第五十一話 切掛 ‐アコガレタユメ‐
◇ ◇ ◇
えーんえんえん。えーんえんえん。
声が聞こえる。子供の泣き声。女の子の泣き声。
茶色い髪を束ねたポニーテールに、眼鏡を掛けた少女。年齢は見た目からして小学生低学年くらい。
軽く握った両手で眼鏡下の両目を塞ぎ、声をしゃくれさせながら涙を流していた。
『ひっく、っひ……』
肩を上下させ、涙を拭い手で擦られて目の周りは真っ赤で。
幼い少女は必死に訴え掛ける。周りに、皆に。
『ほんとうだよ! ほんとうにいるんだもんっ!』
暗い暗い外。とうに陽は落ち、空は真っ暗。
真夏の時期でありながら、冷たい空気が漂い、まるで異空間のように周りと空気が違う。そこは――――墓場。
近くの川原で花火大会があって、仲が良い友達数人と行ってきた帰りでの出来事。
花火でテンションが上がり、話も弾み。帰り道の途中にある古い寺にある墓場で、夏の風物詩でもある肝試しをする事になった。
昼間と全く違う雰囲気に戸惑い恐怖を感じながらも、子供達は好奇心と遊び心で墓地の敷地内を歩き回ってはしゃぎ遊ぶ。
しかし、本来ならただの肝試し。いつもと変わらない遊びの一つで終わる筈だったのが、今日はそうじゃなかった。
肝試しが終わった後。その帰り道で、ある出来事が起こった。
『ほら、あそこ! あそこのでんちゅうのうしろ!』
眼鏡の少女は友達に言いながら、電信柱の一本を指差す。
だが、その先には何も居らず、何も無く、何も見えず。風に葉が撫でられて揺れ、木々の間の先にはもっと暗い闇が続くだけ。
『なんかいもみたけど、だれもいないじゃんか』
『ほら、ほらあそこ! ずっとこっちをみてるよ!』
『どこだよー、さっきからみてるけどなんもないぞ』
『だからあそこ! おはかからずっとついてきてる!』
少女が再度指差すも、他の友達は呆れ始めてまともに相手しなくなって。
初めは皆を驚かそうと言ってると思い、周りもそれに乗って怖がったりはしゃいだりしていた。
だが、肝試しが終わって墓場から出て時間が経つ。なのに、まだ言い続ける少女に、友達はしつこさを感じ呆れて始めていた。
それもそうだろう。何も無い、誰も居ないのに何度も言われて、時間も夜中な上に遊び疲れから眠気もやってきている。
子供達はそろそろ家に帰ってお風呂に入り、温かい布団で眠る時間である。
『おとこのひとがこっちをみてる!』
しかし、言い換えるなら。見えないからこそ、子供達は恐怖せず危険を感じずに済んでいるのだ。
見えないから何も知らず。感じないから何も思わず。信じないから適当に対する。
そして、見えてしまうから……その存在を見て認識してしまったから。少女は恐怖し、身近の危険に泣き、皆に訴える。
その“存在”が危険なモノだと、直感で解ったから。
『もういいってー。はやくかえろうぜ』
『ま、まってよ……!』
言って、少女の友達は先を歩き出す。
花火が終わってからかなり時間が経っている。これ以上遅くなると親に怒られるのもあって、皆は自分の家へと向かう。
一人残された少女が、友達を追い掛けようとした瞬間。悪寒がして後ろを振り向くと。
『ひっ……!?』
短く、小さな悲鳴。
さっき五十メートルほど先の電柱の影に居た筈の幽霊が、気付けば十メートル先の曲がり角まで近付いていた。
右半身だけを壁から覗かせて、腰を曲げ、不気味に笑い、半透明の体が蜃気楼のように揺れる。
少女は友達のもとへ追い掛けようとするも、恐怖から身が固まり、足が
幽霊と目が合い、口元を歪ませる。にたぁ、と。粘りつく様な笑みで。
『ひ、っい……!』
幽霊が動き、今まで見えていなかった体半分を現すと。少女は血の気が下がり、恐怖から顔は真っ青になる。
露になった幽霊の顔半分は、それは悲惨なものだった。皮が剥がれ、眼球が垂れ落ち、頭蓋は割れて脳が溢れている。左半身もずたずたで、肉も皮も骨もぐちゃぐちゃ。
小学生の子供には衝撃が強すぎる姿。スプラッター映画でグロテスクに慣れた人でも口を抑えてしまう成れの果て。
『い、いや……来ないで……』
ゆっくりと近付いてくる男の幽霊。
少女は大声を上げたくても声は出ず、怖さのあまり体は動かない。掠れた小さな声で拒否するだけで精一杯だった。
そして、もう目前。距離だと五メートルも無い。アレが体に触れたら、助からない。少女は直感でそう思った。
頭の中でお母さんとお父さんが過ぎった、その時。後方に腕を引っ張られて、尻餅を突いた。
『どっかいけ! こっちにきても、おまえはいきかえらないぞっ!』
驚きと戸惑い。一瞬、男の幽霊に何かされたと思ったが、そうじゃない事はすぐに解った。
地面に座り込んだ少女の前に、一人の少年が立っていたから。隣に住む、同い年の友達が。
『あっちいけ! おまえはもうしんだんだ!』
少年は幽霊の前に立ち、怖気もせずに言い放った。
幽霊にとっても少年の行動は予想外だったらしく、一度動きを止めて睨み付ける。
少女には少年がいつもより力強く見えて、さっきまで体を縛っていた恐怖が弱まった気がした。
何か見えない壁が出来て、恐怖という強風から守ってくれているような。不思議と気持ちも落ち着いて、体も動くようになっていた。
『だめだ、ぼくじゃなんもできない……』
しかし、少年はすぐに苦虫を噛み潰したように顔を顰める。自分にはどうにも出来ないと諦めと悔しさから奥歯を噛み締めて。
幽霊は再び歪んだ笑みを浮かばせ、ひき肉状態となった左半身を引き摺りながら接近してくる。
『たって! はやくにげるよ!』
『う、うんっ!』
少年は少女へと振り返り、腕を掴んで叫んだ。
体が自由になった少女は返事と共に立ち上がり、幽霊に背を向けて一気に走り出す。
歩き慣れた道路。見慣れた景色。住み慣れた街。家まであと少しの筈なのに、酷く遠く感じる。
走って走っても家が見ない。いくら和らいでも恐怖心は消えず、後ろから追ってくる
『はっ、はっ、はっ! おとこのひと、まだついてくる……!』
『うしろをみないではしって!』
少女に話す時にちらりと後ろを見ると、幽霊は先程までのゆっくりな動きから一転。素早く体を左右に揺らし、気持ち悪い動作で追ってきていた。
――――ぞる、ぞるぞるぞる。
肉をアスファルトで擦りおろし、肉片を散らかせながら追ってくるその様は異常で異様。少女は改めて男が人知人外のモノであると思い知った。
距離は段々と詰められ、このままではいずれ追い付かれてしまう。だが、少年と少女の家にはまだ着かない。
ペース配分など考えず、ただがむしゃらに走る。走って、逃げて、幽霊から離れようと。
『わっ!?』
『きゃっ!』
丁字路を左折した所で。少年は何かにぶつかって地面に転んでしまう。手を繋いで走っていた少女も同様、一緒に倒れて声を上げる。
幽霊から逃れようと全力疾走していれば、曲がった角の先に何があるかなんて確認する余裕は無い。転んだ衝撃の痛みに構う暇なんて無く、同時に身に迫る危険と焦燥から頭が混乱してしまう。
幽霊はすぐ後ろまでやってきている。転んでしまった今、奴から逃げる事はもう不可能となってしまった。
あの幽霊の怨念は強い。黒く、深く、醜い。取り憑かれれば確実に呪い殺され、自分もあの怨念に飲み込まれてしまう。
どうしようか、どうすればいいか、どうしたいのか。少年は混乱した頭を無理矢理に回転させ、今、自分がすべき行動を導き出す。
せめて、隣で怯える幼馴染だけでも逃がさなければ……と。少年は決意し、幽霊が追ってくる後方へと身体を起こす。
霊感がある自分なら少しは抵抗が出来て、少女を逃す位の時間は稼げる。
霊感はあっても祓う術も知恵も持っていない。だが、せめて気持ちだけでも飲まれないようにと幽霊を睨み付ける――――が。
『あ、れ?』
もう目前にまで迫っている。そう考えていた予想は外れ、少年の口から無意識に声が出た。
こっちを忌々しそうに
何かを警戒し嫌悪するように、歪な笑みを浮かべていたのが、今は醜顔を晒して立ち尽くしている。
そして、少年は気付いた。幽霊が見つめているのは自分ではなく、自分の更に後方だというのに。
『こら、
むんず、と。服の襟首を掴まれ、少年は強制的に振り向かされた。
そこに居たのは二人の大人。高身長で鍛えられた体躯の男性と、眼鏡を掛けた長い黒髪の女性。
それは供助と呼ばれた少年の両親だった。
『おとっ、おかあ……』
『良かった、
少年の父親は服から手を離し、母親は倒れていた少女を起こして土埃を払ってやる。
『あ、あの……おじさん、おばさん! じつは……』
『ほら、和歌ちゃんのお母さんとお父さんも心配しているわ。早く帰りましょ』
『で、でも、あのね……こわいゆうれいにおいかけられてたの!』
『幽霊?』
『うん……あそこに』
少女が指差す先に、未だ動かず睨み付けてくる男の幽霊が居た。ギリギリと奥歯を鳴らし、眉間には幾重にも皺と影を作り出している。
少年の母親と父親、二人はその方向を一瞥するも、すぐに少女へと目線を戻した。
『幽霊なんて居る訳無いでしょう、見間違いじゃない?』
『ほんとうに、あそこにいるんだもん……!』
『子供はもう寝る時間よ。眠くて夢でも見てたんでしょ』
少年の母親はくすりと微笑し、少女の頭を撫でた。
『ねぇ、きょうくんもみえてるよね!? ゆうれいにあっちいけって、いってたもん!』
『ぼくは……』
本当の事だと、嘘なんかじゃないと涙目で訴える少女は、同じ物を見ていた少年に助けを求める。
動けなかった所を助けてくれて、一緒に逃げてくれた少年に。
だが、しかし。
『ぼくはただ、のどかちゃんをひとりだけにするのがかわいそうだったから、みえるふりをしただけだよ』
『え……?』
『ゆうれいなんて、いるわけないじゃん』
『……っ!』
呆れるような口調と少し小馬鹿にするような感じで、少年は少女に答えた。けど少年は、悲しそうな顔をする少女を直視する事が出来なかった。
可哀想だから、違う。嘘に付き合ってられないから、違う。疲れたから、違う。
少女に嘘を吐いた罪悪感から、目を合わせる事が出来なかったのだ。
『さぁ供助、和香ちゃん、帰るわよ。明日の朝もラジオ体操があるんだから、早く寝ないと』
『うん』
『……』
女性は少年と少女、片手ずつ手を繋ぐ。
少女は幽霊の事を信じてもらえなかった事と、見えていると思っていた少年も結局は見えていなかった事に、ショックで無言で頷いた。
『
『あいよ。鈴木さんによろしく』
『お風呂のお湯がぬるくなる前に帰ってきてよ』
『さっさと帰って供助と入るさ』
※ ※ ※
バチンッ。そんな物が弾けたような音。痛々しい音。頬をビンタされた、音。
『供助! お母さん、いつも言ってたよね!? 遊びでそういう事をするんじゃないって!』
『ごめん、なさい』
少女を家に送り、少年も自身の家に着いて、茶の間。
普段は感情を激しく表に出さない彼女が、珍しく怒りを見せたいた。
『恨みに縛られた霊はどれだけ危険か、昔から知っているでしょ!? それに供助は霊感が強い分、いけないモノを引き寄せてしまうって教えたでしょう!』
『……うん』
『さっきみたいな怨霊に目を付けられて、自分だけじゃなく友達まで危険な目に合わせてしまう。口を酸っぱくして言ってたのに!』
『……ごめんさい』
少年はジンジンと痛み、熱くなった頬を押さえて俯く。
ずっと前から両親に言われていた。霊が集まりやすい場所には行ってはいけない。遊びでそんな所に言っては駄目だと。
理由は今、少年の母親が言った通り。遊びでは済まされなくなるからだ。
『一体どこであんなモノを憑れてきたの?』
『こうえんちかくにあるおてらの、はかば』
『あそこ、か……はぁ、花火に行くって言うから出掛けるの許したのに』
『ごめんなさい』
少年の母親は腰に手をやり、
何が良い事で、何が悪い事か。良い事した時はちゃんと褒めて、悪い事をした時は理由を教えてしっかり叱る。怒るのではなく、叱る。
しかも、今回の件は一般常識からは外れ、霊感を持ち、怪異や怪奇と接する事が多い少年だからこそ真剣に叱り、教える。
同じ霊能力者として、周りには居ない数少ない理解者として。そして、少年の親としての勤め――――愛情の表れ。
『ままま、香織、とりあえずそこまでにしといてやろう』
『少し遅かったわね、生護』
『ちょいと鈴木さん
少年の父親である生護が、遅れて家に帰ってきた。
今までの会話、そして、たった今少年の父親が言った言葉。
そう、あの場に本当は幽霊が居たのだ。少年も少年の両親も、はっきり見えて認識し、その存在の危うさも気付き警戒していた。
しかし、必死に幽霊の存在を訴える少女に見えない、居ないと嘘を吐いたのか。それには理由がある。
子供の頃は多感で、知らず知らずの内に幽霊や妖怪を見ている場合が多くある。だが、それは幽霊と認識していなかったり、接触する事が無いから危険に及ばずに済む。
だが、人が幽霊を幽霊と気付いて、幽霊が人に気付かれた事に気付けば……危険は一気に増す。霊は自分に気付いてくれた人間に取り憑く場合が多い。
特に地縛霊や浮遊霊は、自分が見えている人間に助けを求め言い寄り、憑きまとってくる。
一人で居る時に何か空耳が聞こえた時、返事や過度な反応をしてはならない。霊に対してやってはいけない行動の一つに、そういうのがある。
それは霊が自分に気付いて欲しくて近くの人に話し掛けているからで、それに返事をしたり何度も反応して相手してしまうと、霊が自分の存在に気付いてくれたと人間を連れて行こうとする。
先程の悪霊も、自分を見えていた少女を憑き殺して生気を奪うか、身体を乗っ取ろうとしたいた。霊の中には、生きた人間を憑き殺して自身の力を強めれば生き返れるを思っているモノも少なくない。
事実そんな事は無いのだが、人間を憑き殺して力を蓄えた霊は、次第に苦しみ、悩み、死んでいく人間の様を見るのが楽しく、そして喜びへとなり、目的も生き返る為からただ楽しむだけに変わる。よくある霊が悪霊になる過程の一つ。
そして、一度霊を見て霊の存在を確かなモノとして認識してしまうと、そのまま意識して見るようになってしまい、霊を引き寄せてしまう原因になってしまう。
霊が見えるから霊を祓える訳では無く、霊感があっても必ず霊を祓える力があるとは限らない。無防備で対抗手段を持たない子供が抑制無く霊を見てしまう事がどれだけ危険なのか、昔から少年は身を持って知っている。
だから、嘘を吐いた。幽霊なんて居ないと。自分が霊の存在を肯定して、少女が幽霊の存在を強く意識しないように。
『我が子を心配して叱るのはいいけど、今日はこの辺でよしとしよう』
『あのね、こういうのはしっかし教えないといけないのよ。理解してやれれる人がちゃんと! じゃないと、今度は本当にどうなるか解らな……』
『解ってるよ。誰も見えない聞こえない、誰も助けてくれない。だから、自分で自分を守るか、危険な事は避けるように教えるのは大切だ』
『そうよ。だから、こうして……!』
『供助はちゃんと理解してるよ。理解しているから、今回の件が起きた』
『どういう事よ?』
『供助も男の子だって事さ』
父親は小さく笑い、供助の頭にポンっと手を当てた。
『供助、肝試しに行ってあの霊を連れてきたって聞いたけど……お前から行こうって言ったのか?』
『……ううん。ぼくはやめようっていった』
『じゃあなんで一緒に行ったんだ?』
『ぼくはかえるつもりだったんだよ。でも、おてらのまえまでいったらいやなかんじがして……』
『それで供助も肝試しをしたのか』
『……うん。みんながしんぱいで、もしなにかあったらぼくがなんとかできるとおもって……』
『うん』
『おもったんだけ、ど……にげるのにせいいっぱいで……』
『そうか』
父親は少年の言葉を聞き、少年の頭をくしゃくしゃと撫で回す。
そして、ひと呼吸の間を空けて。父親は屈み、少年の視線に合わせて口を開いた。
『供助、和歌ちゃんからの伝言だ。“きょうくんはみえていなかったかもしれないけど、たすけてくれてうれしかったよ。ありがとう”だってさ』
『――――ッ!』
それを聞いて、少年は両手を強く握る。握って、堪えていた涙がぽろぽろ溢れ落ちた。
『くやし、かったんだ……! のどかちゃんがないていて、こわがっているのになにもできなかったじぶんが!』
自分の腑甲斐無さ、無力さ、歯痒さ。現実と理想の差。少年は感情のままに言葉を吐き出し、悔し涙を降らせる少年。
何も出来なくて悔しかった。辛かった。悲しかった。自分にもっと力が、霊を祓える方法を持っていたら。
『おとうさん! ぼくもおとうさんやおかあさんみたいになりたい! こまっているひとを、おばけからまもってあげたい!』
『供助、本気で言ってるの?』
『ほんきだよ! ずっとまえから、そうおもってた!』
少年の告白。両親の様になりたいと、自分も強くなりたいと。
それに母親は真面目な表情で聞き返す。
『供助は霊が見えるし、触れる事が出来るわ。それで昔から悩まされて困っていたでしょう? そうした心霊現象で危険な事に巻き込まれないように、私達は供助に霊を見ないで済むよう霊視の制御方法を教えたわよね?』
『……うん』
『私達は供助が普通の人間として、周りと変わらない人として生きられるように、って……思ってたわ』
母親は長い黒髪を耳に掛け、父親と同じくしゃがんで供助を真っ直ぐ見つめる。
『皆と一緒に、皆と一緒の景色を見て、皆と一緒の世界で生きる事も出来るのよ? 霊が見えるから、霊感があるからって必ずこっちの世界に入る事は無いの。それでも――』
『それでも! それでもぼくはなりたい! おかあさんとおとうさんみたいに!』
『霊を相手しなきゃいけなくなって、前みたいに嫌な思いをするかもしれないのよ? それでもいいの?』
『いいよっ! みんなにはできなくて、ぼくしかできないんでしょ!?』
真っ直ぐ見つめてくる母親に、少年も真っ直ぐ見つめ返す。その目には確かな決意と、強い意志。
母親は少年の目を見て、何を言っても変わらぬ断固たる強意であると受け取り理解した。
『……解ったわ。明日から除霊方法を教えてあげる』
『ほんとうっ!?』
『だから、今日はもう遅いから寝なさい。明日もラジオ体操あるでしょ』
しゃがむのを止め、足を伸ばした母親は腕を組む。少年の意を汲み、自分達と同じ道を歩く事を……認めた。
出来るならば普通の人として。自分が送れなかった生活を、我が子には送らせてあげる可能性を見せていた。与えていた。
だが、少年はその道を選ばず。両親と同様の道を、一般の道から外れた別路を歩くと決めた。
ならば、その道の歩き方を教えてやる。出来る事、教えてやる事、その全てを。技術。知識。方法。基礎。応用。自分達が知る限りの事、全部を叩き込んでやる。
それが我が子にしてやれる事で、生き延びる為に必要な事。道を先に歩く者として、何より少年の親として。
少年が選んだ道の歩き方を、教えてやるだけ。
『良かったな、供助。けど、
『だいじょうぶだよ! ぼくがんばるから!』
『そうか。じゃあ明日に備えて寝ないとな』
『うんっ』
『けど、その前に……風呂だ。一緒に入るか!』
『うんっ!』
そう言って、父親は少年の頭を撫で回した。
大きな手で、くしゃくしゃと、ぶっきらぼうに。動かすと右手首に付けられた銀色の腕輪が鈍く光る。
そして、少年は笑って首を縦に振った――――。
◇ ◇ ◇
「おおぅ!」
素っ頓狂で間の抜けた声。それが目を覚まして最初に聞こえてきたものだった。
聞き慣れた声で、誰のものかはすぐに解ったが無視し、ゆっくりと身体を起こす。
「起こそうと思ったらいきなり目を開けよって、ビックリしたではないかっ!」
首を曲げて右方向を見ると、猫又がまるでシェーみたいなポーズで固まっていた。
これで両手の親指と人差し指、小指を立てていたら、シェーではなくどっかの1/2だったろう。
「俺ぁ……寝てたのか」
「そうだの。昼間はまだ暑いとは言え、もう九月半ば過ぎ。さすがに夜は冷えてくる。風邪を引いては大変だと思い、そろそろ起こそうと思っての」
「……そうか」
「ぬ? ボーッとして、寝惚けとるのかの? それとも寝冷えして風邪でも引いたかの?」
「あ? あぁ、いや……なんでもねぇ。大丈夫だ」
「まぁ、馬鹿は風邪を引かんと言うからの」
「うっせ」
猫又の馬鹿にする冗談に一言で返し、供助は頭を搔く。
そして、今見ていた夢を思い出す。思い出して、父親に撫でられていた頭の感触をなぞる様に……髪の毛をくしゃりと掻き上げた。
昔の夢。子供の頃の夢。自分が払い屋を目指す切っ掛けになった時の、記憶。
あの頃は純粋で、希望を持っていて、綺麗事を言っていた。霊や妖怪に困っている人を守りたい、なんて言っていたのだから。
夢を思い返して供助は、自嘲するように鼻で笑った。
「急に笑いおって、面白い夢でも見ていたのかの?」
「……いや」
子供の頃みたいな真っ直ぐで綺麗な理由は消えてしまって。今じゃ払い屋をやっている理由は声を大にして言えるよなものではない。
困っている人を助けたいと言っていた子供の影はどこに行ったか。今の供助を子供の頃の供助が見たら何と言うだろうか。
なんせ供助が今を生き、払い屋として行動している理由が――――仇討ちなのだから。
「悪い夢だ。信じたくねぇような、悪い夢」
そう、まるで悪い夢。昔思い描いていた未来とは全く違って、幸せだった日常が変わって、大好きだった両親が居なくなっている。
さっき夢の中で見た、まだ夢見ていた子供の頃からすれば……今のこの現実は、夢見てた夢からかけ離れたこの現状は。
泣いて否定したくなるものだろう――――きっとこれは悪い夢なんだ、と。
「信じたくないような悪い夢? ふぅむ、最後まで残しておいた好きなおかずを誰かに食べられてしまった夢とかかのぅ?」
「それぐれぇの夢で悪夢になるお前が羨ましいわ」
供助は深く大きい溜め息を一つ。
悩みがなさそうで、あったとしても小さそうな猫又に脱力して肩を落とした。
「供助、明日も学校なのだろう? 風呂に入って早う寝直した方がいいんじゃないかの?」
「あー、今ほど学校が面倒臭いと思った事ねぇ」
げんなりとして、また頭を搔く供助。
夕飯の弁当を食べ終え、予備が切れた商売道具の霊印入り軍手を用意したまでは覚えている。
その後、寝っ転がってテレビを眺めていた辺りから記憶が無い。文化祭準備で疲れが溜まっていたのか、知らぬ間に寝てしまったようだ。
「風呂入って部屋で寝る――――」
供助が膝を曲げ、立ち上がろうとした……その時。
今までに程はっきりと、まるで耳元で鳴らしたみたいに大きく。あの音が鳴り響いた。
「――――ッ!」
チリン。
「初めてだ……こんなに強くはっきりと聞こえたのは」
片耳を押さえ、供助は聞こえてきた異音に表情を曇らせる。
物心付く前から聞こえていた、鈴の音。普段は弱々しく、小さく聞こえる程度なのに……今のは頭に響く程に強く鳴った。
いつもとは違う出来事に、供助は立ったまま固まり考え込む――――が、それはすぐに終わった。
「……ッ!? 供助っ!」
「なん、だ……こりゃあ?」
供助の思考が、一瞬にして鈴の音から別のモノへと向けられる。
背中に悪寒が走り、全身に鳥肌が立つ。とてつもなく強い不快感。反射的に警戒態勢を取り、額には冷や汗が浮かぶ。
コールタールのようなドロドロした妖気。供助が払い屋を始めてから感じた事も無い、異様過ぎる気配。
警戒信号は青から黄色を吹っ飛ばし、一気に赤信号。真っ赤に点滅して警報まで鳴っている。
猫又も同様に感じ取ったようで、突然の事に戸惑いながらも妖気を纏って危険に備えていた。
「なんつう妖力だ、そうとうデカいぞ……!」
「確かに妖力も強い。だが、妖力よりも危惧すべきは……激しく渦巻く怨念の方だの」
あまりに禍々しいその怨念に、猫又は眉間に皺を作る。
供助や猫又に直接向けられたモノでは無いというのに、あまりの強さに手の平がじっとり湿る。
突風のような無差別の放出。誰に向けられた訳でもなく、ただただ広がり流される妖気――――怨念。
だが、全身の毛が逆立つ激しい妖気は、次第に弱まっていく。全開だった蛇口を閉めていくように。
その間は僅か一分足らず。決して長い時間ではなかった。だと言うのに、二人の緊張感と疲労感はとてつもない。
「なんだったんだ、今のぁよ」
「解らん……しかし、悍しいものだったのは確かだの」
あの強大で巨大な妖気が嘘だったように、今は何も感じない。
だが、決して嘘ではない。額に浮かんだ冷や汗が、まだ残る鳥肌が、未だ解けない警戒が。それを物語っている。
シン、と静かな部屋。台風一過の如く、通り過ぎれば何事も無かったように平常に戻る。
何も感じなくなった妖気の原因が本当に、“何事も無く過ぎ去ったか”は別の話だが。
「ッ、と」
「ぬ……!?」
固まっていた二人の緊張を解いたのは、供助の携帯電話だった。
テーブルの上に置かれていた携帯電話が、着信音を鳴らしながら震えている。
一瞬、何事かと驚いて身構えたが、その必要はないとすぐに解いた。
「……供助、鳴っておるぞ」
「わあってるよ」
「何と言うか、このタイミングだと……」
「あぁ、悪ぃ予感しかしねぇな」
流れる着信音。震える携帯電話。光る画面――――表示される『横田』という名。
供助は僅かに眉を中央に寄せ、険しい顔で電話に出た。
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