抱擁の中で
ライラがあの時引き止めなければソフミシアはあの時点で死んでいた。間違いない。だからソフミシアを引き留めて山から引っ張ってきたことを後ろめたく思うつもりはなかった。けれども、もっとソフミシアの心を穏やかに保ちながら事を運べたのではなかろうかと思うのであった。思っているよりも絵を描いていない。絵を描いていれば殺伐な気持ちも忘れられたろうに。なんだか、ライラは悲しい気分になってきた。
ライラの落ち込みつつある気分をソフミシアはすばやく見抜いた。
「どうしたのだライラ、暗い顔になっているが」
「いえ、その、よく分からないのです。分からないのですが、今までのことを思い返していたら悲しい気持ちになってきまして」
「どうしてライラが悲しい気分になるのだ。それは私が死のうとしていたのを食い止めたから悲しい気分となっているのか」
「いや、決してそういうわけではなく、ミアさんの苦しんでいる様子がいたたまれなくて、今考えればもっとやりようがあったのではと」
「食い止めたから悲しい気分になっている、そういうことではないか」
「そうではないです。食い止めたこと自体に後ろめたさを感じているわけではありません。ミアさんを山らか降ろした後、宿での日々に思うところがあるのです。ミアさんは常に追い込まれていました。そこをもっと和らげられたのではと、今では思うのです」
「なんだその程度のことか」
「その程度ってどういうことですか。真剣に考えているのですよ」
「ライラは悩む必要がないってことだ。ライラは十分にやってくれた。私が何かしらに追い込まれているのは常なのだから、そこには慣れている。ライラは私の話し相手になってくれた、それだけで十分だ」
「でも、どう見たって慣れているようには思えなかったのですが」
「そりゃああなたがいたから。一人で全て抱え込む分には慣れているしあきらめもできているが、ライラがいていつもとは違う状況だったから」
そう言ってソフミシアはうっすらと笑みを浮かべた。
横からエッカが、ひどーい、と調子づいた声を上げた。
ライラは何も口にする言葉が浮かばなくて押し黙ってしまった。ライラがいたことでソフミシアは苦しめられたというのである。悲しい気持ちになりながらも考えたところで、考えようのないところが問題だったのだ。自分がいなければソフミシアは苦しまなかった、余計な手を出さなければ、ただ山から連れ戻すだけにとどめておけば、それでよかったのだろうか。
ソフミシアがおもむろにライラへ歩み寄ってきた。
「でも、ライラがいてくれたからこそ、今、私はここにいる。これは紛れもないことだ。ライラのおかげで、夢も希望もない私の人生に娯楽があることを教えてくれた」
「ミアさんは、私がいて、よかったのですか」
「だから言っただろう、ライラがいなければ私は全てを捨てていた」
ライラの目と鼻の先でソフミシアが止まった。ソフミシアの視線がライラをまっすぐ見据えた。そうしてから思いっきり抱きしめた。ソフミシアの頭の中に母の姿はなかった。母がしてくれたことを思い返すのではない、ソフミシアが抱きしめたいと思って、そうするための方法も知っていて、だからこそ実行に移したのだった。
ライラは私の命の恩人だ。これを親友と呼ばずに何と言おうか。
ソフミシアのぬくもりに包まれた上にそのような言葉を耳元でささやかれてしまえば、もはや、ああでもないこうでもないと考えを巡らさなくてよくなった。陰湿な部屋に新鮮な空気が取り込まれるかのように、ライラの中にわだかまる重苦しくて毒性の高い気持ちが、ソフミシアによって開けられた門戸から吐き出されるのである。代わりに入ってくるのは、よかった、だとか、うれしい、といった心地よい気持ちだった。
ライラの体にソフミシアのぬくもりがしみ込んでゆく。腕や体から伝わるほのかな温かさがライラに力を与えた。力はライラに新たな道を指示し、見たことのない道に足を踏み入れるだけの勇気を与えた。いわば悪夢に巻き込まれに行って、普通ではない環境に追い込まれて身の振り方もわからないような状況に陥ってしまっていたのが今までのライラだった。けれども抱えていた問題が一つの変化を迎えたこの瞬間、ライラの関心の向かう先はまだソフミシアがもたらした世界だった。
特に引っかかるのは、『抹消しようと』しているという言葉だった。ライラにとってその言葉は、この世界から一つの都市が消されてしまうという事態に陥っている、という風に聞こえた。
「ミアさんはどうするのですか。この先、もはや逃げ回るなんてしないのでしょう」
「ああ、これからはこちらが追い込む番だ。だがひとまず、ライラを送ってやるのが先だ。雨脚もだいぶ弱まってきたから近いうちに任を果たすこともできよう」
「私を送った後はどうするのですか」
「リアス島に向かう。まずは相手の真意、どうしてエリエヌを消そうとするのか、それをつかむのが先決だ。エッカも一緒に行動することになると思う」
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