第4話 え、何がヤダなの?

夫の『帰りが遅くなる宣言』から、かれこれ半年が来ようとしていた。それは、ようやく残暑という言葉を聞かなくなった頃に始まり、冬を越え、そして今、風は冷たいながらも春に向かって日差しが強まり、職場近くの神社から延び出た梅の枝にはつぼみが膨らみかけていた。

「そろそろ春っぽい服装もしたいわよね。」

最近届いた通販のカタログを膝の上でめくりながら、無意識にそんな言葉を私は発していた。夫は同じ部屋にいてテレビを見ていたが、夫に対して言ったわけではない。本当に自然に出た言葉だった。しかし、夫には自分に声を掛けられたように聞こえたらしい。

「え、もう?」

夫の反応が自分に対してのことだとは思わず、その時ついていたテレビの情報に突っ込みを入れているのだと思った。

「え、何が?」

「だって、まだ寒いじゃないか。昨日だって雪かもしれないって言われてたくらいだよ。」

2秒ほど開いて、それが自分のつぶやきに向けての言葉なのだと理解できた。こうやって、夫婦の会話はかみ合わなくなって行くのかもしれない。

「ああ、私に言ってたんだ。」

「次の休みに春物買いに行こうとか、そういう話じゃないの?」

「別に…そんなわけじゃ…」

あ、叱られちゃうかな?と横目で表情を確かめると、意外に笑顔だ。

「よかった。今度の日曜ね、ちょっと仕事があって朝から出かけなくちゃいけないんだ。だからさ、普段の買い物も行くんだったら夜しかダメなんだけど。」

私達夫婦は共働きだから、休日に一週間分の食料品などをまとめ買いしておくことにしている。どうしても必要なものがあるとき以外は平日は買い物に行きたくない。


「いいかな?」

「え?…ああ、仕事なんだったら仕方ないじゃない。でも、お米と水買いたかったから、夜に付き合って。」

「できるだけ早く帰るよ。」

あれ?もしかしたら夫は、仕事だか何だか知らないけれど、朝から出かけるということを、私に知らせるタイミングを計っていたんじゃないかしら。なんだか怪しい空気を感じる。考えすぎか。夫の会社ではお付き合いにゴルフは無いしな。でも、「よかった」と言ったときうれしそうな表情をしたような気がする。仕事なのに?そういうとき私なら、仕事に出なくてもいい理由をどうにかして探そうとするのだけどな。やっぱり何か、楽しいことがその日に待ってるんじゃないの?いつもは夜にしか会えない人と昼間の約束しちゃった…とか?ああ、まただ。私は夫に浮気をしていて欲しいのだろうか。裏を返せば、それなら私も!と言いたいのかもしれない。

私も…という言葉が思い浮かんだとき、同時にぼんやりとした風景が頭の中に広がった。いつものブックカフェだった。観葉植物の向こうに席を取った人影が立ち上がってこちらに向かって来ようとしたように見えた。

「やだ!」

来ないで!私は頭を振った。あの人のことは気になる。けれど、正体を知りたくない。ああ、ばかばかしい。これは私の妄想なのだ。その人の姿が今見えるはずなどないのに。

「え、何がヤダなの?」

夫が振り返った。私はまた無意識に声を出していたようだ。

「あ、これか!ごめん!コーヒーこぼしちゃった。拭かなきゃ。」

夫は飲みかけのコーヒーをテーブルに置こうとしたとき、手元を誤ってソーサーの縁にカップを乗せてしまったのだ。おそらく、テレビを見ながらカップを持った手だけを伸ばして、距離感を間違えたのだろう。普段の私なら、夫に一言文句を言ってからでないと動けない。しかし、今日は無言で台拭きを取りにキッチンへ向かった。言葉が見つからなかったのだ。何しろ、頭の中には妙な光景が広がっていたのだから。台拭きを持って戻ってくると、広げてあった新聞がこぼれたコーヒーを吸い取りきっていた。カーペットにコーヒーはこぼれていなかった。よかった。私は新聞を片付け、薄っすら残るコーヒー色を拭き取った。

「ねえ、どうしたの?どこか悪いの?」

「え、どうして?」

「いや。だって、おかしいじゃない。いつもなら、何やってんの?とかなんとか、お小言があるはずじゃないか。静かだし…君…」

なんと返答すればいいものやら。

「わからないんだけど、なんとなく反応が遅いような気がするのよ、自分でも。どこかに疲れがたまっているのかもしれないわ。」

無難な言い訳をした。

「それって…あれ?更年期ってやつ?」

この人は一体どういうつもりなのか。けしかけているのだろうか。

「なんでもその一言で片づけないでよね。」

「だよね。」

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