16.心の底からあなたが求めるものは②

「全く、ユリウスったらいつになったら帰ってくるのかしら。」

 もう閉店の時間なのに。

 ここはブレッド・フラシャリエ。今ちょうど店長である朱音が黒いエプロンを外しながら入口へ向かい、OPENとなっているプレートをCLOSEにする。太陽が沈みかけていて、オレンジ色の空がとても美しかった。秋風に吹かれ、朱音の短い銀髪も優しくなびく。

「こんな時期だったかしら、あの子が産まれたのは。」

* *

 私、白木朱音ことシア・ウィリア・クレイスは赤の契約書であった。昔から子供が大好きで、兄の子供を自分が育てるくらい好きだった。兄の子供であるミリィ、有子を見るたびに思った。自分も子供が欲しい、と。そのためには赤の人か紫の人と結婚しないとそう張り切っていた時もある。

 でも現実は優しくなかった。5年前私が恋に落ちてしまった運命の人は緑の契約書だったのだから。私は運命の人、ユリウス・ヴィルアースのことが心から好きだった。好きになってしまった。彼は勿論私が子供を望んでいること、子供を好きなことを知っていた。だからとても彼はプロポーズを躊躇っていた。自分と結婚したら子供は出来ない、彼女の願いは叶わない……そう考えてくれた結果だと思う。すごくその気持ちが嬉しかったことは覚えてる。そこで私は彼を選んだ。彼と二人の幸せを望んだ。兄さんも、そのことをお互い承諾した上でなら結婚を許すって言ってくれた。私は女の子の憧れである結婚をした。しかもユリウスは学歴も良くて、あの生態学論を22歳で発見した生物学者。兄さんの親友でもある上に物腰柔らかな紳士。でも腕っ節には自信もあって、大きな剣を軽々と振り回す……そんな人。   ちょっと愛が強すぎるのがたまに傷だけど、そこまで愛されると浮気などの夫婦問題に気を使わなくても良い気がして安心できる。ちゃんと身長差も10cmあるし? 背が高いことを気にしていた私にとっては嬉しいことだった。

 結婚して3年、ある日ユリウスは私に相談してきた。

「努力をすれば、私達にも子供が産まれるかもしれません。挑戦してみませんか?」

 その時、私は初めて知った気がする。まだ彼が私自身がとっくに諦めた夢を諦めていなかったことを。条件によっては……と私は冷静に彼の話に耳を傾けた。彼が語った条件はとても重いもので……。

 まず、血をつなぐと言うのを物理的な意味で行う。つまりは採血をして人の型を作ると言うこと。そしてそのためには劣の血液、この場合は緑がより多く必要。優の方は体内にある血液で足りるため、輸血などをしなくてもすぐに心臓が作りだすので問題ない。問題は劣、優のおよそ50倍の血液を必要とし、輸血は必須だった。ユリウスはとっくにそれを決断していて、私がそれでも子供が欲しいというのなら実行しようと言う。勿論、私が学生のころから夢見ていたことだ。当然それで出来るのなら叶えたい。だけど、苦労をするのはその提案をした私の夫だ。そのことを考えると……簡単に首を縦に振れなくなってしまった。でもユリウスはにっこりと笑うと私に言った。

「私のことを心配するって言うことはこの案は良いと思ってくれてるのですね。」

 それなら実行しましょう、とっくに覚悟は出来ていますから。そう言って彼は私に口づけをしてくれる。……相変わらず、強引だな。そう思いながら私も彼に口づけを返した。

 その後に私は五日間に分けて10Lの血液を採血した。これで充分らしい。本当にこれで大丈夫なのかと思うくらい簡単な作業だった。隣ではいつもユリウスも、兄さんの手伝いをもらって地道に採血をしていた。自分はこれだけで終わったが彼はあとこれを50回も繰り返すのだ。気が遠くなりそうな話だ。でもだからこそ達成感があるものなんだろう……そう思って私はその日を待っていた。

* *

「そして20回目くらいのころにユリウスの体に異常が起きた。採血した分の血液が生成されなくなったのよね。ついに目眩や立ちくらみまで起きて、輸血は必須になった。でも彼は諦めなかった。それでも採血して、物理的に私達の子供を作ろうとした。」

 その時私は知った。……人間も契約書も死に近づくと隠してきた本性が現れてしまうことを。

「……最初はちょっと怖かったかな。でもそれも含めて彼だって思えた。」

 その時、朱音は自分がまだ外に居たことに気づく。そしてハッとなりエプロンを片手に店内に戻って行く。桜色のシャツについていたほこりを取ると、レジ裏でお気に入りのブレンドコーヒーの無糖を手早く作った。

「うん、やっぱり無糖が一番だわ。」

* *

「輸血だけではもう血液生成が追いつかなくなったみたいです。」

「え、それはどういう……」

 30回目、ようやくユリウスの採血もあと半分を切った。そんなとき、彼の体内では血液が通常の契約書の半分くらいしか生成されていないことがわかった。元々生成能力が平均値よりも低い彼にとってこれは致命傷であった。このままではユリウスは血液が無くなって死んでしまう。でもこれ以上彼の体内に血液を入れてしまうと、彼の体が危険だ。兄さんはそう言っていた。ましてや自分は学者ではないので何色の血液かもわからない。(ユリウスの勤めていた生態学研究所の奥には4色の血液が保管されている。)それに、ユリウスは私に血であなたの美しい手が汚れてしまうのは嫌です、と言って私に輸血をさせようとはしなかった。それに緑の血液は生存数が少ないため貴重なものだった。よりにもよってどうして緑の血液の保管数は少ないのだろう……。そんなことすら恨んだこともあった。

「今まで黙っていてごめんなさいね。生まれつき生成能力が低いということを……」

「ほんとよっ! あなたのせいでレバー私も食べなくちゃいけないんだから……」

「す、すみません。でもありがとうございます、貧血予防に良い献立をいつも考えてくださって。」

「当たり前でしょ。私の夢を叶えようとしてくれてるのに、私だけのうのうとしてられないもの。あなたの苦労に比べたら……私は嫌いなレバーを口にするだけで良いんだから、大丈夫よ。」

 そう、私が出来るのは妻として料理の献立にこだわること。それに、私が子供を望まなければこんなことはなかったんだ。なんて後悔することも多くあった。

「大丈夫ですよ、こうして食事が出来るうちは死にません。こうみえて私結構丈夫ですからね?」

「ふふ、そうね。それだけ悠長に話せれば大丈夫だわ。」

 私も笑顔でユリウスの言葉に答えた。そんな彼の生活に変化が起きたのは10回くらいのころ。彼は無事貧血になることなく採血を続けていた。でも安定してきたせいか家を出ることが多くなった。彼は仕事だと言っていたけど、学者の制服でもある白衣にところどころ赤い染みが付いていた。

「ねぇ、ユリウス。その染みどうしたの?」

「ああ、これですか。私貧血にならないように運動を始めたんですよ。その時に栄養補給として飲んでいた血をこぼしたんです。」

「えっ……血。正直なのね……」

「だって貴女に嘘をつきたくありませんから。あれからもう10L採血を40回も繰り返してきました、もう私は輸血だけで生きて行くのは不可能です。だから自分でも輸血をしようと思ったのですよ。」

 運動をするのもたまにはありかと思いましてね。

 そう笑顔で話してくれた。どうしてそんな清々しい顔をしてそんなことを言えるの……? 私は無意識にそう尋ねていた。それを見てユリウスは躊躇うことなく平然と答えてくれた。

「人間の血液です。人間には色など気にしなくてもいい、どんな血液にも馴染む万能さがあります。だから彼らから血液を頂いてました。この口で直接輸血したのですよ。それが案外効果ありましてね、貧血なんて心配しなくなりました。」

「で、でもそれは人間を殺しているということよね……?」

「そういうことですね。でも大丈夫ですよ、アルテマからは許可をもらってますから。」

 10万人までなら殺しても天秤は傾かないって。

* *

「…………」

 気が付いたらコーヒーは完全に冷めてしまっていた。朱音はずっと右手でマグカップを持っていたせいか、右手があまり動かない。左手に持ち替えて何とか落とさないようにテーブルの上に置いた。

「それにしてもいつ帰ってくるのかしら。」

 シアンと出て行ったけど、何時に帰るって言わないんだから困るのよね。

 そう考えているとさっきプレートをCLOSEと変えたはずの入口が開いた。あれ? ユリウスかしら……そう思って朱音は入口の方を見た。するとそこにいたのは……

「ひっ……」

「あ、お姉さんこんばんは。違ったぁ……」

 ……敵の大事な人だぁ。

 そこにいたのは首なしの黒ローブの人間だった。

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