ターン

 ソフミシアが不意に口を開いた、私を見ていて、という言葉には安堵したけれども、『今だ』と言ったら横に飛びのけ、という指示は要領を得なかった。どうして横に飛びのかなければならないのだろうか。ソフミシアは何を恐れているのだろうか。 

 言われるがままソフミシアを見続けていると、かっと目を見開いて件の言葉を口にした。指示の通りに横に飛びのいて、右半分を雨水に浸した。地面に落ちる衝撃で視界が揺らいで、押しつぶされた肺から息が飛び出してうめき声となった。 

 世界の横揺れがすっかり収まったライラの目に飛び込んできたのは、男の姿だった。見たことのない人相で、下襟のついて黒い服を身にまとっていた。面識のない黒服はついさっきまで二人のいた場所に向かって腕を伸ばしていて、手には細長いものを付けた拳銃を手にしていた。男の足元でソフミシアが腕を振りかぶっていた。 

 ソフミシアが男の顎めがけて強烈な一撃を与えた。脚力を駆使しての一撃は男を一瞬で倒した。拳銃が手を離れて、緩やかにくるくる回りながら宙を舞った。顎からの衝撃になるがままとなっている体はさながら中空にふわり漂っているかのようだった。男の身を置く時間が遅くなっている中、ソフミシアがいつしか背後に回っていた。ゆったりと後退してゆく体を迎え入れるようにソフミシアが腕を広げた。当然ながら彼女の腕は男を抱きしめるためのものではない、腕が絡むのは胴体ではなく首だった。首に腕がかかったかと思った矢先、顔が真後ろを向いた。体は正面なのに顔を見れば後頭部、奇妙な人間が地面に倒れようとしていた。

 ソフミシアは崩れ落ちつつある死体を今度こそ抱きしめた。自身よりもはるかに大柄な男を平然と持ち上げて片腕を肩に背負った。腹を刺されている人間がするとは思えない力技だった。だが、男を引きずってゆく姿は背負い上げる姿よりも痛々しさが感じられて、水たまりから体を起こしてぶらぶらしている腕を担ぐのだった。

「ミアさん、刺されたのですよね」 

「エッカは今も魔術が使える。刺したときに治癒の魔術を施すよう言っておいたのだ。ほら、前に見せたことがあっただろう、指先にともる炎」 

「魔術はそのようなこともできるのですか」 

「私が専門にしている時代だと、魔術は貴重で重宝されながらも生活に密着していた。医者や大工をはじめ、あらゆることに魔術が使われていた」 

「その頃にも魔術を殺しに使っていたのですか」 

「文献は多くない。どちらかというと生活術として魔術が使われていた。もっと政治形態が成熟してきたころになってはじめてそういった記述が目立つようになる」 

「そうだったのですか。それで、この死体を担いでどうするつもりですか」 

「林の中に投げ捨てておく。急ごう、エッカを追う」 

 見知らぬ暗殺者を林の影の茂みに押し込むのを手伝ったライラはソフミシアの後をついていった。ソフミシアがついて行くはエッカ、林の中を歩いているとすぐに見つかった。林の中の道なき道を歩いてゆくエッカは時折背後のソフミシアを気にするようなそぶりを見せた。ソフミシアがついてきているのを確かめているところ、エッカはライラが何をしようとしているのかを分かっているらしかった。 

 林は終わりが見えなかった。行く先を阻む樹を何度かわしてもそれは再び現れる。むしろ樹々は互いの間隔を詰めているかのようで、広場から逃げる三人を捕まえようとしている風にも感じられた。林はますます深くなり、森になろうとしている。 

 エッカには行く当てが見えているのであろうか。ソフミシアの後を追いながらライラは思った。意識して向かっている以上どこか目指しているところはあるのだろうけれども、その先に人の住める場所があるとは思えなかった。この島で人が住んでいるといえば、火山のふもとと港二つ、合計三つである。林の先が山のふもとなのは何となく見当がつくけれども、人の住んでいる南側の地域ではないのは確かだった。ソフミシアに行くあてを訪ねてみたけれども、満足いく答えは得られなかった。 

 林を縫って進む中、エッカの周りには異変を感じられなかったけれども、体が震えあがりそうになるほどの緊迫感をひしひしと感じていた。視界を幹で遮られ、聴覚は雨が空を切る音で役に立たない。エッカの後を確実に追ってゆかなければならない上、名前も依頼主も知らぬ刺客がどこにいるかも分からないのである。幹に隠れて待ち受けているかもしれない、すぐ後ろまで迫ってきているかもしれないのである。となればしっかりと目でとらえて、歩みを進める足の音を耳にとらえなければならない。集中力を極限まで高めてゆかなければたちまち見失ってしまう。 

 ライラたちに迫りくる樹木がはたと途絶えた。急に樹の並びがまばらとなった。地面をはい回る木の根は青い草に取って代わり、一面が整地されていたかのようになっていた。だが整地されてからはだいぶ久しいのが手に取るように分かる。木々が伐採されたのは事実だろうが、その代わりとなっている草はぼうぼうに生え散らかしており、奥にたたずむ朽ちた建物は時間の流れを物語っているのだった。建物の上部はもはや建物として形を成しておらず、基礎の上にそびえる壁はこの大雨で倒れてしまうに違いなかった。けれどもエッカは間違いなく廃屋へ向かっているのだった。 

 ライラは後を追おうと平野に踏み込もうとしたところ、ソフミシアが腕をつかんできた。ソフミシアの腕はたやすくライラを引きずり、樹木の陰に隠してしまった。エッカは歩くのを止めていない。どうして後を追わないのかライラは不満でならなかった。

 けれどもソフミシアはライラに意見させる隙を与えず人差し指を唇に当てて、それからある方向を指し示した。雨粒が目の前を遮る布のようになっているのは変わらないのだけれども、どうも視界が思っている以上に開けているのに気付いた。分厚い帆布だったものが今やレース、どうやら林の中にいる間に雨が落ち着いてきているらしかった。 

 でも、指さす先にはなにも目立った点がなかった。樹の壁が遠くまで並んでいるだけだった。遠くまで見渡せた。 

 かろうじて声になるぐらいのかすれ声でソフミシアに問いかけてみても、やはり一切の答えを返してはくれなかった。ただじっと指さした方面に目を凝らすばかりだった。ライラもそれにならって目を見開いてみたのだけれども、見える光景に変化はない。一体何を見つけて、何のためにライラに耳を貸せないほど注目しなければならないのであろうか。

 じっとソフミシアの視線を追ってややあってから、幹に不自然なものが出っ張っているのが目に入った。細長い棒。色は黒くて、幹と比べても明らかに質感が異なる。自然が生み出した柔らかみのある質感とはかけ離れた、規格のもとに生み出した人工的なものだった。どうやら廃墟に向けられているらしい雰囲気はあるものの、しかし結局のところ、それ以上のことは推し量れなかった。

 ソフミシアに聞くしかないのは明らかで、言葉を投げるべく背後に振り返った。けれどもどうしたところでとてもではないが尋ねることのできない状況に陥っていた。いつ手に入れたのか、ソフミシアの手には拳銃が握りしめられていた。ソフミシアに殺められた男が手にしていたものと同じ形、それを遠くのそれ、割りばしほどの太さにしか見えない棒切れを狙っていた。 

 ソフミシアは躊躇しなかった。引き金を三度引き、派手な銃声がとどろいた。耳をつんざく音の大きさに顔をそらしたけれども、それよりも早く大音量は風のようなものとなってライラの顔に直撃した。耳の中で、頭の中で、鋭い音が何度も響いた。

 ソフミシアの撃った銃弾は黒い棒に当たったわけではなかった。少なくとも一発だけは黒いもののすぐ奥にあった幹に当たり、ほかは全くの行方知れずだった。どこに着弾したのかも分からない、あてずっぽうの、とても殺し屋の腕とは思えないものだった。けれども黒い棒は恐れをなして、樹の陰に引っ込んでしまった。ソフミシアは依然として銃口を棒のいたところに向け続けていて、一方で人工物は表に出てこなかった。 

 その瞬間ソフミシアは脱兎となった。突然林の庇護から飛び出して、ライラを置いてけぼりとしてしまった。ソフミシアの手から銃はまだ離れておらず、途中途中で銃を黒のあった方向に向けながら廃墟へと走った。 

 一人取り残されて一瞬戸惑ってしまったものの、この場にとどまることがソフミシアに守ってもらえなくなることだと思い出すまでにそう時間はかからなかった。左右に注意を向けながらソフミシアがしたように林から出る。足元を気を付けながら右に左に意識を切り替えながら走っていたが、ソフミシアが警戒しているような危険は感じ取れなかった。林から顔をのぞかせる黒も見当たらなかった。 

 周りに気を向けながら走っていたライラだけれども、気が付いたときには周辺に気をかけないで正面の姿ばかりを追って必死になっていた。四方八方に銃を向けるというさぞ走りづらそうな走り方をしているにもかかわらず、さも正面を向いて走っているかのように速いのである。 

 銃声。 

 銃声、銃声。 

 ソフミシアが何者かとの応酬を繰り広げているかと思えば、銃を操っているそぶりはどこにもなかった。ソフミシアはどこにも銃口を向けていなかった。あたりを見回してみも銃のようなもの、あるいは黒光りするものは目に入らなかった。何度確かめても同じである。断続的に銃声がとどろく。 

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