第4話 春になったら

 それからの日々は年の瀬の忙しさに紛れていった。あれ以来今井さんとは連絡をとっていない。彼女からも連絡はなかった。


 自室の窓からは羽留町の夜景が見渡せる。日を追うごとに、民家の灯りは少なくなっていった。


 先生によると、子どもや老人、持病のある人は、冬眠が始まるこの季節になると国が用意した仮の町へ一時的に移住するのだという。残された住民たちは雪解けの季節まで深い眠りに落ちる。それがこの町の風習であり伝統なのだという。


 『保存会』と呼ばれる国の研究員たちは、白い建物のなかで住民たちの眠りを見守りその生態を観察する。


 莫迦らしい。


 人間が冬眠なんてするもんか。


 そう思うのに、民家の灯りが減っていくのを目の当たりにすると不安になる。


 怖くなる。いつか自分にも両親にも、その日が来るのではないかと。



 そうして何日か経った大晦日の朝だった。いつもなら七時過ぎに起きて朝食の仕度をはじめるはずの母が起きてこなかった。


「父さん、母さん、そろそろ起きたほうが」


 両親の寝室を覗いたおれは、カーテンが閉めきられた薄暗い室内で点滅する光を見た。


 腕時計の赤い光がふたつ。


 まさか。おれは慌ててふたりの寝床に駆け寄り、蒲団を剥ぎ取った。


 丘野と同じだった。血の気のない肌に青白い唇。いつもの間抜けな顔で眠る両親の姿がこれほど怖いと思ったことはない。


 冬眠したのだ。


 こんなのって、嘘だろう。


 おれはダウンジャケットだけを羽織り外に飛び出した。腕時計の青い文字盤は九時を示している。


 そろそろ表に人影が出てもおかしくない時分だ。それなのに、太陽に照らし出された羽留町には人の気配がなかった。どこか遠くで犬が鳴いていて、雀が忙しなく囀っている。けれど、人間がひとりもいない。


 人間を探した。手当たりしだいインターフォンを押してまわって、役所にも行って、公衆トイレもくまなく探した。人間を探した。


 それでも結局、誰にも会えないまま、誰とも会話しないまま、陽が落ちた。


 疲れ果てて家に戻ったおれは、もう一度両親の寝室に入った。


 腕時計は赤い文字盤に切り替わり、時を刻むのをやめていた。


 おれは目覚めない両親の傍らに膝を折って座り込んだ。自分の腕時計はまだ青い文字盤のまま、夜の七時半を表示している。両親のそれと同じように、赤くはならない。


「……父さん紅白が始まったよ。なんとかって歌手、見るって云っていたじゃないか。なぁ母さん、そろそろ年越し蕎麦を作ってよ。風呂はおれが入れておくからさ」


 応えてくれよ。

 寒いよ。

 淋しいよ。


 誰か、応えてくれ。

 誰でもいい。


 自室に戻り、すがるように窓硝子に顔をこすりつけた。目を細めてわずかな光を探す。民家の灯りがついていれば、そこには間違いなく人がいるからだ。


「――あ」


 遠くにひとつ、灯りを見付けた。


 誰かがいる。


 そう思ったら、もう部屋を飛び出して全速力で駆け出していた。


 たどりついたのは小さな酒屋だった。古めかしい硝子戸の向こうから、あたたかな灯りがこぼれている。


「……桜井くん?」


 こぢんまりとした陳列棚の奥で石油ストーブに当たっていたのは今井さんだった。


 驚いたように駆け寄ってくると、からからと硝子戸を開けてくれた。店内のあたたかな空気がふわりとおれを包みこむ。


 今井さんはおれの顔を見て何か悟ったように頷き、そっと手をとった。


「どうぞ、中に入ってあたたまっていって」


 彼女に導かれるまま石油ストーブの前に行き、パイプ椅子に座った。


 「ちょっと待ってて」と店の奥に入った今井さんは、ココアの入ったマグカップをふたつ持って現れた。そのひとつをおれに差し出す。


「はい、あたたまるよ」


 かじかんだ手でマグカップを受け取った。一口呑んでみる。甘い。あたたかい。


「……おれの親、冬眠したみたいなんだ」


「うん」


「今朝おれが起きたら、いきなり」


「うん」


 今井さんは、ただ静かにおれの話を聞いていてくれた。先ほどまでの不安や恐怖が少しずつ解けていくのがわかった。


「おれもいずれ眠るのかな。……今井さんは、まだ眠らないの」


「わたしは」


 云いかけた今井さんは一度口を閉じた。


「わたしは――どうしてか、眠らないの。『非順応者』って呼ぶんだって。遺伝なのか体質なのかわからないんだけど、いままで一度も冬眠したことがない」


「冬眠しないのに、それなのに今井さんはこの町に留まっているの? 仮の町に行くんじゃないの?」


「だってお客さんが来るもの」


 今井さんは飲みかけのマグカップを傍らの机に置く。まだ大晦日だというのに机の上には年賀状の束が置いてある。食べかけの蜜柑や、袋入りの煎餅も一緒に並んでいた。


「冬眠に入る時期は家族でも人それぞれ違うんだって。冬眠しても途中で目覚めてしまう人もいる。そういうときに、こうして灯りをつけて『大丈夫ここにいるよ』って安心させるのがわたしの役目」


 客がひとりも来ない日だってあるはずなのに、今井さんは毎日こうして店を開けて春を待っているんだ。


 きっと心細いだろう。淋しいだろう。だから雪が降ったときあんな顔をしたんだ。


「なんで、そうまでしてこの町に留まるの? ひとりぼっちで春を待つしかないのに」


「ひとりじゃないよ」


 今井さんはにこりと微笑んで天井を見上げた。おそらく二階では彼女の両親が眠っているのだろう。


「確かに、淋しいと思うことはあるよ。でも大晦日まではなんとか一緒に過ごそうとコーヒーやなんかのカフェインを無理に飲んで頑張ってくれる両親や、わたしが淋しくないよう年賀状を書いておいてくれる同級生、自家製の漬け物や果物を持ち寄ってくれる近所の人たち。そして、冬眠の途中で目が覚めてしまった人たちとお喋りする短い時間。全部好きなの。この町が好きなの。離れたくない。仮の町へも他のどこへも行きたくないの」


 強い瞳だった。

 それでいて、優しい声だった。


 今井さんがどれほどの覚悟でこの町に留まり、どれだけの勇気を与えられているのか、なんとなくだけれどわかるような気がした。


「――桜井くん。冬眠のことちゃんと説明していなくて、ごめんね」


 今井さんが謝る必要はない。

 ちゃんと説明を聞かなかったのは自分だ。


 「こっちこそ、ごめん」と謝ったつもりだったけど、うまく言葉が出てこない。ココアで体があたたまり眠くなってきた。


 あとね、と今井さんは口ごもる。


「『相談役』、今回は瞬くんが担当だったの。それをわたしが無理に引き受けたの」


 どうして、とぼんやり返すのがやっとだった。なんでだろう、ひどく眠い。


「転校初日の自分の顔って覚えてる? 知らない土地で緊張して、笑顔もぎこちなく引きつって、まるで凍っているみたいに見えるの。特に桜井くんはがちがちに凍ってた」


「そう、だったっけ」


「うん。だけど瞬くんが話しかけて、桜井くんがぎこちなくそれに答えて、そうして少しずつ交わす言葉が増えて、会話になって、あなたの顔がほぐれていくのを見たの。雪解けみたいだと思った。気付いたら目をそらせなくなっていた。次はどんな顔をするんだろう。どんな笑顔を見せるんだろう。そんなふうにね、どうしようもなく気になったの。だから好きになったのは、本当のこと」


 最後のほうは照れ隠しのような笑い声になった。そして笑顔になった。


 あぁ、あの笑顔だ。

 おれが好きな今井さんの笑顔だ。


 おれが今井さんを見ていたように、今井さんもおれの顔を見ていたんだ。ずっと。


「ごめんね今更、お別れしたのに」


 今井さんの声が遠のいていく。


 まずい、まだ眠りたくない。だっておれはまだ、大事なことを伝えてない。


「おれも、おれも今井さんの笑顔を見てた。これからも、ずっと。そうだったら……いい。だから、め、さめたら、今度こそ、ほんとに」


 手の中からマグカップが転がっていった。睡魔に耐え切れずに頭を垂れると、自分の腕時計が赤く点滅しているのが見えた。


 それでも最後の気力を振り絞る。


「おれと……おれと付き合ってください」


 ――そこで意識が途切れた。


 次に目が覚めたら真っ先に会いに行くよ。そしてもう一度、ちゃんと告白する。


 春を待つこの町ときみのことが好きです、と。



 おわり。

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はるまち せりざわ@ @seri

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