいたい。

あの濃密で脳に響き渡る快感に似た素晴らしい味。あの感覚を味わいたいという気持ちが私を動かしている。

インターホンを押して数秒後、扉が開き申し訳無さそうな表情をしている男が顔を出した。

「入れてもらうから。」彼の返答など無視をして部屋の中に入る。

呆然と立ち尽くしている彼の事など放っておき、靴を脱ぎ、キャリーバッグを持ち上げ部屋の中に無理矢理入り込む。

部屋の中に入るとキャリーバッグを開き「それ」を出す。

ちょうど彼が扉の鍵を締めて部屋の中に入ってきた。

「なんだよそれ。」白いそれを見た彼は不気味なものが目の前にあると顔を強張らせながら呟く。

驚くのも無理はないと思う。私はこの男に浮気をされたショックが大きすぎて「それ」を見た時それほど驚きはしなかったけれど普通はこのような反応だ。

「早くこっちにきて。」私が彼を睨みつけると彼は蛇に睨まれたように表情を強張らせながら私の方に来た。

「座って。」彼を私の正面に座らせて「白いそれ」の頭を撫でると先程と同じ様に頭から日本の触手を出した。

「うゎっ‥。」小さな声で彼が嫌悪感を露わにしているがそんなものは気にしない。

私はこの男の感情の味を知るためにここに来たのだから。

私の考えを理解しているのか、白い触手の片方は彼の方に向かって伸びていき左手に触れる。

が、彼は当たった触手を気持ち悪い物が当たったと言いたげな態度で腕を払い退ける。

「じっとして。」私はそんな彼に苛つき思わず鋭い言葉を浴びせてしまった。その言葉に彼は一瞬顔を固まらせたが、私の目が恐ろしいものだったのだろう。渋々と従って彼の腕に再び触手が触れる。

そして、もう下方の触手は私の腕に向かってゆっくりと伸びていき私の右手に触れる。

「‥っ。」来た。ドクドクと感情の渦が、彼の感情が私の中に入ってくる。

甘ったるくて、後悔の念の後ろに隠れている快楽の渦。結局彼は後悔と同時に浮気相手との性行為の気持ち良さに溺れていたのである。

感情が襲ってくる。私とデートの後に女と寝ている男。私が泣いた時に後悔をした男。

でもそんな事に対して恨むことなんて出来ない美味が脳に響いてくる。

今までで生きてきた中で一番気持ち良く幸福感に全身が覆われる。

これさえあれば友情も愛情も全て必要ない。

肉体すら要らないという感情。視界には私と同じく感情の味に酔いしれている男が居るけれどそんなものに気など向けず私は味わう。

味わって、味わって味わう。


それから私達は定期的に集まり感情の味を確かめ、味に酔いしれた。

だけれど、彼も私もあの味を感じたいという感情のみで生きているので、途中から感情に味の違いがなくなってしまった。

だから、私は彼との連絡を絶った。

そして1人で感情の味に酔いしれていたが、味を忘れられなくなっていたあの男が私の家に押しかけてくるようになった。

何度も何度も何度も彼は私の家に来た。その度に彼はあの味を感じたいと懇願してきたが私が拒否をした。

時には暴力を振るわれた。でもその痛みも素晴らしい味となった。

やがて私はあの男を警察に突き出した。

これでこの話はおしまい。



楽しさなど微塵もないこの職場で先輩は輝いていた。

何かがあっても冷静に対処して、部下である私達に的確な指示を出してくれる。

そんな先輩を私は尊敬しているし、憧れている。

同性から見てもそれほど格好いいのだから男達がほっとくはずもない。

顔も綺麗だし、スタイルもシュッとしていて。もうとにかく綺麗。

「ねぇ。今大丈夫?」

「は、ハイ。」先輩はどこか余裕のある表情でいつも会話をしてくれる。

人によってはロボットのように感情の無い。とか言う人も居るけどこれはきっと大人の余裕と言うものだ。

私と年齢の差は無いけれど‥。これが社会人の差なの?

「今日仕事終わりに飲みに行かない?」

「えっ、それはどういう。」

「仕事とか関係無しにね、貴方と話してみたいと思っていたのよ。これは上司命令とかじゃないから予定が入っていたら断っていいわ。」

「いえ、全然!!予定なんて入っていません。大丈夫です。」尊敬する先輩の誘いを断るほど私は馬鹿ではない。私は少し混乱しながら笑顔で答えた。

「じゃあ仕事終わりにオススメのお店があるから行きましょう。」

「はい!!」多分この時の私は馬鹿みたいに笑顔だろう。

この後、二人で飲んでから私は感情を味わって快楽から抜け出せなくなるなんて思ってもいないのだから‥。

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