過去と未来と

雨に打たれて

 宿に着いたライラが驚かされたのは、荷物をまとめるように言いつけて、しまいには宿を引き払ってしまったことだった。かと思えば別の宿に移動して、宿にある部屋すべてを借りてしまったのだ。一緒に食事をしたという余韻を感じる間なんてなかった。 

 ソフミシアが数ある鍵の束から選んだものは、一番奥まった部屋を開けるためのものだった。荷物を置くや否やソフミシアはライラを部屋の片隅に引っ張って、窓から姿が見えないようにしゃがませた。カーテン越しに外をチラリ見てから、ソフミシアもライラの後を追った。 

「エッカは自分が見張られているようなことを言っていたのか」 

「監視されていると言っていました。ですが、雨の中なら監視の目をまぎれるから、とも」 

「エッカはエッカで考えていたのだな」 

「あの、なにか分かったことがあるのですか。私にはさっぱりなのですが」 

「はっきりとしているわけではない。ただ、確かめる価値がありそうなことはある」 

「確かめる、ということはまた会う必要があるということですか」 

「頼めるのであればそうしたい。とはいえ、無理にこなす必要のあることでもない」 

 壁際に寄りかかるソフミシアはすると伏し目がちになって、深く考え込むようなそぶりを見せた。あたかも極めて高い集中の世界に埋没してしまっているかのような雰囲気にライラは言葉を紡げなかった。声をかけたところで反応をしてくれる顔をしていなかった。ソフミシアが世界から戻ってくるのを待つほかになにもできなかった。 

 エッカ。ややあってからソフミシアがつぶやきとともに戻ってきた。ライラが言葉を、会ってどうするのかを口にしようと息を吸ったその瞬間、ソフミシアの口が開いた。 

「一つ質問をして、その答えを持って帰ってきてほしい」 

「質問とはなんですか」 

「簡単な質問だ。私が生きている限りお前はいつ死んでもおかしくないのか」 

「ええと、それだけで分かるものなのですか」 

「分かってもらわないと困る。この手のやり取りは分かりやすさよりも周りにはわからないことを優先しなければならない」 

「じゃあそれを伝えればいいのですね」 

「返事を受け取ったら私のところに持ってきてほしい」 

 ソフミシアに頼まれたがまま大雨の中に飛び出したライラだったけれども、エッカに間違いなく会うことのできる場所の見当がつかなくて、通りの真ん中で途方に暮れてしまった。冷静に落ち着いて考えてみればごく当然のことで、落ち合う約束を交わしているわけでもなければ、会うことのできる場所の見当もつかなかった。 

 けれどもエッカの仕事はとにもかくにもソフミシアの命である。ソフミシアのいる場所から遠く離れるはずがない。となれば近場をうろちょろとさまよっていればエッカの目には留まるはずだ。姿をとらえられてからどこか人目のつかないところに入ればエッカもライラの前に現れやすくなるだろう。 

 ライラの期待はしかし豪雨の音にかき消されてしまった。大雨の中で、しかも夜となってはどこにも店は開いておらず、エッカとライラとが接触する場所を全く用意できない状態だった。なにより雨粒は視界を著しく奪った。夜の雨はまるで目にかぶさる蓋のようで、目を凝らしても目に収められる範囲は限られていた。 

 ライラを囲む状況は絶望出来だった。にもかかわらず彼女は根気強くあたりを歩き回った。わざとらしく道を右に左に蛇行して、時にはくるくる回って見せてその存在を示した。ぐっと耐えて、ソフミシアが心を開くようになったように、辛抱強く待ち続ければきっとエッカも応えてくれる。あきらめたくない気持ちだけがライラを動かすのである。 

 だが、突然の強風と横殴りとなった雨には、ライラの心も折れてしまうのだった。 

 とぼぼととソフミシアの元へ帰る。びしょびしょになってしまったことや、エッカを見つけられなかった、といった点は意外にも考えていなかった。ライラをひどく蝕むのはソフミシアの頼みごとに応えられなかったことだった。なにもかも自分で解決しようとするソフミシアが頼んできたことである。もしかしたら初めての頼まれごとかもしれない。絶対に達成しなければならないのにそれができなかった。だから雨に濡れて帰ってくるなりすぐ服を脱いで、ベッドに入ってしまったのだった。 

 一眠りしてもライラの気持ちは晴れなかった。目を覚ましたライラが最初に思ったことが自分の無力さだった。ソフミシアがなんでもできてしまうのとは大違いで、なにもできないのだ。 

 脳裏にかつて勤めていた会社での出来事を思い出す。このような絵はこの絵具にふさわしくない、鮮やかさがない。そう吐き捨てた上司の顔が憎たらしい。一度だけならまだよいが、あの上司のもとに入ってからはずっと同じ調子でののしられ続けた。ついには絵の具を使うよりも筆を絵具で汚すほうがうまいとまで口にした。自分の絵が否定されて、それが堪えられなくてライラは会社を飛び出した。そして気持ちを切り替えるための旅行。再出発しようとした矢先に思い知らされてしまった。 

 ため息とともに体を起こすと、ソフミシアがベッドのへりに座っているのが目に入った。ちょうど膝の横に腰を下ろしていて、背筋をぴんと伸ばしていた。どこぞの彫像よろしく微動だにしない雰囲気が漂っていたけれども、ライラがマットレスに手をつけばすぐに振り返ってきた。 

 ソフミシアはベッドから飛び上がってライラに駆け寄ってきた。マットレスに両手を沈めて、ぐっと顔を近づける。エッカとは会えたのか、どうして帰ってくるなりなにも言わないで寝てしまったのだ、昼のあのひどい顔はどういうことなのか。目と鼻の先で矢継ぎ早に言葉を並べる。ソフミシアらしくなかった。

 ソフミシアに半ば襲われたような格好のライラはあまりにも衝撃的で、頭にかかっていたもやもやを一気に吹き飛ばしてしまった。するとたちまち、寝起きに思い返していたことが怒涛のようにあふれかえってきた。ぼんやりと、あんなことがあった、こんなことがあった、といった淡々とした様子ではない、悔しい、憎い、辛い——強い感情を伴っていた。 

 押しつぶそうとする気持ちに上乗せされるのがソフミシアの襲撃だった。ソフミシアに迷惑をかけてしまったという気持ちが自己否定をますます強める。頭の中で自分自身を気にかけてくるソフミシアの姿が際限なく複製されて、三百六十度をソフミシアに囲まれて心配されてしまうような錯覚に陥った。彼女の心配の気持ちはしかしライラに対するあてつけか罵りのようになってライラの心に届くのである。 

 ライラはソフミシアにすがりついた。ソフミシアに飛びかかって押し倒してからは声をあげて泣くじゃくった。ソフミシアに申し訳ない一方で、ソフミシア以外に頼れる人がいないのも事実で、半ば混乱している状態だった。ライラはひたすら苦しい気持ちと悔しい気持ちとひどい苛立ちとが混ざり合っているばかりで、ライラ自身が抱きしめている人に対する考えはどこにもなかった。 

 ソフミシアはライラの突撃にすっかり困りきっている様子だった。自分の胸に顔をうずめて泣きじゃくる姿を見下ろすばかりだった。今まで生きてきた中で胸を預ける相手はいなかった、胸に飛び込んでくるとしたらソフミシアの命を狙って懐に飛び込む輩ぐらいしかなかった。懐に入ってきた敵をやり過ごして反撃する術であればいくらでも引き出しはあったのだけれども、ライラは敵ではなかった。 

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