第六話 弁当 ‐ハラノムシ‐
意識が、少しずつ覚醒していく。
閉じていた瞼を薄ら開けると、よく見えなかった。けど、明るい場所に居る事は分かった。
体に力が入らない。上手く動かせない。疲労感が酷い。さっきまで寝ていたのに、まだ眠い。体中が痛む。生きた心地がしない。
だが、生きてる。生きた心地がせず死に心地でも、生きている。
自分が生きている事をこうして生きて確認して、安堵した。
そうか、生きてるのか。助かったのか――――と。
声を出すのも億劫で、心の中でそう呟く。
そして、疲労感と眠気に負けてもう一度意識を失いそうになった所で。
彼女の意識は完全に覚醒した。
「ッ!?」
薄ら開きだった瞼は開ききって、その場に起き上がろうとするも、痛みでそれは叶わなかった。
自分がまだ生きている事は確認出来た。だから、次は今の状況と状態を確かめる。
座布団か何かの上に寝ていて、体には毛布が掛けられていた。
木目調の天井に、床は畳。木製のテーブルや戸棚が目に入り、よくある日本家屋の居間だと、首だけ上を動かして確認する。
意識が朦朧としていてよく覚えていないが、気を失う前は外に居た筈だった。
となると、誰かが自分を拾ってくれたんだと結論に至るまでそう時間はいらなかった。
世知辛い今の世の中。怪我をして死にかけの汚い野良猫を拾ってくれるなんて、現代では珍しく人情ある人がいるもんだ、と。
毛布の暖かさに身を預けながら彼女は思う。自分の場合は人情とは違うか、とも。
こんな自分を拾ってくれるという事は、まぁ、それなりの理由があるんだろう。
例えるなら、自分を見付けたのが小さい子供で、その子供にせがまれ止む無しに親がしぶしぶ連れ帰ったとか。一人暮らしの女性が淋しさを紛らわす為とか。あるとしたらこんなところだろうか。
兎にも角にも、有り難い。助けた理由が人情でも同情でも気紛れでも、今は身体を休めて怪我を直すのが第一。
とりあえずはこのまま、普通にしていれば問題は起きない。彼女は今の状況を利用出来ると考える。
理由はどうであれ自分を助けてくれた人の温情を利用するというのは言葉が悪いかもしれないが、それだけ今の状態がギリギリなのだ。
だが、感謝はしていた。死ぬかもしれなかった自分を救ってくれたのだから。
「っちち、あっちいな、クソ!」
無音無声だった部屋に、声が聞こえてきた。少し慌てて苛立つような声。
反応して、無意識に声がしてきた方を見てしまう。
すると、開けっ放しにされていた引き戸の向こうから、人が一人現れた。
焦茶色の髪を掻き上げた、一人の少年。熱そうにスーパーの弁当を持って部屋にやってきた。
そこで不意に、互いの目が合った。
「おぅ、気が付いたか」
少年は彼女を見て、特に感情を表すでもなく、朝起きた人に向けるような感じでそう言った。
別に心配するでも、安堵するでも、慌てるでもない。ごく普通。彼女が目を覚ます事を知っていたかのように。
「って、だからあっちぃんだっつの!」
むしろ少年は、彼女の事よりも手に持っていた弁当に対して感情を向けていた。そのあまりの熱さに。
急いでテーブルの上に弁当を置き、両手を振って熱を逃がす少年。
その少年を見て、彼女は。自分がした予想にかすりもしなかったと、心の中で呟く。
小さい子供にせがまれ止む無しに親がしぶしぶ連れ帰ったとか。一人暮らしの女性が淋しさを紛らわす為とか。見事に外れた。
正解は小さい子供でも一人暮らしの淋しい女性でもなく、現れたのは温め過ぎた弁当に半ギレする少年。これは予想外だった。
「よう、具合はどうだ?」
少年は彼女の前に胡座で座り、声を掛ける。
「公園でブッ倒れてるのを見っけて拾ってやったんだ、感謝しろよ」
首に掛けていたタオルで頭をがしがしと拭きながら、少年は言う。
よく見ると、少年の髪はかなり濡れていた。
「まぁ、ここが安全とは言い切れねぇけど安心はしていい」
少年は一人で喋り、彼女は無言のまま。
タオルで拭いてボサボサになった髪を、少年は両手で掻き上げ簡単に整える。
「んで、具合はどうなんだ?」
上は黒いタンクトップに下は鼠色のスウェット姿の少年は、胡座をかいた膝の上に頬杖して、最初に言った言葉をもう一度言う。
それに対して彼女は当初の予定通り、“このまま普通に”やり過ごす事にした。この状況で不自然でなく、当たり前で当然。常識で言う普通に。
だから彼女は、少年にこう返事する。
「……にゃあ」
短く解りやすく簡潔に。今の一言ほど全てを語る一言はないだろう。
聞いての通り、猫の鳴き声。見ての通り、少年が話しかけているのは猫。黒い猫、黒猫。
そう、少年――供助が話し掛けていた相手は、猫だったのだ。
一般世間では猫はニャアと鳴く。何もおかしい事などない。ごくごく普通の事。
だから彼女はこう答え、こう鳴く。にゃあ、と。
「……ちっ」
供助は小さく舌打ちし、後頭部をがしがし搔く。
「まだ手当してから一時間も経ってねぇしな」
独り言を言いながら立ち上がり、弁当を置いたテーブルの前に移動して座り直す。
その様子を見て、黒猫は一息つく。とりあえずは大丈夫そうだと。
猫である彼女は、猫である事を伝え、少年こと供助に猫であると認識させた。このまま猫である自分は、猫のまま猫である事を通して、猫として過ごせばいい。
特に問題もなく問題も起きないと思い、猫である彼女はもう一眠りしようと瞼を閉じていく。
まだ残る眠気に身を任せ、ゆっくりと。
「ま、明日にゃ喋れる位には回復してるだろ。妖怪だから治りも早ぇだろうしな」
――が、この言葉を聞いた瞬間。
「ッ!?」
眠気が全て飛び去り、閉じかけた瞼も一気に見開く。
安心は警戒に変わり、安堵は
彼女は飛び跳ねるように起き上がる。
――――同時。
ぼふん、という鈍い音と共に白煙が巻き上がる。
猫は煙に包まれ、姿が隠される。
「おー」
それを見て供助は、焦りもせず慌てもせず。
体操選手がバック転したのを見たような、特別驚いた訳でもない一言だけ。
居間の半分程に白煙広がるが、供助はマイペースに割り箸の袋を開ける。
「貴様っ!」
まるで消化器や小麦粉の袋をぶち撒けたように、白煙が立ち込める居間。
その白煙が発生した場所から声が聞こえ、白煙の原因が声を放つ。
そして、霧が晴れるように消えていく白煙の中から姿を現した声の主は。
「私の正体に気付いておったのか!」
先程まで居た筈の黒猫は姿を消し、代わりに現れたのは。
肩まで伸びた黒い髪の、二十代前半と思えるの女性の容姿。黒い和服に身を包み、つり上がった目尻に大きな瞳。
これだけで十分特徴的なのだが、これらよりも更に特徴的な部分がある。それは頭にある猫耳と、胴の最後部から生えている二本の尻尾。
そして、人とは違う、縦に尖った猫目のような形の瞳。
「祓い屋の類か!? 私を殺めに来たか!?」
「まぁ落ち着けって、近所迷惑だろ」
「普通の人間かと思うたら、まさか妖怪を知る者だったとはの!」
片膝を着き、右手は腹部を抑えて。隠し抑えていた妖気が放たれ、威嚇のように供助へと向けられる。
黒い着物を着た女性は警戒しきった目で供助を睨む。
「だから、声を落とせ。近所から苦情が来るだろうが」
「貴様の都合なぞ知らん! 問いに答えろ! 貴様は私を殺めに来た祓い屋かっ!?」
供助はまだ少し残る白煙を手で扇ぎながら、横目でテレビ等の電子機器が煙で壊れていないか心配する。
高い声を上げる女性に面倒臭さを感じ、思わず溜め息を吐く。
「じゃあ逆に聞くけどよ、お前を殺しに来た奴が怪我の手当てをすると思うか?」
「……ぬぅ」
腹に当てていた右手を軽く
「とりあえず落ち着け。せっかく傷の手当てしたんだから安静にしてろ」
「黙れっ! 誰が手当てしてくれと頼……ぐっ」
やはりまだ傷が痛むらしく、彼女は痛みに顔を歪める。
「ほれみろ。さっき言ったろ、安全とは言い切れねぇが安心はしていいってよ」
「そうそう信じられると思うか?」
「少しは信じて貰いたいねぇ。近所から苦情来たら面倒だしよ。ほれ、この通りだ」
供助は持っていた割り箸をテーブルに置いて、両手をひらひらと上げて敵意が無い事を表す。
だが、それだけで彼女の警戒を解く事が出来る訳もなく。まぁ、だよな、と。供助は一人ごちる。
「確かに霊や妖怪に関する仕事に関わってはいるけどよ、俺は祓い屋じゃねぇ。払い屋だ」
「私はお前の言葉遊びに付き合う気は無い」
「言葉遊びが出来る程、俺ぁ頭が良くねぇよ」
警戒して表情が強張っている彼女に対し、供助はテーブルに頬杖して怠けながら自虐する。
悲しい事に、供助の頭の悪さは自他共に認める程である。
「互いにやる事は妖怪退治や除霊と同じだけどよ、違う所があんだよ」
「ふん、どちらにせよ妖怪の敵には変わらんのだろ?」
「まぁ聞けよ。祓い屋ってのは金さえ出せば、相手が霊や妖怪の魑魅魍魎の類なら何でも構わず祓う奴等の事だ。中には相手を“消滅”させる奴もいるらしい」
「……!」
「成仏や除霊じゃなく、消滅だ。妖怪のお前なら意味は解るだろ?」
「……まぁ、の」
供助の話を聞き、彼女は表情を曇らせる。
この世には輪廻転生と言う言葉がある。死んであの世に行った者の魂が、何度もこの世に生まれ変わる事を言う。
だが、これはあくまで魂があっての場合。転生する魂、霊魂がなければ転生しようが無い。
供助が言った“消滅”と言うのは、そのままの意味である。
成仏はこの世に残る霊をあの世に送る。除霊はその場にいた霊を離れさせる。しかし、“消滅”は転生に必要な魂までも破壊する。この世とあの世、両方から消えて無くなってしまう。
幽霊、妖怪と関係無く。天国にも地獄にも行けず、ただ消滅する。存在が完全に無くなり消え去る。
それは、死ぬ事よりも残酷で恐ろしい事であると言っても過言ではないだろう。
「で、払い屋ってのは人間に危害を加える奴しか祓わねぇ。危害を加えていても、その理由や原因によっては祓う以外の解決方法を取るしな。祓い屋と違って、払い屋は必ずしも霊や妖怪を殺すのが目的じゃねぇ。互いに最も良い形で解決するのを基本としている」
「それで、貴様は後者だと?」
「一応な。まだ見習いだけどよ」
話を聞いても警戒したままの彼女に、供助は割り箸を手の上で遊びながら答える。
見習い、と言った所で軽く笑いを混ぜて。
「ふん……随分と綺麗な言い回しをしてはいるが、貴様は一言も妖怪を“殺さない”とは言っておらん。言ってたとしても簡単に信じはせんがの」
「別に隠すつもりは無ぇけどよ。ま、場合によっては殺す時もあるし、殺すのも珍しい事でも無いしな」
「やはりな……ッ!」
「だぁから、安心していいっつったろ。俺はお前に危害を加える気はさらさら無ぇよ」
進展しないこの状況に、大きく溜め息を吐く供助。
こんな状況じゃ弁当も食べられず、段々と面倒臭さが出てきて辟易する。
「それに殺すって言っても、強制的に成仏させるだけで消滅はさせないけどな。強制的に成仏ってのも矛盾してっけど」
「だが、その殺すかどうかは結局、貴様ら人間の都合で決まるのだろう……!」
「それは否定しねぇよ。人間の都合が良いように妖怪や霊を払ってんだからな、相手にとっちゃいい迷惑だろうよ」
以前、都市開発で山を削る際、元々住んでいた妖怪を追い出すという仕事があった。
人間の勝手で住む場所を追われた妖怪。山に居座り開発の妨害をすれば害のある妖怪として払われ、それが嫌なら山から離れなければならない。どう見ても人間の都合のゴリ押しだというのに、妖怪側が悪とされる。
それを知っている供助は、彼女の言葉に対して言い返しはしない。むしろ、肯定に近い答えだった。
「けどまぁ少なくとも、今の俺の都合だとお前は払う対象じゃないのは確かだ」
「証拠が無いな」
「腹に巻いてある包帯じゃあ不十分か?」
「……」
彼女は口をつぐむ。
少し開けた着物の隙間から覗ける、首や肩に巻かれた白い包帯。
服で隠れて見えないが、他に腕や足にも包帯が巻かれてあり、一番傷が酷かったのは腹部の大きな裂傷であった。
今も彼女が腹部を手で押さえているのを見ると、やはりまだ痛み、そう動ける状態ではないようだ。
「第一、お前を殺すつもりなら拾わずに見捨てるか、見付けた時に止めを刺してるっての」
「……ぬぅ」
「安心出来ねぇ信じられねぇってんなら、ここから出てって構わねぇよ。止めねぇし追いかけねぇ」
パキっ、と割り箸を割り、供助は左右対称に割れなかった割り箸の端を見て渋い顔をする。
「ただ、出て行く前に幾つか質問に答えて貰うけどな」
一向に進展しない状況に疲れたのと、空腹に耐えられなくなり、供助は我慢出来ずに弁当に手を掛ける。
「質問、だと?」
「そう警戒するなって。個人的なモンだよ」
透明な弁当の蓋を開けると、揚げ物の良い匂いが広がる。供助が開けた弁当はからあげ弁当。
中身は胡麻が振り掛かった白米に、からあげ、マカロニサラダ、スパゲッティ、ちょこっと漬物。
よくあるスーパーで売っている弁当。安さ故に決して豊富とは言えないおかずに、体に悪そうな色をした漬物。それでも空腹の供助にはご馳走に見える。
形の悪い割り箸を右手に構え、空腹を満たそうと唐揚げへと箸を向ける。
――――ぎゅるる、ぐぎゅぅぅぅぅぅううぅぅ。
なんと言えばいいのか。地に響く音というか、ある意味これ以上ない助けを求める声というか。
コントで使われる効果音と同じ位に見事な腹の虫が、鳴った。
「……」
「……」
供助は箸を止め、彼女は少し顔を赤くして目を逸らす。
一応言っておくが、今のは供助の腹の虫ではない。
「今の、お前だよな?」
「……なんの事だの?」
はて? と明後日の方を向いてしらばっくれる女妖怪。
時折ピクっと頭に生えた猫の耳が動く。
「……やらねぇぞ」
「い、いらんし! 欲しがっておらんし!」
ぎゅるるるるるぅぅぅぅ。
「……」
「……」
ぎゅる。
「だ、だから欲しがっておらんと言っておる!」
「いや、今のは俺の腹の音なんだけど」
「え?」
「え?」
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