第八十二話 出会 ‐キッカケ‐
両親の仲が悪くなり始めたのは、中学校の頃からだった。
原因がなんだったのかは分からないが、子供である南が明確に感じ取り始めたのがその辺りから。
高校に進学してからは両親の関係は戻らず、むしろ溝は深まるばかりで。母は家で癇癪を起こし、父は家に戻らず帰ってこない日々。
珍しく父が帰ってきたと思えば、罵声の投げ合い。酷い時は割れた食器が床に散らばったりしていた。
この頃から、家に南の居場所はどこにもなかった。いや、居場所があっても一人ぼっちだった。
外に出れば近所の人から好奇な目で見られる。家に帰れば癇癪を起こした母親から罵られ、味方をしてくれる人は誰もいない。
南が夜の街に繰り出し、ガラの悪い輩とつるむ様になるのはそう遅くなかった。
――――高校三年。
南が霊感に目覚める切っ掛けとなった事件が起きたのは、五月。
当時付き合っていた男と一緒に乗っていた車で事故を起こした。原因はスピード出し過ぎによる横転。
他の車は巻き込まれなかったが、南が乗っていた車は道路から外れて木に激突し、運転手と共に大きな怪我を負った。
しかし、南は怪我だけでなく頭を強く打ち、意識不明の重体になった。
そして、事故から一ヶ月後。南は生死を彷徨う長い昏睡状態から目覚める。
最初に目に映ったのは白い天井で、最初に耳に入ったのは。
「お前がしっかり育てないからこうなったんだろ!」
「あなたこそ家にもろくに帰らないで、こういう時だけ父親面しないでよ!」
両親の罵り合いであった。
娘の心配よりも、責任の押し付け合い。重体の娘の枕元で喧嘩。
南は一命を取り留めた事を、まだ生きてる事を――――後悔した。
だが、これが南の生き方が変わる転機となる。
霊感というのは殆どの人が持っている。ただ、霊感が敏感に働き、霊を目で捉える事が出来るのは四、五歳あたり。大体、幼稚園の頃まで。
あとは歳を取るにつれて徐々に弱まっていく。小学生になる頃には、霊感は衰えて霊を認識出来なくなるのが一般である。
だが、先天的に霊感が強い者は歳による衰退が起こらずにそのまま残る。供助がその一人で、物心付く前から霊が見えるのが日常茶飯事だった。
しかし、それらとは別に。一度失った霊感を取り戻し、大人になっても霊感を持つ者も存在する。
方法は幾つかある。霊を視えるように段階を踏んで訓練する正法。多少の危険はあるが段階を短縮する邪道。本人の意思に関係無く強制的に目覚めさせる外道。
そして、もう一つ。それは『とある切っ掛けを元に霊感が再覚する』というもの。その切っ掛けと言うのが、“死”である。
理屈も、理由も、原因も解っていない。しかし、確実に『結果』として霊感が再び目覚めた人間が居る。
南がまさにそれだった。交通事故で意識不明の重体になり、それを境に幽霊が見えるようになってしまった。
初めは薄らと透明な影のような何かが視える程度。それが段々と輪郭を帯びて視えるようになり、気付けば人も霊も等しく『存在するもの』として視覚で認識出来ていた。
目を合わせてはならない。声を掛けてはならない。反応してはならない。南は霊に対して、それを直感で感じ取っていた。
そうすれば
霊が視える。そんな話を不良仲間に話してみろ。いい笑いものだと。南は誰にも言わず、相談せず、一人で抱えた。
だがその分、日常で神経を削るようになった。
空を見上げれば霊が浮いている。道を歩けば塀からいきなり腕が生えてくる。何も見たくないと俯けば、地面から生首が出てくる。
酷い時は生きた人と見分けがつかず、前を歩く人の背中から霊がすり抜けて来た時は変な声を上げてしまい、周りから変な目で見られた事もある。
つい先日まで一般人と変わらなかった南が、対処方も解決法も解らず。ただただ霊と目を合わせず反応をしないように過ごしていた。
しかし、限界が来るのは早かった。霊に対してのストレスから喧嘩に明け暮れ、消費した体力を休めようとしても霊の存在が邪魔してろくに休めない。そのストレスを発散しようとまた喧嘩。
この悪循環に嵌ってしまい、心身共に疲弊していく。そして、ストレスと疲労がピークに達した時。南は取ってはならない行動を取ってしまった。
たまたま、本当にたまたま。その霊は南を狙っていた訳では無く、その時に近くにいただけ。南が何もかも嫌になり、腹が立って、とにかく溜まりに溜まったストレスを吐き出したかった。だから、吐き出した。
楽しそうに笑い、嬉しそうに宙を
――――いい加減にウザってぇンだよっ!
大声で叫び、鬱憤を吐き出し、苛立ちを向ける。
その意識の矛先を感じた霊は、気付いた。目前の女が自分の存在に気付いた事に、気付いた。
『……ンふ!』
さっきまで見せていた笑顔が、歪む。さらに酷く、さらに歪に、さらに不気味に。
男の笑顔が、いや、笑顔なのに。目が合った瞬間に悍ましい悪寒に襲われる。頭の天辺から、足の指先まで。か細い指でなぞられた様に。
ここで南の頭は一気に冷めて、己がしてしまった過ちを知る。
ああ、これはヤバイ―――と。
初めて目が合い、霊と向き合って。存在を認識して。認識されて。南は今までに感じた事のなかった恐怖を知った。
人から殴られた怖さとも違う。痛みに対する恐ろしさとも違う。得体の知らないモノと対面した、対処法が解らない未知の恐怖。
歪みに歪んだ霊の顔を見てられず。見るに耐えられず。南は駆け出した。
見た目は完全に老人……だった。しかし、南の存在と、自身の存在を認知した者への興味と好奇。
老人の霊はその老いた姿を変転。150cmも無かった小さな体躯はメキメキと音を立て、まるで折り畳まれていた折り紙を広げるように。
顔は変わらず、しかし、身長は3mを超えて。顔と体の不一致。バランスの不釣り合い。長身痩躯の老人。
ただただ異様で不気味でしかなく。そして、霊感を持っているからこそ知ってしまう、その危険度。
素っ裸の状態で山中を歩いていたら、腹を空かせた野生の熊と遭遇したのと同じ。どれだけ危険と解っていても対処方が無い。手の打ちようがない。
出来る事は一つ。ただ逃げるだけ。
この時から、南にとって悪夢のような日々が始まった。
外に出れば常に視線を感じ、寝れば夢でうなされる。少しでも気を紛らわそうと喧嘩に明け暮れるも、その最中に邪魔をしてくる。
かと言って一人で居るのは嫌だと彼氏の元へと行けば、気色悪い笑みを浮かべては彼氏の周りをうろついて。彼氏の首に手をやって襲うような素振りを見せては、焦って叫ぶ南の反応を見て楽しんでいた。
南が苦しみ、嫌がり、辛そうにしている顔が愉快で堪らないと。老人の霊はひたすら南に憑きまとった。ひたすら邪魔をした。
一人の時は必ず近くをうろつき、誰かと入ればその誰かを傷付ける動作を見せつけ、家にいれば不仲の両親の感情を煽っては毎日喧嘩させていた。
言うまでもなく、南が衰弱していくのに時間は掛からなかった。
どこに居ても、誰と居ても。必ず奴が憑きまとう。気を緩められない。気を抜けない。安心出来ない。
常時、気を張り詰めて、いつも周りを警戒し、誰かに頼り相談する事は出来ない。
徐々に疲弊していき、段々と弱って、着々と追い詰められ。どこにも安全な場所は無く、誰にも助けを求められず。
老人の霊と遭遇してから一週間。限界に達した南は、もういいと。もう逃げるのは馬鹿らしいと。
逃げれば逃げる程、足掻けば足掻く程、奴を喜ばせるだけだ。なら、もういい。対処方も解決法も無い。どうしようもない。
そして何より、昏睡状態から目を覚ましてから、元から安らぐ居場所なんてなかった。両親はさらに不仲になり、不良仲間には老人の霊のせいで奇行紛いの事をしている所を見られてから避けられ、彼氏だって寂しさを紛らわす為に何となく作っただけで、恋愛感情なんてなかった。
生死の境を彷徨って生き返ってから、ずっと生きた心地がしなかった。
「だったら、さっさと逝っちまった方が楽だ……」
すでに限界を迎えていた南は、全く人気のない廃れた神社の階段で
体育座りで腕に顔を
『んふ』
奴の気味悪い声が近付いてくる。風で煽られる周囲の木々のざわめき。まるでそれが死の足音に聞こえる。
首筋に走る寒気。背中から頭にかけてせり上がってくる震え。産毛が逆立つ感覚。今までに何度も味わってきたから解る。
奴がもう、すぐそこに居るのが。
――――ガサリ。
視界は閉じている。感覚にして、大体1mぐらいか。そこから草が踏まれる音がした。
「あん? 人?」
が、次に聞こえたのは人の声。
南は思わず顔を上げた。
「こんなとこで何してんだ? あんた」
「……うっせぇ。あたしの勝手だ、死にたくなかったらどっか行け。ガキ」
街から外れた、こんな人の居ない場所で人と会うとは思っていなかった南は、一瞬だけ驚いた表情を見せる。
だが、すぐにそんな感情は消え、南は現れた少年に乱暴な言葉で返した。
「確かに、どこに居ようがあんたの勝手だな。じゃあ、ここに居んのも俺の勝手だ」
焦げ茶色の髪の毛。それを無造作に掻き上げただけのオールバックもどきの髪型。
見た感じだと年下なのに生意気な口ぶり、いつもの南であれば一発ブン殴っている所だが、今はどうでもいい。
ここに居れば巻き込んでしまうかもしれない。南はともかく、この場から少年を離れさせたかった。
「ん? あんた、つかれた顔してんな」
一瞬、少年は鋭い眼付きで南の顔を見て。
小さく鼻で笑いながらそう言った。
「ハッ……てめぇもこうなりたくなきゃ、さっさと家に帰んな」
釣られて、という訳じゃなく。南は少し強がるように、少年に鼻で笑って返した。
ただ、目は一切笑っていない。目下には濃い隈が出来て、瞳の光は消え失せて、表情に生気が無い。
「今にも死にそうな目ぇして。そんなんになる前に誰かに相談でもすりゃあいいのに」
「あぁ? なんも知らねぇガキが適当なクチ利いてんじゃねぇぞ……! 何が相談だ、そんな事したら変人扱いされて終いだ」
「変人扱いねぇ。こんな所で一人、死にそうな面で
「てんめぇ、馬鹿にしてんのか?」
「いんや、別に? ただ、死にそうになるなら誰かを頼ればいいじゃねぇかと思ってよ」
「あたしにだってな、意地があんだよ! そんな情けない姿を見られたら、いい笑いもんだ……」
「生きてっから意地を張れんだろ。格好の為に意地張ってんのに、その意地で死んだらそれこそ笑いモンだ。意地張らねぇで生きても、意地張って死んでも、どっちにしろ笑いモンなら生きた方がいいだろうが」
鼻を小さく鳴らして、少年は前髪を片手で掻き上げる。
小馬鹿にしてと言うより、呆れの色を強く見せて。
「それに死んじまったら、笑うヤツより泣くヤツの方が多い。それは耐えられるモンじゃねぇぞ」
「そんなヤツ、いねぇよ」
「あん?」
「ウチは一人ぼっちだ。家に帰っても誰もいねぇ。珍しく両親が二人揃って家に居たかと思えば、口うるさく喧嘩だ」
南は視線を落とし、表情に影を作る。今では家に帰る事が殆んど無い。帰っても意味が無く、居場所が無いからだ。
自分が意識不明の重体に陥っていても、両親は責任の押し付け合いをしていた。優先したのは娘の心配より、世間からの目。
きっと南が死んでも両親は泣かず、世間からの印象が険悪になる事を嘆くだろう。
心配してくれる両親も居ない。悩み事を相談できる頼れる友人も居ない。安心できる場所も無い。もう、生きてる必要も……。
「それとも何か、お前が泣いてくれるってか?」
「今さっき知ったばっかで、ろくに話してもいねぇ人が死んで泣く奴がいると思うか?」
「……だよな、何言ってんだか、あたしは」
霊に憑きまとわれて疲弊しきり、衰幣した精神と心細さからか。
南は自分が口にした言葉に、髪の毛をくしゃりと握って溜め息する。
「ただ、後味は悪ィな」
「え?」
「次の日の新聞に死亡事故で見た顔が載ってたら、飯を旨く食えやしねぇ」
まさかの、予想から外れた返答。
南は思わず顎を上げると、少年はわざとらしく、そして面倒臭そうに頭を掻いていた。
「そんなんになってる原因はあいつか」
言って、少年はおもむろに顔を横に曲げる。。
南から見て左の方。雑木林の奥。木と木の間からこっちを覗いている、奴へと目を向けていた。
「なんとまぁバランス悪ぃ体したジジイだな。情報通りだ」
「ッ!? またあたしを狙って……いや、それよりてめぇ、アレが見えんのか!?」
「そりゃこっちのセリフだ」
少年は目だけを向けて、声を高くする南に平坦な声で返す。
南が霊を視るようになってから、初めての同じく霊が視える人。落ち着いては居られなかった。
「霊視の制御が出来ねぇで霊が視えてる状態になってんな。それについては後で任せりゃいいか」
「おい、答えろよ! なんでてめぇもアレが視えんだっ!?」
「あー……そういう奴等を相手にする仕事をしてんだ。バイトだけどな」
南の問いに少年は少し言葉を詰まらせた後、まぁ視えてるならいいか、と呟いて。
「良かったな。今日は久々にぐっすり眠れるぞ」
「ちょ、待てよ! 仕事って……」
「ま、そこで待ってろ。すぐ終わる」
少年は小さく笑って見せ、老爺が居る雑木林の方へと向かって行く。
丸まった背中で、ジーパンのポケットから軍手を取り出しながら。
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