第1話 最後の日常

その日美来は、ジージーと鳴り続ける蝉の声を聞きながらスタスタと足を進めていた。こんな夏を象徴するかのような日射しの中、外を出歩きたくはない。しかし、古賀教授に頼まれた仕事の手伝いとあれば仕方があるまい。美来にとって、彼は憧れの存在なのだから。


わざわざ、説明するまでもないとは思うが、古賀教授とはあのノーベル医学生理学賞をとった古賀透理である。日本の生命自然科学の権威であり、光合成樹林の創始者、そして、世界からは「地球の生命を躍進させうる者」すなわち「神」と称えられた彼だ。その彼が大学教授として勤めているのが、美来の通う「帝都大学.生命自然科学部」というわけである。


美来は現在の2回生に進級する以前から古賀教授とゼミなどを通して活動を共にすることが多かった。中には、古賀教授の私用で呼び出されることもあった。とはいうものの、ゼミ参加者の中から複数名を適当に募るだけのものであり、言うなれば人数さえ揃えば誰でも良いものであった。


しかし、今日はいつもとは違う。今日は美来個人への頼みだったのだ。その内容は、今日古賀教授が出席する大学の生命遺伝子研究棟の二階で行われる会議中に、そこ地下二階にある生物実験室の資料を整理してほしいというものであった。それも一人で来てほしいとのことだった。なぜ自分が選ばれたのかは分からないが、普段なら絶対に入ることのできない実験室に入れるという事実は、その疑問を頭からぶっ飛ばすのに十分だった。。


「しっかし、暑いなぁ...。光合成樹林のおかげで二酸化炭素が多少減っても、バカみたいな量の水蒸気をなんとかしねえと温暖化は止まらないってわけか。でもまあ、太陽反射地獄の都心に比べたらましか。」


どうにもならない暑さに口をとがらつつ、大学の正門をくぐる。帝都大学生命自然科学部のキャンパスは他とは違い、東京の比較的緑の多い場所に建てられている。その緑の中にたたずむ、煉瓦で作られたような風貌のキャンパスは生徒たちにも非常に人気がある。そんな中でただ一つだけ真っ白な外装の三階建ての建物こそが生命遺伝子研究棟である。棟の管理責任者はもちろん古賀教授だ。美来は暑さから少しでも早く逃れるように、そそくさとその建物へ入ろうとする。


その時、この暑さの中、真っ白のフード付きのコートのような物を身に着けた男が美来とほとんど入れ違いで出てくるのが見える。室内は冷房が効きすぎて上着を羽織ったのだろうか?顔はよく見えなかったが、その男とすれ違ったその刹那。圧倒的な威圧感とでも形容するべきだろうか?全身の神経が逆立つような、未だかつて経験したことのないような感覚に苛まれる。


――いっ、今のは何だ!?


バッと振り返るも、そこにその姿はなかった。


――見間違いか?暑さで頭やられてんのかな...


そう思った美来の汗まみれの右手には首からかけているペンダントが握りしめられていた。昔から、美来には自分を落ち着かせたい時などに無意識にこのペンダントを握る癖があった。。


はは...と苦笑しながら冷房の効いた室内に足を踏み入れた。生き返る。ちらりと時計を確認する。会議が始まるまでは、まだもう少し余裕がある。


「おっそいよ!!あたしの方が早く着いちゃったじゃん!」


顔を向けずとも声の主は容易にわかる。風秦癒紗だ。美来とは同期でゼミも同じだった。横目で見える癒紗の格好はお洒落というわけではなく、薄着でラフな姿なのだが、それが逆に彼女のボディーラインを強調していた。美来の顔が赤くなっていたのは気温のせいだけではないだろう。そのまま顔を向けずに美来は口を開く。


「なんで、お前が来てるんだよ。呼ばれたのは俺だけだって昨日lineで言ったろ?」


「美来だけとかずるいよ。私も行く!!そもそも、なんで美来なの。確かに成績は良いかもだけどさ。私だってそれなりに出来てるし...あーもう、ムカつくッ!!」


エントランスで全身を揺らしながら感情を前面に押し出す。


「まあ、俺は精神的にも大人だからな。学力と精神年齢が反比例してる奴はだめってことだな。」


美来はそう言いながら、癒紗にジトーっとした視線を送る。すると、プイッとその目線を切って答える。


「誰のこと言ってんのか、ぜーんぜんわっかんないよ。決めた!!どうせ一緒に仕事したとしても、教授は会議中で来られないし、二人でやっても分かんないよね♪」


美来はガチャンと自動販売機にコインを入れながら答える。


「残念だけどそれは無理だな。あの部屋はこのカードが無かったら入れないんだよ。一枚のカードで2人入ると警報が鳴るようになってる。そんなことになったら、二人で仲良く退学だぜ。」


それは嫌だと癒紗は苦笑交じりに答える。


「......じゃあ、終わるまでここで待ってるから早く終わらしてきてよね。」


それに美来も分かったよと手をヒラヒラと振りながら返事をして、買ったばかりの冷たいジュースを癒紗に優しく放る。第三者から見ればただのじゃれ合いにしか見えないあたり二人は相当仲が良いのだろう。


美来は癒紗とエントランスで別れた後、目的の地下二階へと階段を降りていく。腕時計を見ると会議の始まる11時をまわっていた。会議は二時間ほどあるらしいので時間にはまだまだ余裕がある。この建物は今日は会議のためだけに開放されているので、大会議室のある二階以外には、エントランスの癒紗と、地下一階を通り過ぎようとしている美来自身の他に、いるはずが無かった。


しかし、見知らぬ女性が視界に入る。よく見ると清掃員だ。清掃に使うものを入れているのか、大きめのカートが置いてある。休みの日だというのにご苦労なことだ。美来は軽く会釈をする。しかし、清掃員の女性はこちらの目線に気付いた途端に、顔を伏せる。いつものおばちゃんの清掃員とは違い、若くて、少しハーフのような顔立ちの美人の女性だったのを美来は見逃さなかった。昔から反射神経や動体視力には自信があった。どうして顔を伏せたのかは分からなかったが、シャイな人なのだろうと自分を納得させ、そのまま階段を下っていく。


階段を下りきるとすぐに、まるでSF映画に出てきそうな扉と対面する。高鳴る鼓動を抑えつつ、震える手でカードキーを取り出す。シャッとカードキーをスライドさせる。

プーンギーガシャ、ガシャーン、ガンッ

大きな音をたててロックが解除され、扉が開く。足を踏み入れようとしたその時!突然ゾワッと全身に悪寒が行き渡り、キーンと耳鳴りのようなものが脳を刺激する。


――なっ、なんだ!?この感じ...また何か......


美来がそう感じたのは、理屈ではない。本能が、直感が、第六感がここはヤバいと警鐘を鳴らしているのだ。ほんの数秒のことだが、美来にはとても長く感じられた。ペンダントに触れながら、なんとか口を開く。


「今のは...熱中症とかの類か...?そんなもんになったことねえのになぁ。こんな短時間に二度も起こるなんてな。」


今さっきまでの感覚がまるで夢だったかのように、一度おさまってしまうと、今はなんの痛みも異常もない。夏風邪の類も疑いつつも、資料整理のために部屋の奥へと進んでいく。生物実験室というだけあって、まるで動物園のような大きなガラス張りの壁の実験室と研究室とが区切られている。実際に生物を育成するスペースが設けられているのが実験室だ。ガラス越しとはいえ、初めて見る実験室に感動し、自然と表情も緩む。ガラスの向こうはまるでジャングルだ。


「すげぇ...学生でこん中に入るのは俺が初めてだったりするのか?ん?これが整理する資料か?」


会議中の資料の整理と言われていたので、山積みの資料を想定していたのだが、思いの外少量の資料にいささか以上に拍子抜けする。美来はその少ない資料の中に、自分宛のメモがあるのを見つけた。


『このメモ用紙の下にあるレジュメを読んだ上で、作業を始めて下さい。』


そう書かれていた。なぜわざわざ読まなくてはならないのか疑問には思ったが、作業の詳細がのっているのだろうとレジュメに手を伸ばす。


『新見美来くんへ

君はこの世界をどう思いますか?人類はどこへ向かうのでしょう?進化という現象に意思は介在する余地はあるのでしょうか?神はこの世界に存在すると思いますか?いきなり、こんな質問をされても答えることは難しいと思います。もちろん、美来くんは優秀ですから、きれいな建前を用意することは容易いとは思います。しかし、私が求めているのは君が、君自身が心からそう思える回答を得なければなりません。そのためには、君自身が経験し、知らなくてはなりません。

今日は暑い中、使用で、わさわざ一人だけ御呼びだてして申し訳ありません。私は君に答えを見出だして欲しいのです。君はこの部屋に入れた時点で、到達者として生物的な観点では合格しています。あとは君に確固たる意志があれば、より先へ到達できるはずです。そして、導けるはずです。生き残った者が、この世界に、選ばれた者なのです。私のような選ばれることのない者に出来ることは、未来ある者の、可能性を秘める者の手助けをすることだと考えています。

これを読んだ後すぐに、私に読み終えた旨をメールで報告して頂きたいです。それでは、到達してください。未来へ。光合成樹林で会いましょう。

古賀透理より』


美来にはまるで意味が分からない内容だった。


――俺が生物的には云々とか、光合成樹林で待っているとか...いったいどういう意味なんだ?


部屋は空調が効いて過ごしやすい温度だというのに、汗が止まらない。訳が分からないがとりあえず言われた通りメールを打ち込む。読み終えたということと、もう一つはレジュメの意味を訊きたかったからだ。ピロンッ。間抜けな音が送信完了を告げる。


大きく息を吐く。とりあえず、資料を片付けてしまおう。そう思った...その時だった。


――ブーッブーッブーッブーッブーッ――


突然鳴り響く警報機。避難を促す赤いランプも激しく点滅を繰り返す。突然の出来事に驚きを隠せない美来だが、必死に頭を回転させる。とっさに、室内の電工掲示板の前に走り、画面を確認する。異常事態を示す赤いランプの下にある表示は酸素濃度上昇警報と、実験室の無断開放である。


――まさかッ‼ 実験室と研究室とを隔てる扉が開いちまったってことか!?


実験室の中には、古賀教授の研究に使われている生物が飼育されている。恐らく、この生物実験室は光合成樹林の環境を再現するために、酸素濃度が普通よりも大幅に高いというわけだ。


――光合成樹林の生態系は一般には一部しか公開されてねぇけど聞いたことがある。まさか...まさかとは思うが⁉


ズシャーーーッ!!ササササササササササササササササ


実験室の中から、巨大な生物が飛び出す。いや、この表現は的確ではない。なぜなら、美来はこの生物をよく知っていたからだ。


「多足亜門唇足綱.....むk....


その日、美来の当たり前の日常は、日常ではなくなった。







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