第3話 どうしたの?今日、早い日だっけ?

次の週、今度ばかりはなんとしても行くのだ。どこに?もちろんブックカフェに決まっている。マスター、わかってますよ。時間を作って来る所じゃないんでしょ?でもね、私はまだそんな余裕のお客さんではないんですから。

私の念じが通じたのか、仕事は難なく定時に終了、誰からも何の誘いもなく電車に乗り込んだ。こうなると逆に寂しくもある。どっちなんだよ!?と自分に突っ込む。仕事帰りなのにテンション高いな、私。

兎にも角にも目的地に急ぐ。立て付けの悪いドアを思いっきり引っ張って、しかし、勢いは消して1歩踏み出す。コーヒーの香りが私を迎えた。さて、席は…以前座った席の隣が空いていた。いいよね、ここで。荷物を先に置いて、腰を掛ける直前にカウンターに視線を向けると運よくマスターと目が合った。目を細め、口角を上げて微笑みの表情を作ってみたが、マスターの視力でそれが確認できただろうか。頭をピョコッと下げて、私ここに座りますよの合図とした。緩慢な動作で、マスターが近づいて来た。

「ホットコーヒーをお願いします。」

私は、いつものラックから旅雑誌を2冊拝借し、席に戻った。1冊目が裏表紙まで来たとき、だいたいコーヒーを飲み終わった。2冊目を眺めながら、コーヒーのお代わりをしようかどうしようかと考えながら、結局そのままにした。まあ、そんなペースでいいのかなと思っている。

さあ、2冊目という時、私は日常の野暮用を思い出してしまった。2冊目の表紙がそれを思い出させたのだ。どこの国の写真だろう。青い空に白い家並み。ロープを張って干したシーツや衣類が旗めいている。洗濯物か…明日はしなくちゃな…私の頭に洗濯をする自分の姿が浮かんだ。あ、柔軟剤!2日前の時点で洗濯洗剤はストックまであったのに、一緒に使う柔軟剤はその日の分も足りなかった。買いに行こうと思いながら忘れて今日になった。ドラッグストアなら深夜まで開いているから、ここをいつもの時間に出ても間に合う。しかし、このまま気分がゆったりすれば、また忘れて家に帰ってしまうことも有り得る。思い出した今動くほうがいい。

丁度コーヒーは飲み終わった。2冊の雑誌を重ねて持ち、バッグを肩に掛けながら立ち上がった。まず、雑誌を戻し、レジのあるカウンターに向かう。お釣りのないようにと財布を覗き込んで硬貨を捜していたとき、誰かが咳をするのが聞こえた。マスクを緩衝材にしているようで、こもった聞こえ方だったが軽い咳ではなかった。単純な反応として聞こえた方向に視線が動いてしまう。やや奥に入った観葉植物の向こうから聞こえたような気がした。もしかしたらあの人かしら?この前、本を落とした人。やだ、また結び付けようとしている。振り切って、再び財布を覗き込んだが、結局小銭は見つからず、千円札を出してお釣りをもらった。

カフェを出て、直接家の方角にではなく駅に向かって少し戻ったところにドラッグストアはある。さっき前を通ったのにどうしてその時思い出さなかったのだろう。自分の無駄な動きに少々腹立たしくなり、靴音が荒くなる。目的の洗濯用品コーナーは入り口近くにあるから、レジが混んでなければ2分で出てくるつもりで入った。…のに、店内には、今日がポイント5倍デーであることを知らせるアナウンスがわんわん響いている。ポイント5倍!マジックワードが私を惑わせた。一周回ろう。店内を一巡して必要な物を思い出したらこの機会に買っておこうと方針を変えた。しかし、吟味はしない。迷ったものは買わない。そんな私がドラッグストアを出たのはおよそ20分後だった。吟味に吟味を重ねて、日用品と食品を大のレジ袋にそれぞれ満たしていた。

家に着いてドアの前で鍵を探してガサガサしていると、中からドアを開けられた。驚いた。夫が珍しく先に帰っていたのだ。

「どうしたの?今日、早い日だっけ?」

私は、ただいま、でもなく質問してしまった。

「うん…ちょっと、だるくって…早めに帰ってきたんだ。」

「やだ、風邪かしら。」

この『やだ』にも、やはり意味は二つあった。一つはもちろん風邪だったら困るわ、という意味だが、もう一つは、予定外に早く帰る日があったらゆっくりできないじゃない、という意味だ。どちらかと言うと、後者の意味が優勢だ。今日はたまたま早く切り上げたからよかったものの、カフェにいつもの時間までいればまだ帰って来ていないことになる。どこに行ってたか聞かれたら、正直に答えるのが恥ずかしい。恥ずかしい場所ではないけれど、答えてしまったら秘密の楽しみではなくなる。

「ずいぶん買い物してきたんだね。だから遅かったのか。」

「ええ、ほら、いつものドラッグストア、今日ポイント5倍デーだったから。」

買い物を隠れ蓑にした。

「弱いな、そういうのに。」

「あなたこそ、風邪なら言ってくれればよかったのに。そうしたら風邪薬だって買って来たのに。」

「それも5倍ポイント付くからってこと?」

かすれた声で皮肉を言われた。この辺で会話は終わらせたいと思って、黙って荷物を運び込んだ。

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